第2章幕間17 白い影
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■三階廊下
ランタンがある。
さっきとは違う。
これなら。
大丈夫。
ライはそう思いながら歩いた。
少し進む。
まだ。
仮眠室前の灯りが後ろに見えている。
まずは三階を少し見て。
いなければ。
どうしよう。
「……」
そこから先は。
まだ考えないことにした。
歩く。
ランタンの小さな火が揺れる。
壁に。
ライ自身の影が揺れた。
「……」
嫌だ。
影まで怖く見える。
ライは足を進めた。
それほど遠くへは行っていない。
まだ。
少し歩いただけだった。
その時。
後ろから。
足音が聞こえた。
「……」
ライの足が止まりかける。
こつ。
こつ。
確かに。
今度は聞こえる。
誰かがいる。
後ろから。
来ている。
「……誰だ?」
返事は。
よく聞こえなかった。
何か。
声のようなものがした気もする。
だが。
廊下に響いて。
何を言っているのか分からない。
ライは。
ゆっくり後ろを見る。
「……」
暗闇。
ランタンの光が届かない。
その向こうに。
白いものが見えた。
「……え」
人の形。
白い影。
こちらへ。
近づいてくる。
「……っ!」
ライは前を向いた。
歩く。
速く。
走る直前くらいの速さで。
後ろの足音も。
速くなった。
「何で!?」
ライはさらに速くなる。
足音もついてくる。
間違いない。
追いかけてきている。
白い影が。
自分を。
「嘘だろ……!」
ライは走り出した。
片手のランタンを落とさないように。
もう片方の手で通達文を握りしめたまま。
走る。
後ろから。
白い影も走ってくる。
「待って――」
何か聞こえた。
そして。
そのあと。
「ライ書記官――!」
「……っ!」
自分の名前。
そう聞こえた。
いや。
聞き間違いかもしれない。
そうであってほしい。
だが。
今のライには。
確かめる余裕などなかった。
「無理無理無理無理!」
白い幽霊。
あれだ。
絶対に。
あれだ。
とうとう。
自分のところへ来た。
何で。
どうして。
そもそも。
「イリス殿下のせいじゃないですか!」
走りながら。
思わず声が出た。
夜八時まで残ってください。
嫌です。
お願いします。
嫌です。
では命令です。
「何が命令ですか!」
誰もいない廊下を走りながら叫ぶ。
「こんな仕事、僕にさせていいんですか!?」
後ろから足音。
速い。
確実に。
近づいている。
「僕、怖いって言いましたよね!」
言った。
何度も言った。
幽霊が嫌いだと。
怪談が嫌いだと。
白い影なんて絶対に嫌だと。
それなのに。
仮にも親衛隊員ですよね。
「親衛隊員は幽霊と戦う仕事じゃないんですよ!」
今さらだった。
だが。
言わずにはいられない。
そして。
次に浮かんだのは。
コウだった。
「あいつだ!」
ライは歯を食いしばる。
体調が悪い。
今日は早退する。
そう言って。
さっさと帰った。
「コウのせいだ!」
絶対。
あいつ。
逃げた。
「今日に限って体調悪くなるとか絶対おかしいだろ!」
朝から調子が悪かった。
そんなことを言っていた。
だが。
ライには何も言っていなかった。
親友だと思っているのに。
こういう時だけ。
何も言わずに帰った。
「明日絶対言ってやるからな!」
明日。
無事に帰れたら。
絶対に。
一言では済まさない。
もっと言う。
そのくらい。
今は腹が立っていた。
後ろから。
足音。
また近づく。
「ライ書記官!」
今度は。
はっきり聞こえた。
聞き間違いではない。
白い影が。
自分の名前を呼んでいる。
「何で名前知ってるんですか!」
余計に怖くなった。
「待ってください!」
「嫌です!」
ライは反射的に答えた。
誰だか知らない。
いや。
知りたくない。
白い影に。
名前を呼ばれながら。
待てと言われて。
待つ人間がどこにいる。
「ライ書記官!」
「呼ばないでください!」
ライは走る。
名前を呼ばれる。
そのたびに。
後ろの白い影が。
自分だけを狙って。
追ってきているような気がした。
そして。
今度は。
別の顔が頭に浮かんだ。
「……クリスさん!」
こんな時に。
なぜか。
クリスだった。
普段。
用もないのに第一執務室へ来る。
少なくとも。
ライにはそう見えている。
ふらっと現れて。
ライを見つけると。
何か言う。
いじる。
余計なことを言う。
「いつも関係ない時にはいるくせに!」
ライは半分叫びながら走った。
「何で今日だけいないんですか!」
今日こそ。
いてほしかった。
本当に。
心から。
