第2章85話 賞与
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
その頃。
第四大隊の面々から行方を探されている男は、総騎士団副長府庁舎にいた。
「なあ、レオン」
「何だ」
「賞与って、結局何くれるんだ?」
レオンは机の上の書類から顔を上げた。
「まだ勝ってないだろ」
「勝った時の話だよ。結構いいものなんだろうな?」
「何でそんなに気にしてるんだ」
「気にするだろ。第一大隊と戦わされるんだぞ。しかも二週間で」
クリスは不満そうに腕を組んだ。
「こっちは若い奴も多いんだ。それなりのものがないと割に合わねぇ」
「そうか」
「そうだよ」
レオンは少し考えてから、頷いた。
「まあ、考えてはある」
「本当か?」
「ああ」
「何だ?」
「それは勝ってからだ」
「教えろよ」
「嫌だ」
「いいものなんだろうな?」
「結構使えるものだぞ」
「使えるもの?」
「ああ。期待していい」
「…………」
クリスの顔が少し明るくなった。
「本当だな?」
「何だよ」
「いや、お前がそこまで言うなら期待するぞ」
「ああ」
レオンにとっては、本当に使えるものだった。
クリスが何を想像しているのかは知らない。
「それと」
「まだあるのか?」
「勝ったら、特別に休暇も一日やる」
「…………」
クリスが止まった。
「休暇?」
「ああ」
「一日?」
「一日」
「普通の休暇とは別に?」
「ああ」
クリスが身を乗り出した。
「じゃあ通常の休暇と合わせたら、二日休めるのか?」
「ああ」
「二日?」
「そう言ってるだろ」
「本当だな?」
「さっきからそればっかりだな」
「それならかなりやる気出てきた」
「現金な奴だな」
「休みは大事だろ!」
「俺に言うな」
「お前が一番休み欲しがってるだろ」
「だから言うな」
少し離れたところでは、イリスが書類を確認していた。
二人の会話は当然聞こえているが、特に口を挟むことなく仕事を続けている。
「賞与は使えるもの。特別休暇一日。間違いないな?」
「ああ」
「よし」
かなり満足したらしい。
その時、第一執務室の扉が開いた。
「クリス大隊長」
「ん?」
入ってきたのは、第四大隊付き副官のマルクだった。
そしてクリスを見るなり、わずかに安堵した顔をする。
「やはり、ここでしたか」
「何だよ。探したのか?」
「探しました」
「何で?」
「大変です」
「何が?」
マルクは一度息を整えた。
「反乱です」
「…………」
クリスがマルクを見る。
レオンも書類から顔を上げた。
「反乱?」
「はい」
「どこで?」
「第四大隊です」
「おい、何があった?」
クリスが椅子から身を起こす。
「大隊長に対する不満が、かなり溜まっています」
「それ、反乱って言うのか?」
「今の私には、ほとんど同じです」
「何したんだよ、クリス」
レオンが聞いた。
「知らねぇよ! 俺、何もしてないぞ!」
「それも問題ですが、今回は掲示物です」
「掲示物?」
「見ていないのですか?」
「何を?」
マルクは少し嫌そうな顔をした。
「演習の告知です」
「ああ」
レオンが先に反応した。
「あれか。第一大隊と第四大隊のやつ」
「はい」
「見たぞ。何か書いてあったな」
レオンが思い出す。
「第一大隊が精鋭大隊」
「そうです」
「第四大隊が……何だった?」
少し考えた。
「お笑い大隊?」
「違います!」
マルクの声が一気に大きくなった。
「遊び人大隊です!!」
一瞬、第一執務室が静かになった。
「ふっ……」
小さな音がした。
マルクがそちらを見る。
イリスが口元を手で押さえていた。
「……申し訳ありません」
少しだけ顔を逸らす。
「突然、とても強い口調で言われましたので……」
「笑い事ではありません、殿下」
「はい。申し訳ありません」
そう言いながら、まだ少し肩が動いていた。
「で、何だよ。遊び人大隊って」
クリスが聞く。
「大隊長のせいです」
「何でだよ!」
「第四大隊の皆さんがそう言っています」
「俺のせい?」
「はい」
「隊長が遊び人なので、情報部が面白がって命名したんだと」
「解説するなよ!」
「事実ですので」
「お前までメリーみたいなこと言うな!」
マルクは気にしなかった。
その一方で、レオンは少し感心したような顔をしていた。
「何だよ、レオン」
「いや」
「何だよ」
「結構面白いなと思って」
