第78話 それだけは無理だ
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・談話室
久しぶりに、レオンとクリスが二人で話していた。
仕事の話が一段落したところで、レオンがクリスを見る。
「そういえば、訓練の方はどうだ?」
「天輪のか?」
「ああ」
「まだ部隊訓練までは行ってねえよ」
「そうなのか?」
「ああ。今は俺と中隊長、小隊長連中で、まず天輪がどういうもんなのか勉強してるところだ」
「まだそこか」
「簡単に言うなよ」
クリスが少し嫌そうな顔をする。
「今までと考え方が全然違うんだぞ」
「そうだな」
「今までなら、押せるなら押す。追えるなら追う。それでよかっただろ?」
「ああ」
「でも天輪じゃ、一つの部隊がそのまま押し続ければいいってわけじゃねえ」
「交代させるからな」
「そう。前に出して、下げて、整えて、また出す。自分のところだけ見てりゃいいわけでもねえし」
「中隊長や小隊長も理解してないと動かせないな」
「だから今そこやってんだよ」
クリスは椅子にもたれかかった。
「頭じゃ分かってても、今までの癖があるからな。俺もそうだし、あいつらも結構苦戦してる」
「そうか」
「まあ、少しずつだな」
「それが終わってから部隊演習か?」
「ああ。指揮する側が分かってねえのに、兵だけ動かしたってどうにもならねえだろ」
「確かにな」
レオンは頷いた。
今までとは、戦い方そのものの考え方が違う。
それなら、まず指揮する側が理解してからでなければ、実際に部隊を動かす訓練には入れない。
クリスたちが苦戦しているのも無理はなかった。
天輪の話がひと区切りついたところで、クリスがふと思い出したように口を開いた。
「そういや、お前のところに来た騎士団長候補の方は、どうなった?」
クリスがふと思い出したように口を開いた。
「騎士団長候補?」
「あれだよ。帝都から来た伯爵」
「ああ、ヴィクトルか」
「そう、それ」
クリスはレオンを見る。
「まだ教育中だろ?」
「ああ。そう聞いてる」
「お前まだ一度も会ってないんだよな?」
「ない。来た翌日から教育に入ったらしいからな」
「……やっぱりな」
クリスは少しだけ遠い目をした。
やはり、以前イリス殿下から相談を受けた時と状況は変わっていないらしい。
レオンはまだ、ヴィクトルがなぜ教育を受けているのかを知らない。
「でも、かなりいい奴みたいだな」
「……何が?」
クリスの眉が動く。
「イリスに聞いた。仕事には真面目で、剣の腕も確かなんだろ?」
「まあ……」
「能力もあるらしいな」
「…………」
クリスはレオンを見た。
やっぱり、まだ誤解したままだ。
仕事熱心で、仕事もできて、剣の腕も確かな優秀な騎士団長候補。
今もレオンの中では、そういう人物らしい。
「イリスも気を使ってくれたのかもしれないな」
レオンが言った。
「俺が心配しないように、先に教えてくれたんだろ」
「……ああ」
クリスはそれ以上聞かなかった。
イリス殿下も、本当のことを言えずに苦労しているのだろう。
以前相談された時も、かなり困っていた。
それに、今は真相を話さない方がいいと言ったのは、クリス自身でもある。
なら、自分から余計なことを言う必要もない。
「まあ、それはいいとして」
クリスは話題を変えた。
「いい店を見つけたぞ」
「店?」
「ああ。前に行った剣具店」
「剣具店か」
「新しい剣帯が入ったらしい」
レオンが少し反応する。
「剣帯?」
「たぶん、お前が好きそうなやつだぞ。丈夫で、余計な飾りも少ない」
「そうか」
「今度、一緒に見に行かないか?」
「…………」
レオンが黙った。
クリスが眉を寄せる。
「何だよ」
「二人でか?」
「他に誰がいるんだよ」
「……二人か」
レオンの表情が妙に険しくなった。
クリスには理由が分からない。
レオンの頭の中では、先日のマリニーファとの買い物が蘇っていた。
男女二人で歩く時は、手をつないで歩く。
そして、親しい男同士でも手をつなぐことがある。
マリニーファは、そう言っていた。
レオンはクリスを見る。
クリスとは間違いなく親しい。昔から知っていて、普段からよく話す。二人で行動することもある。
では、クリスとも手をつなぐのか。
「…………」
それは嫌だった。
しかも、マリニーファとの外出はそれだけではない。
