第2章80話 第四大隊長は親友を信じていた
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
クリス・ラングレーは困っていた。
最近、気づけばシエラと一緒に行動することが増えている。
最初は、あまり気にしていなかった。
約束して会うこともある。
借りを減らすために、シエラの調査を手伝うこともある。
それなら、まだ分かる。
だが、婚約してから、明らかに一緒にいることが増えた。
最初のうちは、たまたま重なっただけだと思っていた。
だが最近は、特にそういうことが多くなっている。
約束していない日まで現れるようになった。
街へ出れば、なぜか同じ店にいる。
食事を取ろうとすれば、いつの間にか向かいへ座っている。
ついには、自宅にまで来た。
クリスは、休みの日にどこへ行くのか、シエラへ教えた覚えはない。
ましてや、引っ越したばかりの自宅の場所など教えていなかった。
それなのに、シエラはすべて知っているように現れる。
明らかにおかしい。
クリスは一人で考えた。
そして、ようやく一人の男に行き着いた。
「レオン」
第一執務室で書類を見ていたレオンハルト・ヴァイスが、顔を上げた。
「何だ」
「少し聞きたいことがある」
「仕事なら後にしてくれ」
「仕事じゃない」
「なら、仕事が終わってからにしてくれ」
「お前、この前も俺が話してる途中で逃げただろ」
「逃げてない」
「逃げただろ」
「逃げてない」
「急に立ち上がって部屋から出ていったじゃねえか」
「…………」
「しかも謝りながら」
「それは……」
レオンは少し言葉に詰まった。
クリスは眉を寄せる。
この前は、賞与でもらえるものについて聞こうとした途端、いきなり逃げていった。
何が気に入らなかったのかは分からない。
もしかすると、賞与の話そのものをしたくなかったのかもしれない。
だが。
今回は関係ない。
「まあいい。今回はこの前の話とは別件だ」
「別件?」
「だから今回は、途中で逃げずにちゃんと聞け」
「分かった」
「本当だな?」
「ああ」
クリスは一度頷いた。
「最近、休みになるとシエラが必ず現れる」
「婚約してからか?」
「ああ。特に最近ひどい」
「なら、婚約して関係が進んだんだろう」
「そういう意味じゃない!」
「違うのか?」
「俺は、休みの日にどこへ行くか教えてないんだぞ」
「それでも会いたいんだろう」
「どうしてお前は最初からシエラの味方なんだ」
レオンは少し考えた。
「リリアが、仲良くしていると言っていた」
「俺はリリアを信じる」
「俺は何を聞かされてるんだ」
クリスは額を押さえた。
だが、今はそれどころではない。
「この前なんか、自宅にまで来たんだ」
「自宅に?」
レオンが、わずかに反応した。
クリスはその変化を見逃さなかった。
「おい」
「何だ」
「お前、何か知ってるな」
「知らない」
「今、明らかに間があっただろ」
「気のせいだ」
「俺の自宅をシエラに教えたのは、お前か」
レオンはしばらく黙った。
それから、妙に得意そうな顔をした。
「ああ」
「やっぱりお前か!」
クリスは机越しにレオンの襟元をつかんだ。
第一執務室の空気が一瞬で止まった。
リリアが目を丸くする。
メリーも手を止める。
マリニーファは少しだけ身を引いた。
レオンは襟元をつかまれたまま、落ち着いた顔をしている。
「何をする、クリス」
「今回は許さねえ!」
「ついに錯乱したか」
「誰のせいだ!」
「俺は親切にしただけだ」
「どこがだ!」
「シエラが、クリスのために夕食を作って待っていたいと、涙ながらに訴えてきた」
「涙ながらに?」
「ああ」
「本当か?」
「少し目が潤んでいた」
「絶対演技だろ!」
「だが、真剣だった」
「それで俺の家まで案内したのか!」
「サプライズにしたいと言われた」
「お前は何でそんな話を真に受けるんだ!」
「恋する女性の願いを無下にはできない」
「急に格好つけるな!」
クリスがさらにレオンを揺さぶる。
レオンもクリスの腕をつかみ、引き剥がそうとした。
二人は机の脇でしばらく揉み合った。
「離せ、クリス」
「今回は許さねえ!」
「落ち着け」
「お前が言うな!」
「大隊長が副長へ殴りかかるのは問題だぞ」
「殴ってない。まだな」
「まだと言ったな」
周囲が騒然としている。
いつもの制服姿のリリアが、心配そうに立ち上がった。
少しブラウンの混じった長い金髪を青いリボンでまとめた彼女は、白い肌に心配そうな表情を浮かべて二人を見る。
「クリスさん、お兄様、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