「感心してないで、情報部の奴らを注意しろよ!」
「何でだ?」
「何でって、勝手に人の大隊を遊び人大隊にしてるんだぞ!」
「でも」
レオンは少し笑った。
「お前が遊び人なのは間違ってないし」
「おい!」
「これで少しは反省してくれればいいんじゃないか?」
「何を反省するんだよ!」
「普段の行い」
「俺の普段の行いまで話を広げるな!」
「それに」
レオンはまだ少し面白そうだった。
「命名の仕方としては、なかなかセンスあると思うぞ」
「褒めるな!」
「私も、名前だけなら面白いとは思います」
マルクが真顔で言った。
「マルク?」
「ですが」
マルクの表情が少し険しくなる。
「自分まで巻き込まれるのは、いい迷惑です」
「そこで俺を非難するな!」
「原因はクリス大隊長ですので」
「こんなところで俺のこと責めるなよ!」
マルクは気にせず続けた。
「第四大隊の皆さんは真面目に仕事をしています。訓練もしています。今回の演習に向けた訓練も毎日しています」
「知ってるよ」
「それなのに、大隊長の評判のせいで第四大隊全員が遊び人だと思われています」
「…………」
「他大隊の者から『今日も遊んでいるのか』『仕事をしなくていいのか』と言われた者もいます。女性騎士からは、自分まで遊んでいる女だと思われると抗議されました」
「俺に言われてもな」
「大隊長のせいです」
「だから即答するな!」
マルクは少し黙ってから続けた。
「それに、私もです」
「お前?」
「はい」
今度は、明らかに嫌そうな顔になった。
「他の副官から、遊び人副官と呼ばれました」
「…………」
「遊び人副官?」
「はい。私は遊び人ではありません」
「分かってるよ」
「普通に仕事をしています」
「知ってる」
「クリス大隊長を探しているだけで、遊びに付き合っているわけでもありません」
「…………」
「それなのに、『今日も大隊長と遊びに行くのか』『楽な仕事でいいな』とまで言われました」
「…………」
また、小さな笑い声が漏れた。
「ふっ……」
マルクがゆっくりイリスを見る。
「……殿下」
「申し訳ありません」
イリスは今度こそ困った顔をした。
「本当に申し訳ありません。ですが、遊び人副官という言葉が……」
そこでまた口元を押さえた。
「すみません」
その様子を見たレオンが、ぼそりと呟いた。
「……やっぱり面白いな」
「レオン!」
クリスがすぐに振り向いた。
「何だよ」
「だから面白がるな!」
マルクは深く息を吐いた。
「ノーラさんも、同僚の書記官から遊び人書記官と呼ばれたそうです」
「ノーラまで?」
「はい」
「怒ってた?」
「いいえ。ただ、『どうして自分まで』と、かなり嘆いていました」
「ひどいな」
「ひどいです」
マルクは真顔だった。
「ですから第四大隊の者たちが、大隊長を何とかしてくれと大隊長室の前に集まっています」
「俺を何とかしろって?」
「はい」
「何を?」
「そこまでは私にも分かりません。ただ、少なくとも遊び人大隊と呼ばれない程度には何とかしてほしいそうです」
「無茶言うなよ」
「原因は大隊長です」
「お前、今日ちょっと冷たくない?」
「遊び人副官と言われましたので」
「根に持ってるな!」
「はい」
「認めるのかよ!」
その時、また扉が開いた。
「お兄様」
メリーだった。
「何を騒いでいるんですか?」
「いや、何でもない」
レオンが答える。
「何でもない声量ではありませんでしたが」
「何でもない」
メリーは室内を見た。
レオン。
クリス。
マルク。
そして、まだ少し笑いを堪えているイリス。
「……?」
だが、それ以上は追及しなかった。
「それより、クリスさん」
メリーが第四大隊長を見る。
「午後から、また演習に向けた説明があります。忘れないでください」
「ああ。分かった」
「今度は大隊本部にちゃんといてください」
「…………分かったよ」
クリスは仕方なく立ち上がった。
「じゃあ戻るか」
「はい」
マルクも一緒に扉へ向かう。
だが、その直前、クリスが振り返った。
「レオン」
「何だ」
「賞与と休暇」
「ああ」
「本当だからな?」
「本当だ」
「使えるいいものと、特別休暇一日」
「ああ」
「ちゃんと約束したからな?」
「した」
「騎士に二言はないな?」
「…………」
レオンが眉を寄せた。
「そんなことで、その言葉使うか?」
