第2章74話 考えておくと言っただけ
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■第一執務室
レオンに買い物へ付き合ってほしいと頼んでから、一週間ほどが過ぎていた。
第一執務室では、書記官たちがいつも通り書類を処理している。
レオンも少し離れたところで仕事をしていた。書類を確認し、次の書類へ手を伸ばす。
その様子を、マリニーファ・ローレンはちらりと見た。
レオンは何も言わない。こちらを見ることもなく、ただいつも通り仕事をしている。
マリニーファは手元の書類へ視線を戻した。
少しして、また見る。
今日こそ、何か言ってくれるかもしれない。
そう思っていたが、レオンは書類を一枚めくっただけだった。
「マリニーファさん」
近くにいた女性書記官が声をかけた。
「はい」
「先ほどから、副長閣下の方を何度も見ていますよね?」
「見ていません」
「見ていますよ」
「気のせいです」
マリニーファは静かに答え、手元の書類へ視線を落とす。
しばらくして、またレオンを見る。
「今も見ましたよ」
もう一人の女性書記官が言った。
「見ていません」
「見ていました」
「…………」
マリニーファの手が止まった。
「副長閣下から、何か言われるのを待っているんですか?」
「待ってはいません」
「でも、ずっと気にしていますよね」
「ずっとではありません」
「では、時々?」
「…………」
マリニーファはしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
「以前、副長にお願いをしたんです」
「何をですか?」
「今度、買い物に付き合っていただけないかと」
「副長閣下は、何と?」
「考えておく、と」
二人の女性書記官が顔を見合わせた。
「それは、いつのお話ですか?」
「一週間ほど前です」
「一週間……」
「はい」
一人が少し考える。
「まだ考えていらっしゃるのでしょうか?」
「そうだと思っています」
「でも、一週間ですよ?」
「…………」
もう一人が少し声を落とした。
「もしかして、副長閣下……忘れているのでは?」
マリニーファの手が止まった。
「…………」
「副長閣下、お忙しいですし」
「仕事のことなら忘れないでしょうけど」
「仕事ではないですからね」
「…………」
マリニーファは、もう一度レオンを見る。
相変わらず書類を読んでいた。
「……忘れてはいないと思います」
「聞いてみたらどうですか?」
「何をですか?」
「買い物のことです」
「…………」
「『考えていただけましたか』と」
「それは……」
マリニーファは少し視線を落とした。
「言いにくいです」
「どうしてです?」
「私からお願いしたことですから」
「はい」
「まだですか、と催促しているように聞こえるでしょう」
「ああ……」
「それは確かに」
二人も少し納得した。
「だから、そのうち副長の方から何か言ってくださると思っています」
「それで見ていたんですね」
「見ていません」
「まだ言いますか?」
「見ていません」
二人の女性書記官が少し笑った。
「でも、本当に忘れていたらどうするんです?」
「…………」
マリニーファは答えなかった。
少しして、またレオンを見る。
やはり仕事をしている。
「……忘れていないと思います」
今度は、さっきより少しだけ自信がなかった。
もう一人の女性書記官が尋ねる。
「買い物ということは、二人で町へ行くのですか?」
「その予定です」
「それは、デートでは?」
「買い物です」
「二人で出かけるのでしょう?」
「はい」
「仕事ではなく?」
「はい」
「でしたら、デートでは?」
マリニーファは少し考えた。
「買い物を兼ねた外出です」
「副長閣下と二人で?」
「そうです」
「やっぱりデートではありませんか」
「そう呼びたいのであれば、止めません」
マリニーファは平静を保ったまま答えたが、口元は少しだけ緩んでいた。
その日の午後、第一執務室の中では、マリニーファが副長と買い物へ行くらしい、という話になった。
夕方には、副長がマリニーファを町へ誘うらしい、という話になった。
翌日には、二人はすでに出かける約束をしていることになった。
さらにその翌日には、レオンが約束したにもかかわらず、仕事が忙しく、まだ予定を決められていないという話に変わっていた。
■第一執務室
「レオン」
イリスが書類から顔を上げた。
「何だ」
レオンは机の前に立ち、今日の予定表を確認していた。
「マリニーファさんと、町へ出かける約束をしたのですか?」