買い物へ行く前には別の場所へ立ち寄り、芝居も見た。男女二人で芝居を見る時は、普通の席ではなく距離の近い二人用の席になるらしく、隣との距離はかなり近かった。
芝居の途中では、マリニーファが自分の手を握ってきた。
二人で芝居を見る時は、そうするものだと教えられたのだ。
買い物でも、一つ一つの商品について細かく感想を求められた。
良いと思う。
それだけでは駄目だった。
色や形、使いやすさ、似合うかどうか。なぜそう思ったのかまで、一つ一つ自分なりに考えて答えなければならなかった。
最後には食事までした。
かなり大変だった。
「…………」
レオンは、もう一度クリスを見る。
かなり親しい友人である。
そうなると、どこまでマリニーファの時と同じなのか。
「なあ、クリス」
「何だ?」
「男同士で町へ出かける時なんだが」
「何だよ、急に」
「手はつなぐのか?」
「は?」
クリスが止まった。
「…………」
「何で俺がお前と手をつなぐんだよ」
「つながないのか?」
「つながない」
即答だった。
レオンは少し考える。
「親しくても?」
「親しくてもだよ!」
「そうか」
レオンの表情が少しだけ緩んだ。
「よかった」
「何がよかったんだよ」
「いや」
レオンは小さく息を吐く。
「親しい男同士なら、手をつなぐこともあると聞いたから」
「誰にだよ」
「それはいい」
「よくないだろ」
「俺たちはつながないんだな?」
「つながねえよ!」
「分かった」
レオンは頷いた。
ひとまず安心したが、まだ確認することは残っている。
「じゃあ、剣具店へ行く前に、どこか別のところへ寄ったりは?」
「しない」
「芝居を見るとか」
クリスが首を傾げた。
「見たいのか?」
「見たくない」
レオンが即答した。
「……何だよ、その必死さ」
「見なくてもいいんだな?」
「いいけど」
「本当だな?」
「何でそこまで確認するんだよ」
「大事だからだ」
「お前、何かあったのか?」
「何もない」
「あるだろ」
「ない」
レオンは短く否定した。
芝居そのものが嫌なわけではない。問題は、あの狭い席だった。
クリスと二人で、あの距離に座る。
それは嫌だった。
しかも、芝居の途中では手を握る。
マリニーファは、それも二人で芝居を見る時のことだと説明していた。
「芝居を見てる時も、手は握らないよな?」
「……は?」
クリスが完全に止まった。
「何で俺がお前の手を握るんだよ」
「そうか」
レオンは心底安心した。
「よかった」
「だから何がよかったんだよ!」
「念のためだ」
「何の念だよ」
レオンは答えず、次の確認へ移った。
「店では?」
「店?」
「剣帯を見た時、俺が一つ一つ細かく感想を言わなくてもいいんだな?」
「何でそこまで言う必要があるんだよ」
「使えそうかどうかだけでいい?」
「それくらいは聞くかもしれないけどな」
「色とか形とか、どこがいいのか、どこが駄目なのかまで分析しなくてもいい?」
「しなくていい」
「本当か?」
「だから何なんだよ!」
レオンはまた少し安心した。
残る確認は、あと一つだった。
「食事は?」
「食事?」
「買い物が終わったあとだ」
「別に予定してないぞ」
「食べなくてもいい?」
「腹減ったら食えばいいだろ」
「必ず最後に食事をして締めなくてもいい?」
「何だよ、その決まり」
「ないのか?」
「ない」
「そうか」
レオンの表情がさらに緩んだ。
「あと」
「まだあるのかよ」
「互いの料理の最初の一口を食べたりは?」
クリスが露骨に嫌そうな顔をした。
「するか」
「そうだよな」
「何でそんなことするんだよ」
「よかった」
「何がよかったんだよ!」
レオンはようやく安心した。
どうやら男二人の場合は、マリニーファと出かけた時とは違うらしい。
親しくても手をつなぐ必要はなく、芝居を見る必要もない。狭い二人席へ座ることも、芝居の途中で手を握られることもない。
買い物でも、一つ一つの商品について細かく分析する必要はないし、最後に必ず食事をして、互いの料理の最初の一口を食べる必要もない。
それなら、剣帯くらい見に行ってもいい。
「分かった。今度――」
「まあ」
クリスが何気なく続けた。
「俺はお前には結構興味あるけどな」
「…………」
レオンが止まった。
「俺に?」
「ああ。正確には、お前が前に言ってた――」
クリスはそこで何でもないように話を続けた。
だが、レオンの頭には最初の言葉だけが残った。
俺はお前には結構興味ある。
「…………」
クリスが自分に興味を持っている。
