第2章83話 顔まで嫌なのか?
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 ロングの街――
■ロングの街・食事処
翌日の夕方。
クリスは予約していた食事処で、一人待っていた。
約束の時刻までは、あとわずか。
レオンが誰を用意したのか、名前までは聞いていない。ただ、シエラの知らない女性にすること。そして、事情をきちんと説明しておくこと。そこだけは何度も念を押した。
しばらくして、店の扉が開いた。
「…………」
入ってきた女性を見て、クリスは少し驚いた。
マリニーファだった。
いつもより服装が整っている。髪も丁寧にまとめられていた。
「マリか」
クリスは少し安心した。
少なくとも知らない相手ではない。それに、ここへ来たということは、レオンから事情を聞いたうえで引き受けてくれたのだろう。
「来てくれたんだな」
「…………」
「助かった。引き受けてくれてありがとう」
だが、マリニーファの反応がおかしい。
店内へ入った時には、どこか嬉しそうだった。それがクリスを見つけた途端、見る見るうちに消えていった。
「……どうして、クリス様がいらっしゃるのですか?」
「何でって」
クリスは首を傾げる。
「今日のためだろ」
「今日?」
「ああ」
「…………」
マリニーファは店内を見回した。
「レオン様は?」
「来ないぞ」
「…………」
マリニーファが止まった。
「来ない、とは?」
「仕事だろ。今日は俺と――」
「少々お待ちください」
マリニーファが遮った。
「私は、レオン様から今日この店へ来るように言われました」
「ああ」
「大切なお話があるとも」
「ああ……」
そこまで聞いたところで、クリスにも嫌な予感がした。
「マリ」
「何でしょうか」
「お前、今日のこと何て聞いてる?」
「ですから、午後六時にこちらへ伺うように、と」
「それだけか?」
「少し早めに来てほしいとも言われました」
「他には?」
「大切なお話がある、と」
「…………」
クリスは額を押さえた。
「俺のことは?」
「何も」
「今日、俺と食事することは?」
「初めて聞きました」
「…………」
事情も説明しておけ。確かに言ったし、レオンも分かったと答えた。
なのに。
「あの野郎……」
「クリス様?」
「いや。何でもない」
マリニーファは少し俯いた。
「私は、レオン様とお食事ができるものだと……」
「…………」
そのまま入口へ向き直る。
「帰ります」
「待て!」
クリスは慌てて立ち上がる。
「何でしょうか」
「せめて話だけ聞いてくれ」
「嫌です」
「頼む。ここまで来たんだから、少しくらいいいだろ」
「私はレオン様とお会いするつもりで来たのです」
「それについては本当に悪かった」
「クリス様に謝られても困ります」
「俺も困ってるんだよ!」
クリスは頭を抱えたくなった。ここで帰られたら、何のために店まで予約したのか分からない。
「とにかく、少しだけでいい」
「…………」
「事情を聞いてから決めてくれ」
「聞いたら帰ってもよろしいですか?」
「それは聞いてから考えてくれ」
マリニーファは明らかに嫌そうだったが、それでも、すぐに帰るのだけはやめたらしい。
「分かりました」
「助かる」
「お話だけです」
「ああ」
クリスは席を示した。
「こっちだ」
そして、マリニーファを案内しようと手を差し出す。
「…………」
マリニーファはその手を見た。
次にクリスを見て、もう一度、手を見る。
「何だよ」
「…………」
「席まで案内するだけだぞ」
マリニーファはしばらく迷ったあと、ようやく手を伸ばした。
だが、握らなかった。
差し出されたクリスの手に、人差し指の先だけをそっと触れさせた。
「…………」
クリスは自分の手を見る。
指が一本だけ乗っている。
「お前……」
「何でしょうか」
「そんなに嫌なのかよ」
「はい」
「即答するなよ!」
「聞かれましたので」
「普通に手くらい取れないのか?」
「これで十分です」
「指一本だぞ」
「十分です」
「…………」
どうやら、これ以上を求めても無駄らしい。