いてほしかった。
いつものように。
何をしてるんだ、ライ。
とか。
怖がってるのか。
とか。
好き勝手言いながら。
第一執務室にいてくれれば。
少なくとも。
もう少し何とかなったかもしれない。
「こういう時に来てくださいよ!」
もちろん。
クリスには何の責任もない。
だが。
今のライには。
そんなことはどうでもよかった。
イリスが悪い。
コウも悪い。
クリスも悪い。
全員悪い。
少なくとも。
今。
自分だけがこんな目に遭っているのだから。
「何で僕だけなんですか!」
走る。
ランタンの灯りが激しく揺れる。
壁に映った影も。
大きく。
小さく。
歪みながら揺れた。
それすら。
今は怖い。
「もう嫌だ!」
後ろの足音は。
まだ消えない。
むしろ。
どんどん近づいている。
「ライ書記官!」
また。
名前を呼ばれた。
近い。
さっきより。
明らかに近い。
「来ないでください!」
「待ってください!」
「待てるわけないでしょう!」
「ライ書記官!」
「だから名前呼ばないでください!」
ライは必死に走った。
だが。
後ろの足音は。
確実に近づいてくる。
一歩。
また一歩。
すぐ後ろまで。
来ている。
「無理ですって!」
ライはさらに速度を上げようとした。
だが。
片手にはランタン。
もう片方には通達文。
好きなように走れるわけでもない。
ランタンを落としたら。
また真っ暗になる。
それだけは。
絶対に嫌だった。
だから。
強く握る。
走る。
息が苦しい。
足も重くなってきた。
それでも。
止まれない。
白い影が追ってくる。
しかも。
何度も。
自分の名前を呼びながら。
追ってくる。
止まったら。
捕まる。
「イリス殿下……!」
また。
イリスの顔が浮かんだ。
大丈夫です。
副長も残っていますから。
二人います。
問題ありません。
「全然大丈夫じゃないじゃないですか!」
レオンは。
今。
どこにいるのか分からない。
第一執務室には。
もういないかもしれない。
統合管理室か。
それとも。
別の場所か。
だが。
多分。
どこかで。
普通に仕事をしている。
「副長閣下も何で普通に仕事してるんですか!」
今。
自分が。
三階で白い何かに。
名前を呼ばれながら追いかけられていることなど。
きっと知らない。
知るはずもない。
だが。
そこで。
ライは。
もっと大事なことを思い出した。
「……いや!」
衛兵はいない。
守衛もいない。
夜だからではない。
昼も夜も。
今は。
配置されていない。
そして。
その理由。
「衛兵隊を解散させたの、副長閣下じゃないですか!」
ライは走りながら叫んだ。
「そもそも!」
後ろから。
「ライ書記官!」
また。
名前を呼ばれる。
「こんなに広い庁舎なのに!」
一歩。
また一歩。
足音が近づく。
「衛兵も守衛もいないの!」
さらに近い。
「副長閣下のせいじゃないですか!」
ライの中で。
ようやく。
全部がつながった。
イリスに残された。
コウは帰った。
クリスはいない。
だが。
そもそも。
夜の庁舎に。
人がほとんどいない。
その原因。
「結局、副長閣下が一番悪いじゃないですか!」
もちろん。
今。
そんなことを言っても。
何も変わらない。
レオンが聞いているわけでもない。
それでも。
言わずにはいられなかった。
「こんなことになってるの、元をたどれば副長閣下のせいでしょう!」
「ライ書記官!」
「嫌です!」
声は。
もう。
かなり近い。
「少し待ってください!」
「絶対嫌です!」
ライは走った。
角が見える。
そこまで。
そこまで行けば。
何か。
何とかなるかもしれない。
何が何とかなるのかは。
分からない。
だが。
今は。
ただ逃げるしかない。
足音が。
さらに近づいた。
「ライ書記官!」
今度は。
ほとんど。
すぐ後ろから聞こえた。
「来ないでください!」
「待ってください!」
「待てるわけないでしょう!」
声は。
もう。
すぐ後ろだった。
「――っ」
ライは角へ向かおうとした。
その時。
背後から。
気配が迫った。
そして。
肩に。
何かが触れた。
「……っ!」
掴まれた。
はっきり。
肩を掴まれた感触。
ライの身体が固まった。
白い影。
幽霊。
捕まった。
その三つしか。
頭に浮かばない。
反射的に。
振り返る。
白い。
目の前いっぱいに。
白いものが見えた。
白い影。
白い鎧。
「……」
そこまでだった。
頭の中が。
真っ白になる。
ランタンの灯りが。
遠くなる。
肩を掴まれた感触も。
足元の感覚も。
何も分からなくなる。
そして。
ライの意識は。
完全に途切れた。




