第2章77話 こちらの常識なんですか?
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
翌日。
レオンは、いつものように早朝から第一執務室で仕事をしていた。
昨日は休みだったが、今日になれば当然のように机の上には書類がある。
レオンは一枚確認し、次の一枚へ手を伸ばした。
「レオン」
「何だ?」
声をかけられ、顔を上げる。
イリスが立っていた。
「昨日は、ちゃんとマリニーファさんのお買い物に付き合ったのですか?」
「ああ。ちゃんと行った」
「そうですか」
イリスは少し安心したようだった。
「昨日は、屋敷から待ち合わせ場所へ?」
「いや」
「では……新副長室からですか?」
「あそこは仮眠室だ」
「皆さん、新副長室と呼んでいます」
「俺は呼んでない」
「それは知っています」
「なら仮眠室でいいだろ」
「もう新副長室で通っています」
「勝手に決めるな」
レオンは少し嫌そうな顔をした。
「ということは、前の日も夜までお仕事をして、そのまま仮眠室で寝たのですね?」
「ああ」
「せっかくのお休みだったのですよ」
「寝たぞ」
「仮眠室で寝たことを、休日を過ごしたとは言いません」
「そうか?」
「そうです」
イリスは小さく息を吐いた。
「マリニーファさんにも心配されたでしょう?」
「ああ。会ってすぐ、疲れてるのかって聞かれた」
「当然です」
「いつもと変わらないんだけどな」
「それが心配なのです」
「そうか」
レオンは書類を一枚脇へ置いた。
「でも、行ってよかったぞ」
「そうなのですか?」
「ああ。色々教えてもらった」
「何をですか?」
「イリス」
「はい?」
レオンは少しだけ姿勢を起こした。
「知ってたか?」
「何をでしょう?」
「こっちじゃ、親しい二人で町を歩く時は、手をつないで歩くらしいぞ」
「…………」
イリスが瞬きをした。
「手をつなぐのですか?」
「ああ」
「レオンとマリニーファさんも?」
「ああ」
「……そんなにマリニーファさんと親しかったのですか?」
「普通だと思うが」
「ですが、手をつないで町を歩いたのでしょう?」
「ああ」
レオンは何でもないことのように頷いた。
「男女なら普通そうするらしい」
「男女なら、ですか?」
「ああ。それだけじゃないぞ。俺も知らなかったが、男同士でも親しければ手をつなぐことがあるらしい」
「…………」
イリスはレオンを見る。
「それは、恋人同士や、本当に親しい方同士がすることなのではありませんか?」
「違う」
レオンは即答した。
「こちらでは、そういう決まりらしい」
「決まりなのですか?」
「ああ」
「本当に?」
「俺も疑った」
「疑ったのですね」
「ああ。だから周りを見た」
「確認までしたのですか?」
「手をつないで歩いてる男女がいたぞ」
「…………」
「だから本当だ。間違いない」
レオンは自信を持って答えた。
イリスは少し考える。
こちらへ来る前にも、必要なことについては調べてもらっていた。
こちらへ来てからも、自分なりに騎士団領での暮らしや習慣を覚えてきたつもりだった。
それでも、そんな話は聞いたことがない。
だが、レオンは自分で周囲まで確認したうえで、まったく疑っていない。
それなら本当なのかもしれないと、イリスは思った。
「……知りませんでした」
「知らなかったのか?」
「はい」
「そうか」
ほんの少し。
レオンの表情が緩んだ。
「イリスでも知らないことあるんだな」
「もちろんありますよ」
「そうか」
どこか嬉しそうだった。
「まだあるぞ」
「まだあるのですか?」
「ああ。男女二人で買い物へ行く時は、その前にどこかへ必ず寄る」
「どこかへ?」
「昨日は劇場だった」
「お芝居を見たのですか?」
「ああ」
イリスは首を傾げた。
「それは……特に親しい方と二人で出かける時の過ごし方なのではありませんか?」
「違う」
「また違うのですか?」
「こっちでは、買い物の前にどこかへ寄るのが礼儀らしい」
「礼儀……」
「ああ」
イリスには、まだ少し引っかかるものがあった。
「でも、レオンとマリニーファさんは、お二人でお芝居を見たのですよね?」
「そうだ」
「それから買い物へ?」
「ああ」
「…………」
「何だ?」
「いえ」
やはり、かなり親しい二人の外出に聞こえる。
