第2章87話 クリスの焦り
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■第四大隊本部・大隊長室
クリス・ラングレーは、大隊長室の机に座っていた。
机の向かいでは、副官のマルク・レイノルズが、提出された書類を確認している。
室内は静かだった。
紙をめくる音だけが、時折聞こえてくる。
クリスは手元の書類へ視線を落としたまま、何度か口を開きかけた。
第四大隊には、第一大隊との対抗演習も控えている。
そのための準備も進めなければならないし、大隊長であるクリスにとって、決して軽く扱っていい仕事ではなかった。
だが、今のクリスにとって、それ以上に気になっていることがあった。
シエラとの婚約だった。
このまま何もしなければ、いずれ本当に結婚することになる。
しかも最近は、シエラに行動を見られているように感じることも増えていた。
まだ自由でいたいクリスにとっては、第一大隊との対抗演習も大切だが、こちらも放っておけない問題だった。
そして、そのシエラとの関係をどうにかしようとすると、必ず行き着くものがある。
騎士の誓いだった。
少し前。
クリスはレオンに頼み、オリオン社の方から婚約をどうにかできないかと動いてもらった。
だが、結局うまくはいかなかった。
そうなってくると、今度は、もう一つの問題が残る。
またも騎士の誓いだった。
クリスは以前レオンに、騎士の誓いについても尋ねた。
返ってきた答えは厳しかった。
騎士の誓いを守れない者は、もはや騎士ではない。
レオンは迷いもなく、そう言った。
そして先日。
今度はエリシアに呼び出され、シエラとの婚約について散々言われた。
騎士の誓いを立てた以上、守れ。
騎士としても。
人間としても、責任を取れ。
自分の都合で誓いを違えるような真似はするな。
さらに、クリスが考えた抜け道まで完全に潰された。
別の女性にも騎士の誓いを立て、その女性とはシエラより前から結婚の約束をしていたことにすればいい。
そんなことを考えたクリスに、エリシアは本気で怒った。
聖誓不信。
それが証明されれば、即座に騎士資格を失う。
それだけではない。
もし本当にそんなことをしたら、エリシアはもう友人として今まで通り付き合えない。
レオンも、おそらく同じだ。
騎士の誓いに厳格なレオンなら、クリスを軽蔑するだろう。
最後には。
これは警告でもある。
だが、それ以上に友人としてのお願いだから、絶対にするな。
そこまで言われた。
さすがのクリスも、その方法だけは諦めた。
だが。
シエラとの婚約そのものを諦めたわけではない。
クリスは、まだ自由でいたかった。
まだ一人の女性だけに決めたくない。
もっといろいろな女性と知り合いたい。
もっといろいろな女性と付き合ってみたい。
それから本当に結婚したい相手ができたなら、その時に決めればいい。
なぜ今すぐシエラ一人に決めなければならないのか。
エリシアにも、そのまま話した。
すると。
聞いた私が馬鹿でした。
そう言われた。
そのうえ、もう諦めて結婚しろとまで言われた。
当然。
クリスは納得していない。
レオンも。
エリシアも。
騎士の誓いを破るという選択肢だけは、まったく認めてくれなかった。
なら。
誓いを破らずに済む方法を探せばいい。
自分から騎士の誓いを違えることなく。
それでも、シエラとの婚約から抜けられる方法。
どこかに抜け道があるはずだった。
そして、ようやく尋ねる。
「なあ、マルク」
「はい。何でしょうか、クリス大隊長」
「騎士の誓いについて、どう思う」
マルクの手が止まった。
「騎士の誓い、ですか?」
「ああ」
「聖誓約のことでしょうか」
「そうだ」
クリスは、なるべく何でもない話のように答えた。
「騎士にとって、どのくらい重いものなのかと思ってな」
「非常に重いものだと思います」
マルクは迷わず答えた。
「そうか」
「はい」
「やっぱり重いか」
「当然ではありませんか?」
「まあ、そうだな」
クリスは手元の書類へ視線を戻した。
額に薄く汗が浮かんだが、マルクは気づいていない。
その時、大隊長室の扉が開いた。
「失礼します」
書記官のノーラ・セイルが、書類を抱えて入ってきた。
「こちら、今日中に確認をお願いしたい書類です」
「ああ。そこに置いてくれ」
「分かりました」
ノーラは机の端へ書類を置いた。
そのまま、クリスとマルクを交互に見る。
「何のお話をしていたのですか?」
「騎士の誓いについてだ」
クリスが答えた。
「騎士の誓い?」
「はい。クリス大隊長から、聖誓約について尋ねられていました」
マルクが説明する。
ノーラは少しだけ首を傾げた。
「聞いたことはありますけど、詳しくは知りませんね」
「騎士へ任じられる際に立てる誓いです」
マルクはそう言って、確認していた書類を机へ置いた。
「騎士となる者は、まず剣と盾を持ち、国へ忠誠を誓います」
「剣と盾を持つのですか?」
「はい」
「自分はこの国に仕える騎士である、と誓うのです」
「それで終わりですか?」
「いいえ」
マルクは首を振った。
「その後、改めて剣と盾を持ちます」
「またですか?」
「はい」
「今度は国ではなく、神へ誓います」
ノーラが少し目を見開いた。
「神様に?」
「はい」
「騎士として誠実に生きること」
「己の剣を正しく用いること」
「約束を違えないこと」
「騎士として恥ずべき行いをしないこと」
「そうした、騎士としての生き方そのものを神へ誓います」
「それが聖誓約ですか?」
「そうです」
クリスは手元の書類へ視線を落とした。
自分もやった。
騎士になった時に、確かにやったはずだ。
ただ。
ほとんど覚えていない。