クリスは少し傷つきながらも、そのままマリニーファを席まで案内した。
二人が向かい合って座る。
「それで」
「何ですか」
「事情を説明する」
「短くお願いします」
「分かったよ」
クリスは簡単に事情を説明した。
シエラとの婚約。
自分としては、その婚約をどうにかしたいこと。
別の女性と親しそうにしているところを見せれば、婚約の話が壊れるかもしれないと考えたこと。
そのため、レオンに相手を一人用意してくれと頼んだこと。
そこまで聞いたマリニーファは、しばらく黙った。
「…………」
「分かったか?」
「……レオン様」
「何だ?」
「ひどいです」
「俺じゃないのかよ」
マリニーファは悲しそうに俯いた。
「こんなことのために、私を呼んだのですか」
「俺も、お前が来るとは知らなかったんだ」
「レオン様とお食事ができると思っていたのに……」
「それは悪かったって」
「クリス様と二人で食事をするためだったなんて」
「そんなに嫌そうに言うなよ」
「レオン様、ひどいです」
「また言ったな」
「よりによって、クズリ様と……」
「おい」
「二人きりで……」
「名前違うし! 悪意感じるし! そこまで嫌がることないだろ!」
クリスの声が少し大きくなった。
マリニーファが顔を上げる。
「だって、クリス様ですよ?」
「俺だと何なんだよ!」
「…………」
「さっきから何回嫌そうな顔するんだよ」
「そう見えましたか?」
「見えるよ!」
店へ入って自分を見つけた瞬間に落胆した。
帰ろうとした。
差し出した手には、指一本しか触れなかった。
事情を説明すれば、今度は何度も「レオン様、ひどい」と言われる。しかも、そのたびに自分と二人でいることまで嫌そうに付け加えられている。
さすがのクリスも、少しずつ傷ついてきた。
「……お前、本当に俺のこと嫌いなんだな」
「そうですね」
「少しは迷えよ」
「聞かれましたので」
「…………」
クリスは一度黙った。
ここまで言われると、逆に気になってくる。
「じゃあ聞くけどな」
「はい」
「俺のどこがそんなに嫌なんだ?」
マリニーファはクリスを見て、少し考えた。
「顔と、仕草ですかね」
「…………」
クリスが止まった。
「顔?」
「はい」
「顔までなのか?」
「好みではありません」
「嫌いって言ったようなもんだろ、それ」
「そうでしょうか」
「何で好みじゃないんだよ」
マリニーファは改めてクリスの顔を見る。
「健康そうです」
「…………」
「何だって?」
「とても健康そうです」
「それの何が悪いんだよ」
「悪いとは言っていません」
「じゃあいいだろ」
「でも、好みではありません」
「…………」
「血色もいいですし、溌剌としています」
「普通は褒めるところだぞ」
「そうですね」
「よく眠ってそうとかも?」
「はい」
「寝てるよ」
「そうでしょうね」
「何で残念そうなんだよ!」
マリニーファは真面目だった。
「仕事で疲れているように見えませんので」
「疲れてない方がいいだろ!」
「一般的にはそうだと思います」
「じゃあ何なんだよ!」
「私の好みではありません」
「好み強すぎないか、お前」
マリニーファは少し考えた。
「それに、いつも楽しそうです」
「それも悪いのか?」
「悪くはありません」
「じゃあ――」
「少し、へらへらして見えます」
「言い方!」
クリスが思わず声を上げた。
「私は、もっと真剣で、深刻そうなお顔の方が好きです」
「……例えば?」
「レオン様です」
「やっぱりあいつかよ!」
マリニーファの表情が、ほんの少し柔らかくなる。
「レオン様はいつもお仕事のことを考えていますし、少し疲れていて、真剣で、時々とても重苦しいお顔をしています」
「それ、褒めてるのか?」
「はい。好きです」
「…………」
クリスは少し黙った。
「……まあ、顔の好みは分かった」
「はい」
少し考えてから、クリスはマリニーファを見る。
「でも俺は、お前の顔も仕草も好きだけどな。たまに髪を触ったり、笑う時に口元を押さえたりするだろ。ああいうの、可愛いと思うぞ」
「…………」
