第2章75話 約束のなかで
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 ロングの町――
■ロングの町・大通り
約束の日。
レオンが待ち合わせ場所へ着くと、マリニーファはすでに待っていた。
今日は第一執務室で会う時とは違う。彼女も仕事中の格好ではなく、私服姿だった。
レオンも同じだった。
少し灰色がかった短い銀灰色の髪。仕事場では書類ばかり見ている濃い青の瞳も、春の日差しの下ではいつもより映えて見えた。
ただ、目元にはいつもの疲れが残っている。今日は、いつもより少しひどいかもしれない。
「お待ちしていました、レオン様」
「ああ」
マリニーファは嬉しそうに笑ったが、そのままレオンの顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……また、お仕事をなさっていたんですか?」
「何で分かった?」
「分かります」
「そうか」
「はい。いつもより眠そうです」
レオンは自分の目元に触れた。
「少し寝不足だ」
「やっぱり」
「昨日、仕事が多かった」
「昨日も遅くまで?」
「ああ」
マリニーファは心配そうにレオンを見つめた。
休みの日だというのに、目元には寝不足の色が残っている。
「もしかして、今日のためですか?」
「何が?」
「昨日、お仕事が多かったのは」
「ああ」
レオンは何でもないことのように頷いた。
「今日の分まで少し片づけた」
「…………」
「途中で呼び戻されるのも面倒だからな」
マリニーファはしばらくレオンを見つめたあと、少しだけ嬉しそうに笑った。
マリニーファは、仕事に打ち込んでいる男性がかなり好きだった。
真面目に働き、自分から進んで仕事を片づけていく姿を見るのが好きだったし、その結果として疲れている姿を見るのも、とても好きだった。
今日のレオンは、その両方に当てはまっている。
休みの日に途中で呼び戻されないよう、前日のうちに今日の分まで仕事を片づけてきた。そのせいで寝不足になり、目元にはいつも以上に疲れが残っている。
心配ではある。
だが同時に、マリニーファにとってはかなり好みに合う姿でもあった。
「どうした?」
「いえ」
レオンには、その反応の意味がよく分からなかった。
「……レオン様らしいですね」
「そうか」
「はい」
マリニーファはまだ少し嬉しそうだったが、すぐに表情を戻した。
「でも、頑張りすぎです」
「いつもと変わらない」
「それが問題なんです」
「そうなのか?」
「そうです」
レオンには、いまひとつ分からなかった。
「ちゃんと休まれましたか?」
「寝た」
「何時間ですか?」
「…………」
「レオン様?」
「寝たことは寝た」
「時間を聞いています」
「覚えてない」
「覚えていないくらい短かったんですね?」
「違う」
「では、何時間ですか?」
「…………」
マリニーファはじっとレオンを見る。
「もしお疲れでしたら、今日は無理をなさらなくても――」
「行く」
「え?」
「約束しただろ」
「…………」
マリニーファの表情が少しだけ明るくなった。
「はい」
「なら問題ない」
「……分かりました。でも、無理はしないでくださいね」
「ああ」
レオンはマリニーファを見る。
「それより、早いな」
「少しだけです」
「どのくらい前に来た?」
「一時間ほどです」
「一時間は早いだろ」
「楽しみでしたので」
マリニーファはまったく気にしていないように答えた。
レオンは少しだけ困った顔をした。
「買い物はどこだ?」
「その前に、寄るところがあります」
「買い物じゃないのか?」
「買い物です」
「先に買い物でいいだろ」
マリニーファは首を振った。
「男女二人で買い物へ出かける時は、その前にどこかへ立ち寄るのが礼儀なんです」
「そんな礼儀があるのか?」
「あります」
マリニーファは迷いなく答えた。
「買い物だけして帰るのは、あまりよくありません」
「そうか」
レオンは少し考えた。
知らなかった。
今日は分からないことがあれば、その都度マリニーファに聞こうと思っていた。だが、こちらから尋ねる前に、マリニーファの方から色々と教えてくれている。
これは助かる。
自分から一つ一つ聞くより、この方が早い。せっかく教えてくれるのだから、今日は色々と勉強させてもらおう。
しかし、そんなルールがあるとは、なかなか面倒だ。
レオンはそう思った。
「それで、どこに寄る?」
「お芝居を見ます」
「芝居?」
「はい。席も取ってあります」
「準備いいな」
「礼儀ですので」
「そうか」
レオンは納得した。
完全な嘘ではなかった。男女二人で出かけた際、買い物だけでなく芝居や食事を楽しむ者は珍しくない。
ただ、それをしなければ礼儀に反するなどという決まりはなかった。
「では、行きましょう」
マリニーファが歩き出そうとして、すぐに止まった。
「あ、レオン様」
「何だ?」
「手をお願いします」
「手?」
「はい」
マリニーファが手を差し出す。
レオンはその手を見た。
「何でだ?」