だが、レオンはまったく疑っていない。それなら本当なのだろうとイリスは思った。
「これも知らなかったのか?」
「……はい」
「そうか」
先ほどより、さらに少し得意そうだった。
「まだある」
「本当に色々あるのですね」
「ああ。俺も昨日初めて知ったことが多かった」
それなのに、すでにかなり教える側の顔になっていた。
「劇場では、親しい二人なら二人用の席を使う」
「二人用の席ですか?」
「ああ。普通の席より狭い」
「狭いのですか?」
「かなり近かった」
「…………」
イリスはまた考えた。
「それは、親しい男女が二人きりで過ごす時に使う特別な席なのではありませんか?」
「違う。普通の席だ。男女専用ではない。親しい二人ならそうするらしい」
「レオン」
「何だ?」
「それは、ほとんど同じ意味ではありませんか?」
「男同士でも使うなら、違うだろ」
「そうでしょうか……」
「周りもほとんど二人だったぞ」
「二人用の席なのですから、それはそうなのでは……」
「同性同士もいたのですか?」
レオンは少し考えたあと。
「そこまでは確認しなかった」
「ただ、芝居を見てる間は手を握るらしい」
「…………」
イリスの表情が止まった。
「手を握るのですか?」
「ああ」
「町を歩く時だけではなく?」
「ああ」
「お芝居を見ている間も?」
「そうだ」
「どのくらいですか?」
「何が?」
「手を握っている時間です」
「マリニーファは、芝居が終わるまで離さなかったな」
「…………」
イリスは完全に黙った。
町を歩く時に手をつなぐ。
劇場では距離の近い二人用の席へ座る。
さらに、芝居を見ている間も手を握る。
「レオン」
「何だ?」
「もし私が少し親しい男性と二人で劇場へ行った場合も、ずっと手をつないでいなければならないのですか?」
「親しければ、そうなんじゃないか?」
「…………」
「どうした?」
「少し……難しいですね」
「何が?」
「いえ」
メリッサと一緒なら、まだいいかもしれない。
だが、男性と二人で劇場へ行き、距離の近い席に座ったうえで、芝居が終わるまでずっと手をつないでいる。
想像すると、かなり恥ずかしい。
「それも、こちらの決まりなのですか?」
「ああ。そうらしいぞ」
「……知りませんでした」
「これもか?」
「はい」
「そうか」
レオンは、今度こそかなり嬉しそうだった。
「イリスでも結構知らないんだな」
「レオン」
「何だ?」
「少し嬉しそうではありませんか?」
「別に」
「そうですか?」
「ああ」
まったく説得力がなかった。
「それで、芝居が終わったら感想を詳しく言う」
「それは普通だと思います」
「普通なのか?」
今度はレオンが驚いた。
「はい。一緒に見たのでしたら、感想を話すことくらいはあるでしょう」
「悪くなかったって言ったぞ」
「それだけですか?」
「ああ」
「もう少し聞きたかったのではありませんか?」
「マリニーファにも同じことを言われた」
「でしょうね」
「そういうものなのか」
「そういうものです」
「…………」
レオンが少し黙った。
「どうしました?」
「これは知ってたんだな」
「はい」
「そうか……」
「どうして残念そうなのですか?」
「別に」
レオンは少しだけ不満そうだった。
「買い物もあるぞ」
「まだ教えてくださるのですか?」
「ああ」
「お願いします」
「どちらがいいか聞かれたら、理由まで言う」
「それも普通だと思います」
「これも?」
「はい」
「色とか形とか、使いやすさまで聞かれたぞ」
「聞かれたのでしたら、きちんと答えてあげればよいのでは?」
「仕事より細かかった」
「仕事と比べないでください」
「そうか」
「そうです」
イリスが少し笑う。
レオンは二つ続けてイリスが知っていたことが気に入らなかったらしい。
「まだある」
「まだあるのですね」
「ああ。最後は食事だ」
「食事ですか」
「芝居を見て、買い物をして、最後に食事をする。そこまでが一連の流れらしい」
「…………」
「何だ?」
「レオン」
「何だ?」
「町を二人で歩いて手をつないで、劇場へ行って、距離の近い二人用の席に座って、芝居の間も手をつないで、そのあと買い物をして、最後に一緒に食事をしたのですよね?」
「ああ」
「それをデートと呼ぶのではないでしょうか」
「違う」
即答だった。
「全部こっちの決まりだ」
「…………」