レオンが止まった。
「してない」
「そうなのですか?」
「何の話だ」
「買い物へ付き合う約束です」
「約束はしてない」
レオンは即座に否定した。
「考えておくとは言った」
「それだけですか?」
「ああ」
「いつ返事をする予定だったのですか?」
「まだ考えている」
「一週間も?」
「仕事じゃないからな」
イリスは少し目を細めた。
「仕事でなければ、一週間返事をしなくてもよいのですか?」
「急ぎじゃないだろ」
「そういう問題ではありません」
「…………」
レオンがイリスを見る。
「マリニーファさんは待っていますよ」
「待っている?」
「はい」
「何をだ」
「レオンから返事をいただくことをです」
「何でそうなる」
「『考えておく』と言われたからでしょう」
「考えると言っただけだ」
「だからです」
イリスは、今度ははっきりと言った。
「行く気がまったくなかったのでしたら、最初から断ればよかったのです」
「…………」
「断らずに『考えておく』と答えたのであれば、マリニーファさんが返事を待つのは当然でしょう。しかも、一週間です」
「…………」
「その間、レオンからは何も言わなかったのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、曖昧な返事をしたままにしたレオンにも原因があります。マリニーファさんが勝手に期待した、という話ではありません」
「…………」
「行かないのであれば断る。行くかどうか考えるのであれば、考えたあとで返事をする。それくらいはしてください」
レオンはしばらく黙っていた。
「……そうかもしれない」
「そうです」
イリスはすぐに返した。
レオンは予定表へ視線を戻した。少し気まずそうだった。
「しかも今では、副長がマリニーファさんとデートの約束をしたという話になっています」
「何でだ」
「噂というものは、少しずつ形を変えるものです」
「変わりすぎだろ」
「皆さん、レオンは騎士なので、一度した約束を破るはずがないと安心しているそうですよ」
「だから、約束はしてない」
「ですが、皆さんはしたと思っています」
レオンは黙った。
考えておく。それしか言っていない。
行くとも言っていないし、約束もしていない。
だが、マリニーファは自分から返事が来るのを一週間待っていた。周囲の者たちは、自分がすでに約束したと思っている。
「……それはまずいな」
レオンが小さく言った。
「そう思いますか?」
「ああ」
「では、行くつもりはなかったのですか?」
「いや」
レオンは首を振った。
「時間が取れれば行ってもいいと思ってた」
「それを、マリニーファさんには伝えていませんね」
「考えておくと言った」
「それでは伝わりません」
「そうか」
レオンはまた黙った。
今日も、明日も、その次も仕事が並んでいる。空いている日は少ないが、まったくないわけではなかった。
「次の休みは」
レオンが予定表を指さす。
「ここか」
「はい」
「何か入ってるか?」
「今のところは」
「その日は空けておけ」
イリスの表情が少しだけ和らいだ。
「承知しました」
「何だ?」
「いいえ」
イリスは予定表へ印をつけた。
「今度は、マリニーファさんを待たせないでくださいね」
「ああ」
■第一執務室
仕事が終わる少し前。
第一執務室では、その日の仕事を終えた者から少しずつ書類を片付け始めていた。マリニーファも、処理を終えた書類を棚へ戻している。
「マリニーファ」
声をかけられ、マリニーファの動きが止まった。
振り返ると、レオンが立っていた。
「はい、副長」
「その……悪かった」
「はい?」
マリニーファが目を瞬いた。
「買い物の話だ」
「…………」
「一週間も返事しなかった。考えておくと言ったままだった」
レオンは少しだけ視線を逸らした。
「待たせた。すまない」
「いえ」
マリニーファはすぐに首を振った。
「副長がお忙しいことは分かっていますから。お仕事が多いですから、なかなか時間を決められないのだと思っていました」
レオンはマリニーファを見る。
「忘れてるとは思わなかったのか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「副長が『考えておく』とおっしゃったのですから、忘れているとは思っていませんでした。お忙しいだけだと思っていました」
マリニーファは、ごく普通のことのように答えた。
レオンは何も言わなかった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