「決まった言葉もあるのですか?」
ノーラが尋ねる。
「あります」
マルクは少し姿勢を正した。
そして、何も見ずに口にする。
「騎士は誠実であれ。心は清廉潔白たるべし。いかなる時も愛は一人のみ。これに背く者は、騎士としての称号を剥奪され、剣を置く覚悟をせねばならぬ」
ノーラが目を瞬いた。
「……それは何ですか?」
「騎士が覚えるべき規律です」
「全部覚えているのですか?」
「当然です」
「誰かに教えてもらうのですか?」
「僕は父から教えられました」
マルクは答えた。
「騎士を目指す者は、家族や先輩の騎士から教えられます」
「騎士なら、皆さん暗唱できるのですか?」
「当然です」
「すごいですね、騎士って」
ノーラは素直に感心した。
クリスは手元の書類を見たまま、小さく眉を寄せた。
そんなものもあったな。
自分も騎士になる前に覚えさせられた。
一度は全部覚えたはずだ。
だが。
今では、ほとんど覚えていない。
マルクが暗唱したのを聞いて、ようやく。
そんなことを習ったな。
と思い出した程度だった。
「つまり、騎士はその通りに生きなければならないのですか?」
「そういうことです」
「誠実である」
「はい」
「嘘をつかない」
「はい」
「約束を守る」
「もちろんです」
「それから……」
ノーラが少し考える。
「愛は一人のみ?」
「はい」
「恋人も一人だけという意味ですか?」
「そういう意味です」
クリスの書類をめくる手が止まった。
「騎士が複数の相手と同時に恋愛関係を持ったり、結婚しているにもかかわらず別の相手と関係を持つことは、強く忌避されます」
「不倫は駄目なのですね」
「騎士でなくても駄目だと思いますが」
「それはそうですね」
「ですが、騎士の場合は特に厳しく見られます」
クリスの額に、じわりと汗が浮かんだ。
もっといろいろな女性と付き合いたい。
ほんの先日。
エリシアへ堂々とそう言ったばかりだった。
「では、不倫をしたら、騎士の資格を失うのですか?」
ノーラが尋ねる。
「それだけで、直ちに騎士資格を失うわけではありません」
クリスの指が、ほんの少し動いた。
「そうなのですか?」
「はい」
マルクは頷いた。
「ただし、一つの規律を違えるだけでは済まず、複数の誓いに同時に背くような行為となれば、話は別です」
「別なのですか?」
「より重く扱われる場合があります」
「例えば?」
「そこまでノーラさんに教える必要はありません」
「どうしてですか?」
「知って、妙なことを考えられても困りますから」
「考えませんよ」
「信用できません」
「ひどくないですか?」
ノーラが不満そうな顔をする。
「では、実際にそんなことをした騎士もいるのですか?」
マルクは少し考えた。
「少なくとも、僕は聞いたことがありません」
「一人もですか?」
「はい」
「そこまで珍しいことなのですね」
「普通は、しようとも思わないでしょう」
「なるほど」
ノーラは素直に頷いた。
クリスは、何食わぬ顔で書類へ視線を落とした。
普通は、しようとも思わない。
自分は、つい先日それを思いついた。
シエラとの誓いがあるまま、別の女性にも騎士の誓いを立てる。
しかも、その女性との約束の方が先だったことにする。
おそらく、今マルクが話しているのは、まさにそれだ。
誠実であること。
愛は一人のみ。
どちらにも背く。
エリシアが本気で怒った理由が、今になって少し分かった。
クリスの額に、じわりと汗が浮かんだ。
やはり。
先にマルクへ相談しなくて、本当によかった。
これまでそんなことをした騎士の話すら聞いたことがないという男に。
自分はそれをやろうと思うんだが、どう思う。
などと相談していたら。
間違いなく、大変なことになっていた。
エリシアに先に話したのは、もしかすると正解だったのかもしれない。
「では、普段の約束も全部そこまで重いのですか?」
ノーラが話を戻した。
「いいえ」
「違うのですか?」
「普通の口約束まで、すべて聖誓約と同じように扱われるわけではありません」
マルクは少し考える。
「例えば、僕がノーラさんへ、今度食事をご馳走すると言ったとします」
「はい」
「一度くらい、都合が合わずに行けなくなったとしても、それだけで騎士として大きな問題になることはありません」
クリスの顔が上がりかける。
だが、すぐに書類へ戻した。
「では、約束を破っても構わないのですね」
ノーラが言う。
「構うに決まっています」
マルクは即座に否定した。
クリスの表情が止まる。
「一度、やむを得ず守れなかった程度なら、すぐに信用を失うことはないというだけです」
「同じようなことを二度、三度と繰り返せば、話は違います」
「何度も約束を違えれば、あの騎士は口先だけだと思われます」
「騎士としての信用にも関わるでしょう」
「一度なら許されても、何度も破るのは駄目なのですね」
「一度でも、破らない方がいいに決まっています」
マルクは真面目な顔で答えた。
「守れるか分からない約束を、簡単に口にするべきではありません」
「だから、マルクさんは私と食事へ行く約束をしてくださらないのですか?」
「はい」
「そこは、もう少し考えてくださいよ」
「言質を取ろうとしないでください」
「慎重ですね」
「騎士ですから」
マルクは当然のように答えた。
「ですから、普段から下手に言質を取られないようにしています」
「私にも気をつけてほしいですか?」
「お願いします」
「今後は気をつけます。多分ですけど」
「……」
マルクは何も答えなかった。
ノーラの言葉を、まったく信用していない顔だった。
その横で。
クリスの手元の書類は、最初に開いた頁から一枚も進んでいなかった。