「いいだろ、別に。賞与と休暇だぞ。大事だろ」
「それにしても、お前最近それに妙にこだわってないか?」
「…………」
クリスが一瞬止まった。
「何のことだ?」
「騎士に二言はないってやつ。前にも聞いた気がするんだよな」
「気のせいだ」
「そうか?」
「気のせいだ」
「……」
「とにかく、頼んだぞ!」
「ああ」
「絶対だからな!」
「分かったよ」
クリスはマルクと一緒に第一執務室から出ていった。
レオンは閉じた扉を見ながら、少しだけ首を傾げた。
「何なんだ、あいつ」
イリスは、まだ少しだけ笑っていた。
■ヴァイス騎士団・第四大隊本部
第四大隊本部へ戻ってきたクリスは、建物に入ってすぐに足を止めた。
大隊長室の前に、人がいた。
騎士も兵士もいる。
かなりの人数だった。
「……何だこれ」
「申し上げたでしょう。大変です、と」
横にいるマルクが答えた。
「多すぎないか?」
「朝から増えました」
その時、一人がクリスに気づいた。
「あ! 大隊長!」
「クリス大隊長!」
全員が一斉に振り返った。
「大隊長! 掲示物見ましたか!」
「遊び人大隊ですよ!」
「何なんですか、あれ!」
「俺たち普通に仕事してます!」
「私もです!」
「他の大隊から笑われたんですよ!」
「何とかしてください!」
「待て待て! 一人ずつ言え!」
「大隊長のせいです!」
「それはもう聞いた!」
「何とかしてください!」
「だから何をだよ!」
「遊び人大隊です!」
「俺たちまで遊び人扱いされてるんですよ!」
完全に囲まれた。
マルクは少し離れたところで、それを眺めている。
「分かった!」
クリスが声を張った。
「分かったから、ちょっと黙れ!」
ようやく周囲が静かになる。
クリスは集まった面々を見回した。
「お前らに、いい話がある」
「……いい話?」
「ああ」
「何です?」
さっきまで抗議していた者たちが、少しだけ前へ出る。
「第一大隊との演習だが、俺たちが勝ったら賞与が出る」
「…………」
「賞与?」
「ああ」
「本当ですか?」
「本当だ」
「副長閣下から?」
「ああ」
クリスは胸を張った。
「俺がレオンと直接交渉して、確約させてきた」
「…………」
「確約?」
「ああ」
「賞与を?」
「そうだ」
「どんなものなんですか?」
「それはまだ教えてくれなかった」
「何だ……」
「待て待て」
クリスは手を上げた。
「ただし、レオンはかなり使えるものを考えてあるらしい」
「使えるもの?」
「ああ。しかも俺に『期待していい』って言った」
「…………」
空気が変わった。
「副長閣下が?」
「本当に?」
「本当だ。俺が何回も確認した」
「じゃあ、結構いいものなんじゃ……」
「そういうことだ」
クリスはかなり得意げだった。
「俺が交渉して、ちゃんと約束させたからな」
「もしかして……賞金とか?」
誰かが言った。
「賞金?」
「あり得るんじゃないか?」
「かなり使えるものなんだろ?」
「期待していいって副長閣下が言ったんだろ?」
「じゃあ金かもしれないぞ!」
「賞金!」
「おお!」
「待て、俺は賞金だとは言ってないぞ」
クリスが一応止めた。
だが、もう遅かった。
「でも、かなりいいものなんですよね!」
「まあ、レオンが期待していいって言ったからな」
「やった!」
「賞与!」
「賞金かもしれない!」
「第一大隊に勝とう!」
さっきまでクリスを取り囲んでいた面々の顔から、不満が急速に消えていく。
「それだけじゃないぞ」
クリスが続けた。
「まだあるんですか?」
「ああ。特別休暇一日だ」
「…………」
「特別休暇?」
「普通の休暇とは別だ。だから通常の休暇一日と合わせて、二日休める」
「二日!?」
「ああ。勝てばな」
今度こそ完全に空気が変わった。
「さすが大隊長!」
「賞与だけじゃなくて休暇まで取ってきたんですか!」
「二日休める!」
「大隊長!」
「さすがです!」
マルクは黙って見ていた。
つい先ほどまで、大隊長を何とかしてほしい、遊び人大隊なんて呼ばれたくないと訴えていた者たちである。
「クリス大隊長!」
「第一大隊に勝ちましょう!」
「やります!」
「絶対勝ちます!」
「賞与もらいましょう!」
「賞金かもしれないぞ!」
「二日休むぞ!」
「おお!」
「遊び人大隊なんて言わせません!」
「そうだ! 第一大隊に勝てばいいんだ!」
クリスもすっかり気分がよくなってきた。