「マリニーファが教えてくれた」
「そうなのですか……」
「それに、食事にも決まりがあるぞ」
「まだあるのですか?」
「ああ」
レオンは、今日一番得意そうな顔になった。
「自分の料理の一口目は、自分で食べない」
「…………はい?」
「一緒にいる相手に食べてもらう」
「…………」
「それで、味の感想を聞く」
「…………」
「お互いにな」
イリスは、しばらく何も言わなかった。
やがて、その頬がだんだん赤くなっていくのが、レオンにも分かった。
「イリス?」
「……お互いに、ですか?」
「ああ」
「つまり、マリニーファさんのお料理の最初の一口を、レオンが食べたのですか?」
「ああ」
「そして、レオンのお料理の最初の一口を、マリニーファさんが?」
「そうだ」
「そのあと、お互いに感想を?」
「ああ」
「…………」
イリスは今まで以上に真剣な顔になった。
まさか、互いに食べさせ合ったのだろうか。
そこまで二人は親しかったのか。
そう想像した途端、イリスの頬がさらに赤くなる。
「……あの、互いに食べさせ合ったのですか?」
イリスが恥ずかしそうに尋ねた。
レオンは強く否定する。
「違う。皿からそれぞれ最初の一口をもらうんだ」
「……そういうことですか」
イリスは少しだけ落ち着いた。
「でもそれは、本当にかなり親しい方同士ですることなのではありませんか?」
「違う」
「本当に?」
「こっちの決まりだ」
「…………」
「これも知らなかったのか?」
レオンが尋ねる。
イリスはしばらく答えなかった。
こちらへ来る前にも、生活に必要なことはある程度調べてもらった。
こちらへ来てからも、必要なことは周囲から聞き、自分でも覚えてきたつもりだった。
だが、それだけでは足りなかったのかもしれない。
「……知りませんでした」
「そうか」
レオンは満足そうに頷いた。
「じゃあ、イリスも勉強になったな」
「……そうですね」
「よかったな」
「はい」
レオンはすっかりご機嫌だった。
普段なら、普通の生活を知らないと言われるのは自分の方だ。
町のことを知らない。
世間のことを知らない。
そんなことを言われるのも、ほとんどレオンだった。
だが今日は違う。
イリスも知らなかった。
しかも、一つではない。
「何か分からないことがあったら聞け」
レオンは少し自慢げに言った。
「昨日覚えたからな」
「昨日なのですよね……」
「ああ」
「それで、もうそこまで自信があるのですね」
「ちゃんと自分で確認したものもある」
「そうでしたね」
レオンは満足そうに頷き、再び机の上の書類へ手を伸ばした。
一方、イリスはその場に残ったまま、しばらく考え込んでいた。
こちらへ来る前に調べてもらったことだけで、騎士団領での暮らしを理解したつもりになっていたのかもしれない。
だが、こうした日常の細かな習慣まで、事前にすべて調べるのは難しい。
これまで訪れた別の土地でも、その土地だけの習慣はあった。
場所が変われば、常識も変わる。
ならば、東ロンバルディア騎士団領に、自分の知らない習慣があったとしても不思議ではない。
「……先に聞いておいてよかったです」
「そうだろ」
レオンがすぐに答えた。
やはりご機嫌だった。
「知らないままだと困るからな」
「そうですね……」
イリスは頷いた。
最近は一人で町へ出ることも増え、そのたびにメリッサから注意されることもあった。
少し心配しすぎなのではないかと思っていたが。
もしかすると、まだ知らないことが多い自分を心配していたのかもしれない。
「…………」
誰かと一緒なら、分からないことがあっても教えてもらえる。
メリッサと一緒なら問題はないだろう。
だが。
もし一緒に出かける相手が男性だったら。
町を歩く時から手をつなぎ。
劇場では距離の近い二人用の席に座り。
芝居が終わるまで手をつないでいる。
食事になれば、お互いの料理の一口目まで食べなければならない。
「…………」
思っていたより、かなり難しい。
一人の方が気楽ではある。
だが、一人では知らない決まりがあっても、誰も教えてくれない。
やはり、自分でももう少しこちらの暮らしを知った方がいいのだろう。
イリスは小さく息を吐いた。
少しだけ。
これからの町での生活が不安になった。
その隣では。
レオンが、いつもより少し機嫌よく書類をめくっていた。