「男女二人で一緒に歩く時は、手をつないで歩くものなんです」
「聞いたことないぞ」
「そうですか?」
「ああ」
レオンは眉を寄せた。
「リリアと町を歩いたことはあるが、手はつないでない」
「リリアは妹でしょう?」
「そうだが」
「妹と他の女性は違います」
「何が違う?」
「兄妹ではない男女が二人で出かけているんですから」
「だから手をつなぐのか?」
「はい」
「本当か?」
「本当です」
レオンは少し考えた。
「男同士なら?」
「はい?」
「男同士で出かける時はどうする?」
マリニーファは一瞬だけ止まった。
「……親しい間柄でしたら、手をつなぐこともあります」
「そうなのか?」
「はい」
「親しくなければ?」
「つなぎません」
「…………」
レオンは真剣に考え込んだ。
「親しいって、どのくらいだ?」
「普段から一緒に出かけるくらい親しければ、そういうこともあると思います」
「……そういうものか」
「そういうものです」
まったくない話ではない。
当然ながら、親しい男同士なら手をつないで歩かなければならない、などという決まりもなかった。マリニーファはそこまでは説明せず、レオンはその話までしっかり覚えた。
「今は男女だから、つなぐんだな」
「はい」
「分かった」
レオンは疑わしそうに周囲を見る。
すると、少し先を若い男女が手をつないで歩いていた。
マリニーファがすぐに指し示す。
「ほら」
「……本当だな」
「はい」
「そういうものか」
「そういうものです」
「なら仕方ないな」
レオンは納得して、マリニーファの手を取った。
マリニーファの表情が一瞬止まり、すぐに嬉しそうな笑顔へ変わった。
「行きましょう、レオン様」
「ああ」
二人は手をつないだまま歩き始めた。
途中、レオンは何度か周囲を見る。
「つないでない男女もいるぞ」
「クリス様のように、全員が礼儀を守っているとは限りません」
「……そう言われると、何となく分かるな」
「でしょう?」
「クリスには悪いが、覚えることが多いな」
「私は楽しいですよ」
「そうか」
マリニーファはますます機嫌よく歩いていった。
■ロングの町・飲食店
劇場へ向かう途中、まだ芝居が始まるまで少し時間があった。
「少し休んでいきませんか?」
マリニーファが一軒の店を指した。
「もう休むのか?」
「一時間早く来ていましたので」
「やっぱり早すぎるだろ」
「私は気にしていません」
「……分からんな」
二人は店へ入り、向かい合って座った。
飲み物が運ばれ、レオンがそれに手を伸ばした時だった。
「…………」
マリニーファがじっとこちらを見ている。
「何だ?」
「いえ」
「何かついてるか?」
「違います」
「じゃあ何だ?」
マリニーファは少しだけ身を乗り出した。
「レオン様の目って、本当に綺麗な青なんですね」
レオンが止まった。
「目?」
「はい」
「そうか?」
「はい。とても綺麗です」
「昔からこれだから、分からん」
「仕事中は、こんなにじっと見るわけにもいきませんから」
「別に構わない」
「…………」
マリニーファが少し黙った。
「何だ?」
「何でもありません」
「そうか」
レオンは飲み物へ手を伸ばした。
マリニーファは、まだ少しレオンの顔を見ている。
「ヴァイス家には、青い目の方が多いんですか?」
「ああ。多いな」
「やっぱりそうなんですね」
「うちでは珍しくない」
マリニーファは少し考えた。
「リリアは、レオン様とは少し印象が違いますよね」
「ああ。全員同じにはならないからな」
「そうなんですね」
マリニーファは頷き、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、リリアはいつも青いリボンをしていますよね」
「ああ」
「それも、ヴァイス家と関係があるんですか?」
「どうだろうな」
レオンは少し考えた。
「リリアは昔から青が好きだ」
「青が好きなんですか?」
「ああ」
「だから、いつも青いリボンを?」
「多分な」
「そうなんですね」
マリニーファは少し嬉しそうに笑った。
「ヴァイス家にとっても、青は特別な色なんですか?」
「特別か……」
レオンは少し考える。
「昔から、よく使う色ではある。家でもそうだし、身につけるものにも使うな」
「では、ヴァイス家を表すような色なんですね」
「そこまで考えたことはない」
「レオン様は、そうでしょうね」
「どういう意味だ?」
「いいえ」
マリニーファは笑った。
「でも、私にとっては今日から少し特別な色になりそうです」
「青が?」
「はい」
「何でだ?」
「…………」
マリニーファは一瞬だけ黙った。
「綺麗だと思ったからです」
「そうか」
「はい」
レオンはそれ以上聞かなかった。
マリニーファは、もう一度レオンの目を見た。
今度は少しだけ長かった。
■ロングの町・劇場
「ここです」
レオンは建物を見上げた。
「ここで見るのか」
「はい」
マリニーファが二枚の券を取り出す。
「もう買ってあるのか」
「もちろんです」
「何を見る?」
「評判の恋愛劇です」
「恋愛劇?」
「人気があるそうです」
「そうか」