「そうだ! 勝てばいい!」
「勝って賞与も休暇も全部もらうぞ!」
「おお!」
「大隊長万歳!」
「クリス大隊長万歳!」
「大隊長万歳!」
「おう!」
その盛り上がりの中で、マルクだけは黙っていた。
「第一大隊を倒すぞ!」
「おお!」
「賞与!」
「休暇!」
「大隊長万歳!」
周囲はすでに、勝った後の話で盛り上がっている。
だが、相手は第一大隊だった。
旧第七騎士団の精鋭を母体とした、ベテランの多い大隊であり、現在のヴァイス騎士団の中でも、単独なら最強といっていい。
一方の第四大隊には、若い騎士や兵士も多い。普通に正面から戦えば、第一大隊の方が明らかに強い。
「クリス大隊長!」
「勝ちましょう!」
「おう!」
それでもクリスを中心に、第四大隊の面々は完全に勝った後の話をしていた。
その中で、マルクだけがどこか不安そうな顔をしていた。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
しばらくして。
第一執務室では、いつもの仕事が再開していた。
レオンも書類。
イリスも書類。
メリーも自分の仕事を進めている。
「ところで、お兄様」
メリーがふと顔を上げた。
「何だ」
「先ほどの賞与ですが」
「ああ」
「クリスさん、かなり期待していましたよね」
「そうだな」
「帰る直前まで、何度も確認していましたし」
「ああ」
「それで、その賞与というのは何なんですか?」
「ああ」
レオンはあっさり答えた。
「ろうそく」
「…………」
メリーの手が止まった。
「……はい?」
「ろうそく」
「…………」
「倉庫にたくさん余ってるだろ」
「ありますが」
「だから第四大隊が勝ったら、一人一本ずつやろうと思ってる」
「…………」
「かなり使えるぞ。ろうそく」
「…………」
「メリーも欲しいならやるぞ」
「…………」
メリーは黙った。
何も言わない。
レオンは不思議そうに見る。
「いらないのか?」
「…………」
「まだ結構あるぞ」
「…………いりません」
「そうか」
「お兄様」
「何だ」
「先ほど、クリスさんに『期待していい』とおっしゃっていましたよね?」
「ああ」
「その結果がろうそくなんですか?」
「そうだ」
「…………」
「使えるだろ」
「使えます」
「じゃあいいじゃないか」
「そういう話ではありません」
「何がだ?」
「賞与としてもらって嬉しいかどうかの話です」
「ろうそくもらったら使えるだろ」
「クリスさん、怒りますよ」
「そうか?」
「怒ります」
レオンは少し考えた。
「じゃあ、他のものにするか」
「お願いします」
「余ってる建材とか」
「…………」
今度はメリーが完全に動きを止めた。
「本気で言っていますか?」
「ああ。使えるだろ」
「絶対にやめてください」
「何でだ」
「絶対にです」
「まだ余ってるぞ。板とか」
「いりません」
「石材もある」
「いりません」
「使えるぞ」
「賞与ですよ?」
「ああ」
「第四大隊の皆さんに『よく頑張りました』と言って、板や石を渡すんですか?」
「使えるだろ」
「お兄様」
メリーがかなり真剣な顔をした。
「クリスさん、多分切りかかってきますよ」
「そこまでか?」
「そこまでです」
「…………」
「ろうそくも駄目です」
「分かった」
「建材もです」
「分かった」
「余った備品も駄目です」
「まだ言ってないだろ」
「先に止めました」
その時、小さな笑い声が聞こえた。
「ふっ……」
メリーが横を見る。
「お姉様?」
イリスだった。
書類を持ったまま俯き、肩を少し震わせている。
「どうしたんですか?」
「……すみません」
イリスが顔を上げた。
「少し、先ほどからはまってしまって……」
「大丈夫ですか?」
「はい」
イリスはまだ少し笑いながら、メリーを見る。
「私のことは気にしなくて大丈夫です。そのままお仕事に戻ってください」
「…………」
「私が笑っているのは、無視していただいて構いません」
「……分かりました」
メリーは自分の書類へ戻った。
イリスも書類へ視線を落とす。
ただ、まだ少しだけ口元が緩んでいた。
一方、レオンだけはしばらく何も書かなかった。
ろうそくは駄目。
建材も駄目。
余った備品も、おそらく駄目。
レオンは本気で考えた。
「何なら喜ぶんだ……」
その答えは、まだ出なかった。