「俺は大丈夫だ」
「お前は黙れ」
メリーが困ったように二人を見る。
「止めた方がよいでしょうか」
「もう少し見ていてもいいのではないでしょうか」
マリニーファが冷静に答えた。
「なぜだ」
「どちらが勝つのか、少し気になります」
「止めろ」
レオンが言った。
クリスは、ようやく手を離した。
レオンは乱れた襟元を直す。
「まったく。婚約者へ自宅を教えたくらいで騒ぐな」
「婚約者じゃない」
「違うのか?」
「違う。俺は騙されたんだ」
「婚約したんだろう」
「襟を締められて、無理やり婚約させられたんだ」
レオンは少し眉を寄せた。
「無理やり?」
「ああ」
「どうやって」
「それを今から説明する」
「ここでか?」
クリスは周囲を見た。
第一執務室にいる全員が、こちらを見ている。
扉の外にも、何人か立ち止まっていた。
すでにかなりの人数が聞いている。
「……親友の俺と、シエラの言うことなら、どっちを信じる」
クリスが声を落として聞いた。
レオンは、少し考えた。
「俺はリリアを信じる」
「選択肢にいないだろ」
「リリアは、今年中に二人が結婚すると言っていた」
クリスは頭を抱えた。
「何でリリアまでそうなってるんだ……」
「違うんですか?」
リリアが、不思議そうに首を傾げた。
青いリボンが、長い髪と一緒に小さく揺れる。
「違う」
「でも、ご婚約はなさっているんですよね?」
「それは……」
クリスは言葉を止めた。
レオンが即座に聞く。
「婚約しているという事実は変わらないんだな」
「それは変わらない」
「では、俺の言っていることは間違っていないじゃないか」
「そこだけ切り取るな!」
周囲から小さなどよめきが起きた。
婚約は事実。
今年中に結婚。
シエラが自宅で夕食を作った。
聞かれたくない部分ばかりが、きれいに聞かれている。
クリスは周囲を見回した。
廊下にいた者まで、こちらを見ていた。
「……ここじゃ駄目だ」
「何がだ」
「後で、別の場所で二人で話したい」
「分かった」
「時間は空いてるか」
「ああ。話には付き合う」
クリスは少しだけ安心した。
少なくとも、きちんと説明を聞いてもらえる。
事情をすべて話せば、レオンも分かってくれるはずだ。
この時は、そう思っていた。
■総騎士団副長府庁舎・副長室
しばらくして、クリスとレオンは副長室へ移動した。
クリスも、この部屋へ来る機会はほとんどない。
総騎士団副長のために用意された部屋だが、レオン自身も滅多に使わない。
普段は第一執務室か仮眠室にいることが多い。
そのため、室内は静かだった。
人の出入りもほとんどない。
「ここなら、イリスくらいしか来ない」
レオンが椅子へ座りながら言った。
「誰にも聞かれないな」
「ああ」
「なら、最初から話せ」
クリスも向かいの椅子へ座った。
「長くなるぞ」
「構わない」
「途中で勝手に話をまとめるなよ」
「分かった」
「本当だな」
「早く話せ」
クリスは小さく息を吐いた。
「最初は、第七騎士団にいた頃だ」
「かなり前だな」
「ああ」
クリスは、シエラと知り合った時のことから話し始めた。
シエラは情報を手に入れるため、クリスへ近づいてきた。
騎士団内部の様子。
人間関係。
街で聞いた話。
そのうち、クリスはオリオン社へ連れていかれ、正式な調査員になった。
持ち込んだ情報に応じて報酬も受け取っていた。
「それは別に問題ないだろう」
レオンが言った。
「シエラは情報の扱いに関してはしっかりしている。お前も機密を勝手に売ったりはしていないんだろう」
「してない」
「なら、副業としては問題ない」
「そうなんだよ」
「その頃から親しくなったんだな」
「親しくなったというか、借りを作らされたというか」
「同じようなものだろう」
「違う」
「続けろ」
クリスは話を続けた。
シエラから頼まれ、何度も情報を確認した。
親衛隊の件も調査した。
その結果、クリスが持ち込む情報や、情報を選別する能力が評価された。
シエラからは、上級調査員へ推薦すると言われた。
「悪い話ではないな」
「そこまではな」
「報酬も増えるんだろう」
「ああ。扱える情報も増える」
「なら、受ければいい」
「問題はその後だ」
クリスはオリオン社へ行った日の話をした。
シエラの父と母。
初めて会った兄のエリオ。
そして、なぜか始まった後継者の話。
「話しているうちに、俺が次期社長候補にされていた」
レオンは、しばらく黙った。
「つまり」
「勝手にまとめるなと言っただろ」
「お前は、自分が有能で、いずれオリオン社の社長になる男だと自慢したいんだな」
「違う!」
「違うのか」
「俺は社長になる気なんかない」