マリニーファの目が、少し冷たくなった。
「何だよ」
「クリス様」
「何だ?」
「では、はっきり申し上げます」
「なんだ?」
「そもそも、どうして第一執務室にあんなに来るんですか」
「……レオンに用があるからだろ」
「用もない時にも来ていますよね」
「まあ……たまにはな」
「いろいろな人に話しかけていますよね」
「話くらいするだろ」
「楽しそうにしていますよね」
「楽しそうなのも駄目なのかよ!」
「仕事中ですよね」
「してるよ、仕事は!」
何かクリスは責められている気分になった。
「それで、どうして私のそんなところまで見ているんですか」
「別に見ようとしてるわけじゃねえよ。目に入るんだよ」
「ご自分のお仕事に集中してください」
「してるって!」
マリニーファはじっとクリスを見る。
「用もなく第一執務室へ来て、いろいろな人に話しかけて、楽しそうにして、そのうえ人の細かい仕草まで見ているんですよね」
「何で全部まとめると、俺が何も仕事してないみたいになるんだよ!」
「そう見えますので」
「してるよ!」
「それから、私のことは見ないでください」
「何でだよ。可愛いと思ってるだけだぞ」
「そういうところが嫌なんです」
「褒めてるんだけどな!?」
「嫌いな人には、そんなところまで見られたくありません」
「…………」
クリスが止まった。
「そこまではっきり言う?」
「今までは少し遠回しに言っていました」
「遠回しだったのか!?」
「はい」
「十分刺さってたぞ!」
マリニーファは小さく首を傾げた。
「では、もう分かっていただけたと思います」
「何をだよ」
「私がクリス様をあまり好ましく思っていないことです」
「最後だけ妙に丁寧に言うな!」
「聞かれましたので」
「そこに戻るのかよ……」
クリスは大きく息を吐いた。
「とにかく、今日だけでも少し協力してくれ。これじゃ何のためにここまで来たのか分からないだろ」
「…………」
「本当に少しだけでいい」
マリニーファは明らかに嫌そうな顔をしたが、しばらく考えたあと、小さく息を吐いた。
「少しだけです」
「分かった」
「本当に少しだけですからね」
「ああ」
そこへ料理が運ばれてきた。
二人は食事を始める。
クリスは周囲へ視線をやった。
シエラの姿は見えないが、どこかから見られている可能性はある。
少なくとも今は、二人で向かい合って食事をしている。
遠目からなら、それなりに親しそうに見えるかもしれない。
「もう少し楽しそうにできないか?」
「どうすればいいんですか」
「少し笑うとか」
マリニーファはクリスを見る。
「…………」
そして、無理に口元を動かした。
「…………」
「怖い」
「失礼ですね」
「いや、もう少し自然にだな」
「無理です」
「早いな!」
マリニーファは真顔に戻った。
「やはり無理です」
「待て」
「何でしょうか」
「今、少しだけ付き合うって言ったばかりだろ」
「言いました」
「まだほとんど時間経ってないぞ」
「分かっています」
「じゃあ、もう少しくらい――」
「ですが」
マリニーファが言葉を遮った。
「座ってから、いろいろ考えてしまいました」
「何をだよ」
「私は何も悪いことをしていませんよね?」
「してないな」
「なのに、どうしてこんなことをしているのでしょうか」
「それは作戦に協力して――」
「分かっています」
マリニーファは俯いた。
「分かっていますけど、何も悪いことをしていないのに、罰を受けているような気分になってきました」
「罰って……」
「レオン様とお食事ができると思って来たんです」
「ああ」
「それなのに、来てみたらクリス様がいて」
「そこは悪かったって」
「事情を聞いたら、今度はクリス様と恋人のように振る舞わなければならなくなって」
「だから今日だけだ」
「それが嫌なんです」
「…………」
マリニーファはますます俯いた。
「さっきまでは、少しくらいなら我慢できると思いました」
「じゃあ――」
「でも、実際にやってみたら駄目でした」
「何でだよ」
「自分が惨めになってきました」
「…………」