しかも、そのクリスから二人で出かけようと誘われている。
レオンは先ほどの会話を思い返した。
手はつながない。
芝居も見なくていい。
芝居の途中で手も握らない。
食事だって必ずするわけではない。
全部、クリス自身がそう言っていた。
だから安心したはずだった。
だが――俺はお前には結構興味ある。
「…………」
話が違うのではないか。
普通の男同士なら、確かにそんなことはしないのだろう。
だが、クリスは自分に興味があると言った。
「いや、前にお前が言ってただろ。今度、俺たちに賞与をくれるって」
クリスは普通に説明を続けていた。
「あれ、何がもらえるのか俺もちょっと気になっててさ」
「…………」
だが、レオンの耳にはほとんど入っていない。
さっきまで安心するために確認していたことが、すべて頭の中へ戻ってきた。
クリスと二人で町へ出て、手をつなぐ。
劇場へ行き、狭い二人席へ並んで座る。
そして芝居の途中で手を握られる。
「…………」
レオンはクリスの手を見た。
剣を握る、自分と同じ騎士の手だ。
大きく、おそらく硬い。長年剣を握っている以上、掌だってごつごつしているだろう。
その手と、自分の手をつなぐ。
「…………」
レオンの顔がわずかに引きつった。
「せっかくなら使えるもんがいいし、何を考えてるのかだけでも先に分かれば――」
クリスはまだ賞与の話をしている。
しかし、レオンの頭の中では別の光景が出来上がっていた。
クリスと手をつないで町を歩き、劇場へ入る。
あの狭い二人席へ並んで座れば、肩が触れそうな距離にクリスがいる。
そして芝居が始まり、クリスのごつごつした手が自分の手を握る。
「…………」
無理だった。
マリニーファの時は、まだ何とかなった。
相手がマリニーファだったからだ。
町を歩く時に手をつなぐことも、劇場の狭い席で芝居の途中に手を握られることも、そういうものなのだと言われればまだ受け入れられた。
だが、クリスは無理だった。
「それで、もしもう何か決めてるなら、全部じゃなくても――」
「…………」
レオンはもう聞いていなかった。
頭に残っているのは、「俺はお前には結構興味ある」という一言だけだった。
クリスはさっき、手はつながないと言った。芝居も見ないと言った。何もしないと言った。
だが、それは普通の男同士なら、という話なのではないか。
自分に興味があるクリスの場合まで、本当に同じなのか。
「…………」
分からない。
確認するのも怖かった。
駄目だ。
絶対に無理だ。
ガタン。
レオンが勢いよく立ち上がった。
「何だよ?」
「……すまん」
「は?」
クリスが止まる。
レオンは椅子から離れ、そのまま扉へ向かった。
「俺には、あんなことはできない」
「何の話だ?」
「悪い、クリス」
「ちょっと待て。俺、今賞与の話してたんだけど」
「本当にすまん!」
「聞けよ!」
レオンは扉を開け、そのまま部屋を飛び出した。
「おい、レオン!」
後ろからクリスの声が聞こえる。
だが、レオンは止まらない。
「すまん、クリス!」
「だから何がだよ!」
レオンは謝りながら廊下を進んだ。
向かう先は第一執務室。
クリスが途中から何を話していたのかは、ほとんど頭に残っていなかった。
マリニーファとだったから、まだ何とかできた。
手をつないで歩くことも、狭い二人席で芝居を見ることも、途中で手を握られることも。
買い物で一つ一つ細かく感想を言い、最後には食事をして、互いの料理の最初の一口を食べることも。
あれをクリスともやる。
それだけは無理だった。
そんなことを考えながら第一執務室へ向かっていたレオンは、ふと思った。
二人きりだからいけないのではないか。
三人なら、もう一人いれば、さすがのクリスも自分と手をつないだりはしないはずだ。
芝居を見ても二人用の狭い席にはならないし、途中で手を握られることもない。
「…………」
それなら大丈夫だ。
次にクリスから二人で出かけようと誘われたら、必ずもう一人連れていこう。
誰でもいい。
二人きりにさえならなければいい。
「……そうしよう」
レオンは真剣に頷いた。
これで解決した。
「すまん、クリス……」
もう追ってきてもいない友人へ、もう一度小さく謝る。
もちろん、クリスが興味を持っていたのは、最初から最後まで賞与の中身だけだった。
そんなことを知らないレオンは、今後クリスと二人きりにならないための対策まで考えながら、そのまま第一執務室へ逃げ込んだ。




