第2章82話 責任をとってもらう
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
クリス・ラングレーは、レオンハルト・ヴァイスの机の前に立っていた。
「責任を取れ」
書類へ目を落としていたレオンが、ゆっくり顔を上げる。
「何のだ?」
「オリオン社からの手紙だ」
「届いた通知は見たのか?」
「見たから来てるんだよ」
「そうか」
レオンは少しだけ満足そうに頷いた。
「なら、話は伝わったみたいだな」
「何がだ」
「昨日のお前のことだ」
「俺?」
「ああ。かなり混乱していただろ」
「…………」
「いつも少しおかしいが、昨日は特におかしかった」
「お前に言われたくねえよ!」
「婚約をやめたいとか、どうにかしてくれとか、随分おかしなことを言っていた」
「おかしくねえよ!」
「まだ落ち着いてないみたいだな」
「誰のせいだと思ってる!」
クリスが机へ手をつく。
だが、レオンは落ち着いたままだった。
「心配するな。その辺は俺がちゃんとしておいた」
「何をした」
「昨日のお前は、かなり動揺していたからな」
「してねえ!」
「情緒も不安定だった」
「勝手に判断するな!」
「だから、オリオン社には、二人のことはもう少しそっとしておいてやってくれと伝えておいた」
「何でだよ!」
「それから、お前が昨日言っていたことも、混乱して口にしただけだろうから、あまり他へ広めないように頼んである」
レオンは少し得意そうだった。
「安心していい」
「どこに安心する要素があるんだよ!」
「俺も、昨日のお前の発言は早いうちに忘れるつもりだ」
「何で忘れるんだよ!」
「後で思い出されたら、お前も都合が悪いだろ」
「都合が悪いのはお前の解釈だ!」
第一執務室に、クリスの声が響いた。
リリアが驚いて顔を上げる。
少しブラウンの混じった長い金髪をまとめる青いリボンが、その動きに合わせて小さく揺れた。
メリーも手を止めた。
マリニーファは、また始まったという顔でこちらを見ている。
レオンはクリスを見た。
「……やっぱり、まだ少し動揺しているみたいだな」
「お前のせいだ!」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
「俺はちゃんと対処したぞ」
「その対処が全部おかしいんだよ!」
クリスは再びレオンへ向き直る。
「お前のせいで、完全に外堀を埋められたんだぞ」
「俺は、あらぬ噂を流さないように頼んだ」
「頼み方がおかしかったんだよ」
「婚約したばかりで、心の整理ができていないから、静かに見守ってくれと言っただけだ」
「それを言うな!」
「なぜだ」
「婚約を認めてるだろ!」
「認めていないのか?」
「その話は昨日した!」
「婚約している事実は変わらないと言っていた」
「そこだけ覚えるな!」
クリスは机を叩いた。
レオンは少しだけ眉を寄せる。
「今日は殴らないのか」
「今のところはな」
「成長したな」
「お前、本当に殴られたいのか」
周囲が静かになる。
リリアが心配そうに二人を見る。
「クリスさん、落ち着いてください」
「リリア。これはレオンが悪い」
「お兄様も、クリスさんのために動いてくださったのだと思います」
「結果を見ろ」
「でも、お住まいまで用意してくださるなんて、親切なご家族ですね」
「違う。そうじゃない」
リリアの目は、純粋だった。
クリスは少し考えてから、リリアを見る。
「リリア。聞いてくれ」
「はい?」
「お前の兄貴のせいで、俺とシエラの関係がますます深くなっちまったんだよ」
「まあ」
リリアの顔が明るくなった。
「良かったじゃないですか」
「良くない」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
クリスは言葉に詰まる。
「元々、婚約の話があっただろ」
「はい」
「それが今回のことで、前よりもっと話が大きくなってるんだよ」
「それだけ皆さんが、お二人のことを大切に考えてくださっているんですね」
「違う」
「違うのですか?」
「俺は、この婚約をどうにかしたいんだよ」
「でも、シエラさんとの関係が以前より深くなったのでしょう?」
「ああ。だから困ってるんだよ!」
「これからご結婚なさるのでしたら、仲が深まるのはとても良いことだと思います」
「だから、その結婚を――」
クリスは途中で言葉を止めた。
リリアは、ますます嬉しそうな顔をしていた。
「シエラさんもきっと嬉しいでしょうね」
「…………」
「クリスさんともっと仲良くなれたなんて、とても素敵なお話です」
「違うんだよ!」
クリスの声が響いた。
だが、リリアは不思議そうに首を傾げるだけだった。
そして、レオンを見る。
「お兄様も、いいことをしましたね」
「ああ」
レオンが少し得意そうに頷いた。
「そうだろう」
「お前まで乗るな!」
「何がだ」
「全部お前のせいでこうなってるんだよ!」
「だから、俺がちゃんと対処した」
「その対処が原因だ!」
「でも、クリスさんとシエラさんは、お互いのことをより深く理解できるようになったのでしょう?」
リリアが嬉しそうに言う。
「だから、それが困るんだよ!」
「なぜですか?」
「だから!」
クリスは言葉に詰まった。
リリアは幸せそうな顔をしている。
レオンも、自分が友人のためにきちんと動いたと思っている。
何を言っても、話が悪い方向にしか進まない。
「……もういい」
「はい?」
「何でもない」
クリスは諦めて、レオンへ向き直った。