「クリス様と付き合っているように見せるために、笑ったり、楽しそうにしたりしている自分が……だんだん惨めに思えてきて」
「そこまでかよ」
「はい」
「俺と恋人に見られるのが、そんなに嫌なのか?」
マリニーファは顔を上げた。
「はい」
「即答かよ!」
「もう自分の心に嘘をつきたくありません」
「大げさだろ!」
「大げさではありません!」
マリニーファが勢いよく立ち上がった。
「もう限界です!」
「待て、マリ!」
「無理です!」
「せめて料理くらい食っていけ! ここの料理はうまいぞ!」
マリニーファは一瞬だけ足を止めた。
「料理はおいしいと思います」
「だろ? だったら――」
「でも」
マリニーファはクリスの顔を見た。
「クリス様のお顔がまずいので、せっかくのお料理まで台無しです」
「俺の顔のせいで料理までまずくなるのかよ!」
「はい」
「即答するな!」
「これ以上ここにいると、料理まで嫌いになりそうです」
「俺のせいで!?」
「失礼します!」
「おい!」
マリニーファは小さく頭を下げると、そのまま逃げるように店を出ていった。
「…………」
クリスは追いかけることもできず、その場に立ち尽くした。
ほんの少し前まで、少しだけなら協力すると言っていたはずだった。
それが今では、まるで何かから逃げるように走り去ってしまった。
周囲から、少し同情するような視線を感じる。
最悪だった。
浮気をしているように見せるどころか、別の女性に言い寄って、盛大に振られた男のように見える。
だが、今のクリスには、それよりも気になることがあった。
自分の頬へ触れる。
「……俺の顔、そんなに駄目か?」
ここまで言われると、本当に自信がなくなってくる。
「そんなに落ち込まなくてもいいと思いますよ」
「…………」
聞き覚えのある声がした。
クリスがゆっくり顔を上げると、いつの間にかシエラが立っていた。
「……いつからいた」
「少し前からです」
「見てたのか」
「少しだけ」
「最悪だ」
シエラは先ほどまでマリニーファが座っていた席を見る。
「座ってもいいですか?」
「好きにしろ」
シエラは向かいへ腰を下ろし、落ち込んでいるクリスを見る。
「どうされたんですか?」
「…………」
「かなり落ち込んでいますね」
「顔が嫌いだって言われた」
「顔ですか?」
「ああ」
クリスは自分の頬を触った。
「正確には、健康そうで、仕事で疲れて見えないのが気に入らないらしい」
シエラは少し黙った。
「笑うなよ」
「笑っていません」
「ちょっと笑いそうだっただろ」
「気のせいです」
「…………」
シエラは改めてクリスの顔を見る。
「それでしたら、マリニーファさんの好みの問題では?」
「……そうなのか?」
「健康そうに見えることは、普通は悪いことではありません」
「そうだよな?」
「はい」
「俺の顔がおかしいわけじゃないよな」
「そういう意味ではないと思います」
「……そうだよな」
少しだけ自信が戻った。
そこで、クリスはふとシエラを見る。
今、マリニーファさんと言った。
名前を知っている。
(……知ってたのかよ)
クリスは内心で頭を抱えた。
レオンに頼んだことを思い返すと、どうやら、あいつに任せた時点で何かを間違えていたらしい。
だが、それを今ここで口にする気にはならなかった。
シエラは何も気づいていない様子で、卓の上を見る。
「料理、まだ残っていますね」
「あいつ、ほとんど食わずに帰ったからな」
「では、私も何か頼んでいいですか?」
「好きにしろ」
シエラは店員を呼び、自分の料理を注文した。
クリスは大きく息を吐く。
婚約を壊すために用意した食事だった。別の女性と親しそうにしているところを見せるはずだった。
ところが、その女性には差し出した手へ指一本しか触れてもらえず、何度も嫌がられ、最後には顔のせいで料理まで台無しだと言われて逃げられた。
そして今、その失敗で傷ついた自信を、なぜかシエラに慰められている。
「…………」
何かがおかしい。
第四大隊長の浮気作戦は、顔への自信まで少し失っただけで、完全に失敗していた。