「だが、シエラがお前を選び、両親にも認められ、兄からも認められたんだろう」
「言い方を変えるな」
「だいたい合っているじゃないか」
「合ってない」
「では、どこが違う」
「全部だ」
クリスは額を押さえた。
「俺は上級調査員の話を聞きに行っただけだ」
「だが、社長候補にもなった」
「勝手にな」
「シエラと一緒に働くことにもなった」
「借りがあるから手伝ってるだけだ」
「両親に認められた」
「誤解されただけだ」
「兄からも支えると言われた」
「弟扱いされかけたんだ」
「そして婚約した」
「そこが一番違う!」
レオンは首を傾げた。
「だが、婚約している事実は変わらないんだろう」
「それは変わらない」
「なら、やはり合っている」
「合ってないと言ってるだろ!」
クリスは机を叩いた。
レオンは少しだけ身を引く。
クリスは、さらに事情を説明した。
婚約の噂を否定しようとすれば、オリオン社側がどのような情報を流すか分からない。
シエラ本人からも、下手に否定しない方がよいと言われた。
クリスは情報戦の経験がない。
オリオン社を相手に、噂をひっくり返せる自信もない。
だから、何も言えずにいる。
レオンは、そこで初めて真面目な顔になった。
クリスが恐る恐る尋ねた。
「オリオン社は、情報戦が得意なのか」
「知らなかったのか?」
「ああ、最近知った」
「なるほど」
レオンは腕を組んだ。
「分かった」
「本当か?」
「ああ。お前が婚約を断れば、オリオン社にあらぬ噂を流されるかもしれないと思い、何も言えなかったんだな」
「そうだ」
「ようやく分かってくれたか」
「最初からそう言えばいい」
「最初から言ってる」
「説明が長すぎる」
「お前が途中で勝手にまとめるからだろ」
レオンは少し考えた。
「つまり、お前は急に婚約が決まって、その後も話がどんどん進んだから混乱しているんだな」
「違う」
「違うのか?」
「婚約自体をやめたいんだよ」
「だが、シエラ本人を嫌っているわけではないんだろう」
「そういう話じゃない」
「嫌いなのか?」
「……別に嫌いではないけど」
レオンが小さく頷いた。
「やはりな」
「何がやはりなんだよ!」
「シエラが嫌なのではなく、婚約や結婚の話が急に進んでいることが嫌なんだろう」
「婚約そのものが嫌だと言ってるだろ!」
「今のお前は少し混乱している」
「してない!」
「さっき俺の襟をつかんだ」
「お前が俺の家を勝手に教えたからだ!」
「机も叩いた」
「お前が話を分かってないからだ!」
「声も大きい」
「誰のせいだ!」
レオンはもう一度、小さく頷いた。
「やはり、かなり混乱しているな」
「お前のせいでな!」
「分かった」
「絶対分かってないだろ」
「いや、だいたい分かった」
「その言い方が一番不安なんだよ」
レオンは椅子へ深く座り直した。
「とにかく、お前がオリオン社を相手にどう動けばいいのか分からず困っていることは分かった」
「……そこは合ってる」
「なら十分だ」
「十分じゃない気がするんだけどな」
「俺がオリオン社へ話をつけてやる」
クリスは目を見開いた。
「本当か」
「ああ」
「大丈夫なのか?」
「俺は総騎士団副長だ」
レオンは少しだけ得意そうな顔をした。
「東ロンバルディア騎士団領では、俺の顔はかなり利く」
「そうだな」
「オリオン社にとっても、こちらは大きな取引相手だ。俺の話を無視することはできない」
クリスは立ち上がりかけた。
そのままレオンへすがりつきそうになり、ぎりぎりで止まる。
「さすが我が親友」
「近い」
レオンは嫌そうに少し身を引いた。
だが、クリスはそんなことには構わず、さらにレオンへ近づいた。。
「頼む。本当に頼む」
レオンはちょっと驚いたようにクリスをみる。
「ずっと悩んでるんだ、もうお前しか頼るやつがいないんだ」
「そうか、任せろ」
「婚約のことで、これ以上変な噂が広がらないようにしてくれ」
「ああ」
「それと、婚約そのものも解消してくれ」
「分かった」
「シエラにも、俺の休みや自宅を勝手に調べるなと言ってくれ」
「それも伝える」
クリスは、心の底から安心した。
相談してよかった。
レオンは仕事をしたがらない。
書類から逃げる。
だが、こういう時は頼りになる。
「親友のためだからな」
レオンが笑った。
「しかし、今日のお前は本当に忙しいな」
「何がだ」
「俺に殴りかかろうとしたり、頼み込んだり」
「まだ殴ってない」
「明日も殴るなよ」
「お前次第だ」
「まあ、任せておけ」
クリスは安心して副長室を出た。
これですべて終わる。
明日から、婚約の噂も少しずつ消えていく。
シエラも、休みのたびに現れなくなる。
そう信じていた。