「とにかく、お前に責任を取ってもらう」
レオンは少し考えた。
「……よく分からないが、それでお前が納得して帰ってくれるなら、まあいい」
「何だ、その言い方」
「俺も仕事を続けられる」
「結局それかよ!」
「それで、何をするんだ」
「明日の夕方、六時」
「明日?」
「ああ。この店を予約してある」
クリスは一枚の紙を机へ置いた。
店の名前と場所。
予約した時刻が書かれている。
「俺は、いつも通りここで食事をする」
「一人でか」
「その予定だった」
「では、問題ないだろう」
「シエラが来る」
「約束しているのか?」
「してない」
「では、なぜ来る」
「最近、俺の休みも行き先も全部知ってるように現れるんだよ」
「婚約者だからな」
「その言い方をやめろ」
クリスは声を落とした。
「多分、明日も見に来る」
「それで?」
「別の女と一緒にいるところを見せる」
レオンは黙った。
少ししてから、静かに尋ねる。
「浮気をするのか」
「するふりだ」
「そんなことをしたら、オリオン社が何をするか分からないんじゃないのか」
「もういい」
「怖いと言っていたのはお前だろう」
「これに賭ける」
クリスの目は真剣だった。
「俺が別の女と親しそうにしていれば、婚約の話も壊れるかもしれない」
「壊れなかったら?」
「その時は、その時だ」
「考えていないな」
「考えてもどうにもならない」
「それで、俺に何をしろと」
「相手を用意してくれ」
レオンはクリスを見た。
「女を?」
「ああ」
「自分で頼めばいいだろう」
「シエラの知らない女じゃないと、すぐばれる」
「俺が知っていて、シエラが知らない女性か」
「そうだ」
レオンは少し考えた。
「難しいな」
「レオン、イリス殿下は絶対に駄目だぞ」
「なぜだ」
「怖いからだ」
「本人の前で言わない方がいいな」
「言うつもりはない」
「他には」
「エリシアも、すぐシエラに話が伝わりそうだ」
「そうだな」
「リリアも駄目だ」
「当たり前だ、シエラの知らない女だと言ってる」
「だから、お前が何とかしろ」
レオンは紙を手に取った。
「明日の午後六時。この店だな」
「ああ」
「分かった」
「本当か」
「親友の頼みだからな」
クリスは少しだけ安心した。
「頼むぞ」
「ああ」
「絶対に、シエラの知らない相手にしろ」
「分かった」
「事情も説明しておけ」
「分かった」
「本当に分かったか」
「仕事の邪魔だ。もう行け」
「お前が仕事を始めるな」
「なぜだ」
「俺の責任を先に取れ」
「取ると言っている」
レオンは面倒そうに手を振った。
クリスは、まだ不安を残しながら第一執務室を出た。
レオンは手元の紙を見る。
明日の午後六時。
シエラの知らない女性。
第一執務室の中を見回す。
リリアはシエラと親しい。
メリーも知っている。
イリスやエリシアも当然知っている。
となれば、候補は限られる。
レオンは少し考えると、席を立った。
そのまま第一執務室を歩き、マリニーファの机まで向かう。
本来なら、クリスから言われた通り、事情をきちんと説明する必要があった。
だが、そのことはもうレオンの頭から抜け落ちていた。
今考えているのは、早くこの件を済ませて仕事へ戻ることだけだった。
マリニーファの机のそばで足を止める。
「マリ」
「はい、副長」
マリニーファはすぐに顔を上げた。
「明日の午後六時、空いているか」
室内の空気が止まった。
「……明日の、午後六時ですか?」
「ああ」
「空いております」
「なら、来てくれないか」
マリニーファの目が、大きく開いた。
リリアも驚いている。
メリーは、何かに気づいたようにレオンを見る。
だが、レオンには周囲がなぜ驚いているのか分からなかった。
「どちらへでしょうか」
「この店だ」
レオンは、先ほどクリスから受け取った紙を差し出した。
「できれば、少し早めに来てくれ」
「はい」
「大切な話がある」
第一執務室が、完全に静まり返った。
マリニーファの頬が、見る間に赤くなっていく。
「大切な、お話……」
「ああ」
クリスの婚約に関わる話なのだから、大切な話には違いない。
レオンは、それ以上の意味をまったく考えていなかった。
「必ず伺います」
「頼む」
「はい、副長」
マリニーファは、両手で紙を受け取った。
明らかに嬉しそうだった。
レオンは、その様子を見て少し安心した。
急な頼みだったが、どうやら引き受けてくれるらしい。
頬が赤いのも、突然の話で緊張しているのだろう。
それ以上には考えなかった。
リリアは、レオンとマリニーファを交互に見た。
何の話をしているのか、よく分からない。
ただ、マリニーファがひどく嬉しそうなことだけは分かった。
「お兄様」
「何だ」
「明日の夕方も、お仕事があるのではありませんか?」
「ああ。俺は仕事だ」
リリアがさらに戸惑った。
喜んでいるマリニーファの耳には、もう入っていなかった。
レオンは続ける。
「だから、マリに頼んだ」
「頼んだ?」
リリアは首を傾げた。
どうやら、自分の知らない話が進んでいるらしい。
だが、事情はまるで分からなかった。
レオンは、すでに書類へ視線を戻していた。
「明日の午後六時だ。忘れないように」
「忘れません」
マリニーファは紙を胸元で大切そうに持った。
「必ず参ります」
レオンは頷いた。
これでクリスの頼みは果たした。
そう思っていた。
だが。
肝心なことを何一つ説明していないことに、レオンだけは気づいていなかった。
そして、その言葉足らずな頼み方が。
翌日、また新たな騒動を引き起こすことになる。