レオンは特に気にせず、マリニーファと一緒に劇場へ入った。
案内された席へ向かい、レオンは足を止める。
「ここか?」
「はい」
二人用の席だった。
普通の席二つよりも間隔が狭く、中央を隔てるものもない。二人で並んで座ることを前提に作られている。
レオンが座り、その隣へマリニーファも座った。
「…………」
「どうしました?」
「狭くないか?」
「そうですか?」
「近すぎるだろ」
レオンは隣を見る。
少し体を動かせば、すぐマリニーファへ触れそうな距離だった。
「普通の席は、もう少し離れてないか?」
「男女二人でお芝居を見る時は、こういう席になるんです」
「本当か?」
「はい」
レオンは疑わしそうにマリニーファを見る。
「周りをご覧になってください」
「周り?」
「はい」
レオンが周囲を見ると、同じような二人用席が並んでいた。
そこへ座っているのは、若い男女ばかりだった。確かに、どの席でも二人の距離は近い。
「…………」
「ほら」
「……本当だな」
「はい」
「これが普通なのか」
「そうです」
「そういうものか」
「そういうものです」
これについて、マリニーファは嘘をついていなかった。
この二人用席を利用している客の多くは、実際に男女二人だった。ただし、ここは劇場側が恋人同士など二人で観劇する客向けに用意している席であり、男女二人で芝居を見る者が必ず利用するわけではない。
普通の席を選ぶこともできる。
マリニーファが、わざわざこの席を選んで予約していただけだった。
そのことを、レオンは知らない。
「本当にこういうところに寄るんだな」
「でしょう?」
マリニーファは満足そうに答えた。
「勉強になる」
「まだ始まったばかりですよ」
「何が?」
「いえ。何でもありません」
やがて幕が上がり、舞台では若い男女の恋愛劇が始まった。
レオンは思った以上に真面目に見ていた。
マリニーファは、時々レオンの方を見ていた。
しばらくして、マリニーファの手がそっとレオンの手へ重なった。
「…………」
レオンが横を見る。
「何だ?」
声を抑えて尋ねる。
「お芝居を見ている時は、こうするものなんです」
「手を握るのか?」
「はい」
「また礼儀か?」
「そうですね」
「本当か?」
「周りを見てみてください」
レオンは舞台から少しだけ視線を外した。
近くの二人席では、男女が手をつないでいた。少し先にも、隣り合って座り、手を重ねている二人がいる。
「…………」
「ほら」
「……本当だな」
「はい」
これも、まったくの嘘ではなかった。
恋人同士で芝居を見ながら手をつないでいる者は実際にいる。ただ、芝居を見る男女が必ず手を握らなければならないという決まりはないし、もちろん礼儀でもなかった。
「そういうものか」
「そういうものです」
「分かった」
レオンはそれ以上気にせず、マリニーファの手も振りほどかないまま舞台へ視線を戻した。
隣を見ると、マリニーファは少し嬉しそうにしている。
それから芝居が終わるまで、マリニーファはレオンの手を離さなかった。
やがて劇が終わる。
「どうでしたか?」
「悪くなかった」
「それだけですか?」
「他に何がある?」
「感想です」
「今言っただろ」
「もう少し詳しくです」
レオンが眉を寄せた。
「芝居を見るのも大変だな」
「そうでしょうか?」
「感想まで細かく言うのか」
「二人で見たのですから」
「そういうものか」
「そういうものです」
レオンは少し考えた。
「最後は分かりやすかった。最初の男は、もっと早く話せばあそこまで面倒にならなかったと思う」
「……レオン様らしい感想ですね」
「そうか?」
「はい」
レオンはもう一度、舞台の方を見た。
「まあ、面白かった」
「本当ですか?」
「ああ」
マリニーファが嬉しそうに笑った。
「それなら、早く来て券を取っておいた甲斐がありました」
レオンがマリニーファを見る。
「早く来たのは、それか?」
「はい。券を取っておこうと思いまして」
「…………」
レオンは少し考えた。
「それで一時間か?」
「はい」
「……すまなかった」
「どうして謝るんですか?」
「俺と見るために、一時間も早く来たんだろ」
マリニーファは首を振った。
「私が勝手にしたことです」
「…………」
「私がレオン様と一緒に見たくて、勝手に券を取ったんです。ですから、謝らなくていいですよ」
「そうか」
レオンは少し考えた。
「よっぽど、この芝居が見たかったんだな」
「…………」
マリニーファがレオンを見る。
「それなら、今日まで待たなくても、一人で見に来てもよかったんじゃないのか?」
「レオン様、それでは意味がありません」
「意味がない?」
「はい。一人で見ても意味がありませんので」
「どうしてだ?」
「そういうものなんです」
「そうなのか」
「そうです」
レオンは少し考えてから頷いた。
「なるほど」
理由はよく分からなかった。
だが、今日だけでも知らないことをいくつも教えられている。
男女二人で出かける時には、まだ自分の知らない決まりが色々あるものらしい。
レオンはそう納得した。