一週間、マリニーファは自分が忙しいだけだと思って、ずっと待っていたらしい。
「……そうか」
「はい」
少し離れたところで、イリスが二人を見ていた。
レオンがきちんと謝ったのを聞いて、先ほどまでより少しだけ表情を和らげる。
「それで」
レオンが続けた。
「次の休み、空いてるか?」
マリニーファが止まった。
同時に、周囲で帰る準備をしていた書記官たちの手も止まる。
「空いていないのか?」
「空いています」
返事は早かった。
「そうか」
「何時からでも空いています」
「そこまで聞いてない」
「必要であれば、朝からでも」
「昼からでいい」
「はい」
マリニーファの顔が、ぱっと明るくなった。さっきまでどうにか保っていた平静も、もうほとんど残っていなかった。
「前に言ってた買い物」
「はい」
「付き合う」
「本当ですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
マリニーファは深く頭を下げ、すぐに顔を上げる。笑みを隠しきれていなかった。
「楽しみにしています」
「ああ」
少し間を置いて、マリニーファは声を落とした。
「本当に楽しみにしています、レオン様」
「その呼び方は、仕事中はやめろ」
「もうすぐ仕事は終わります」
「まだ終わってない」
「では、終わったら呼びます」
「そういう問題じゃない」
マリニーファは嬉しそうに笑った。
その少し後ろから、小さな声が聞こえた。
「よかったわね」
「本当に」
「一週間、ずっと待っていましたものね」
冒頭でマリニーファに声をかけていた女性書記官たちだった。
「副長閣下、ちゃんと覚えていらしたのね」
「当然でしょう」
「マリニーファさん、すごく嬉しそう」
「聞こえています」
マリニーファが振り返った。
だが、怒ってはいなかった。むしろ、まだ笑っている。
二人の女性書記官も顔を見合わせた。
「よかったですね」
「はい」
今度は、マリニーファも素直に答えた。
レオンにも、そのやり取りは全部聞こえていた。
「…………」
考えておく。
自分はそう言っただけだった。
それが、買い物へ行くらしい、になって、自分から誘うらしい、になって、いつの間にか約束したことになった。
そして最後には、本当に約束することになった。
「…………」
考えておくと少し言っただけで、こんなことになるんだな。
レオンはそう思った。
ただ、一週間も返事をしなかったのは自分も悪かったらしい。次からは、もう少し早く返事をしよう。
そこで、レオンはふと思った。
仕事で女性と話すことは珍しくない。仕事の都合で二人きりになることもある。
だが、仕事とはまったく関係なく、女性と二人で町を歩くとなると、今回が初めてかもしれない。
「…………」
そう考えた途端、少しだけ不安になった。
こういう時にも、何か決まりがあるのだろうか。何をするのが普通なのか。逆に、何をしてはいけないのか。
自分の知らない常識があるかもしれない。
レオンは少し顔をしかめた。
以前にも買い物へ行った時、よく分かっていないせいで失敗したことがある。
部下たちから、世間知らずだとか、常識を知らないとか、未熟者だとか言われているのを耳にしたことがある。
あれは、あまり好きではなかった。
自分でも常識を知らないところがあるのは分かっている。だからこそ、今回は同じような失敗をしない方がいい。
マリニーファに付き合うために出かけるのだから、自分が何か変なことをして困らせるのもよくないだろう。
誰かに聞いておくか。
レオンはそう考えた。
分からないことは、知っている人間に聞けばいい。仕事でも、いつもそうしている。
だが、「女性と二人で出かける時は、どうすればいい」と部下に尋ねる自分を想像すると、少し気が重くなった。
また常識知らずだと言われそうだった。
世間知らずだとも言われるかもしれないし、下手をすれば、そんなことも知らないのかと呆れられる。
それに、少し恥ずかしい。
「…………」
レオンはしばらく考えた。
そして、別に今聞かなくてもいいことに気づいた。
当日、分からないことがあれば、その時に聞けばいい。
一緒にいるのはマリニーファだ。自分より、こういうことには詳しいだろう。
何か自分の知らない決まりや常識があるなら、マリニーファに聞けばいい。
「……それでいいか」
レオンは一人で納得した。
分からないことは、知っている人間に聞く。それなら失敗もしない。
今度こそ、たぶん大丈夫だろう。
レオンはそう思った。




