第2章幕間13 夜八時まで
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
その日の午後。
第一執務室では、一通の文書が作られていた。
近衛中隊の夜間配置変更について。
仮眠室前の警護二名を一名へ減らし、庁舎一階の巡回を二名から三名へ増やす。
残る一名は、これまで通り休憩。
先ほどレオンが決めた夜間警備の変更内容だった。
イリスは書き上げた通達文を確認し、机の上へ置いた。
「これでよいでしょう」
レオンは近くの机に置かれた書類へ目を落とした。
「なら、近衛中隊に渡しておいてくれ」
「はい」
イリスは頷いた。
そして。
少しだけ手を止めた。
「……誰に渡してもらいましょうか」
レオンが顔を上げる。
「誰でもいいだろ」
「そういうわけにはいきません」
「第一執務室の書記官に持たせればいい」
「それはそうなのですが」
イリスは時計を見る。
「近衛中隊の夜勤が入るのは、夜八時頃です」
「そうだったな」
「第一執務室の勤務は午後五時までです」
「……」
レオンも時計を見る。
まだ午後だった。
だが。
夜勤の近衛中隊が来る頃には、第一執務室の職員はほとんど帰っている。
「一人残せばいいだろ」
レオンは簡単に言った。
第一執務室が静かになった。
周囲にいた書記官たちが、一斉にこちらを見る。
特に。
女性書記官たちの視線が、イリスへ集まった。
「……」
イリスも、その視線を受けた。
「何だ?」
レオンが尋ねる。
イリスは少し考えてから答えた。
「難しいかもしれません」
「なぜだ」
「今、副長府では白い幽霊の話がありますから」
「あれか」
「七不思議の話まで広がっています」
第一執務室にいる何人かが、無言で頷いた。
レオンは眉を寄せる。
「別に本当に幽霊が出ると決まったわけじゃないだろ」
「そうですが」
イリスは周囲を見た。
「だからといって、夜八時まで一人で残りたい方はいますか?」
誰も手を挙げなかった。
一人もいなかった。
「……」
「いませんね」
すると。
「私なら残っても大丈夫ですよ」
柔らかな声がした。
リリアだった。
少しブラウンの混じった長い金髪を、青いリボンでまとめている。
仕事着のまま、穏やかに微笑んでいた。
レオンが即座に振り返る。
「駄目だ」
「でも、お兄様」
「駄目だ。お前は帰れ」
「夜八時までいるだけですよ?」
「だから駄目だ」
「でも、通達文をお渡しするだけなら」
「リリア」
レオンは少しだけ強い声で言った。
「今、夜の庁舎で幽霊だの七不思議だの騒いでるんだろ」
「はい」
「そんなところに、お前を一人で残せるか」
リリアは少し考えた。
「私は、あまり怖くありませんけど」
「俺が嫌なんだ」
「そうですか」
「帰れ」
「分かりました」
リリアは素直に頷いた。
レオンは軽く息を吐く。
そして。
「じゃあ、お前が残ればいいだろ」
今度はイリスを見る。
周囲の女性書記官たちも、期待するようにイリスへ視線を向けた。
イリスは少しだけ視線を逸らした。
「私も今日は五時で帰ることになっています」
「お前もか」
「はい」
「首席書記官だろ」
「首席書記官にも退勤時間はあります」
「それはそうだが」
レオンは少し眉を寄せた。
「三時間くらい残れないのか」
「今日はメリッサと一緒に帰ることになっていますので」
「メリッサと?」
「はい」
「どうしてだ」
「メリッサは、こういう怖い話が苦手なんです」
「白い幽霊とかか」
「はい。七不思議の話も気にしています」
「それで、お前が一緒に帰るのか」
「そうです」
レオンは少し黙った。
そして。
イリスを見る。
「……本当にメリッサが怖いからか?」
「何ですか、その聞き方は」
「メリッサじゃなくて、お前が怖いから一緒に帰るんじゃないのか?」
「……」
イリスが黙った。
「違うのか?」
「メリッサも怖がっています」
「お前は?」
「……」
「イリス」
イリスは少しだけ視線を逸らした。
「それに、あまり遅くなると父と母も心配しますので」
「……待て」
レオンが止めた。
「何でしょう」
「お前の父親と母親は帝都だろ」
「……」
「ここにはいないだろ」
「そうですね」
「それに」
レオンはイリスを見る。
「お前が帰るのは俺の家だろ」
「……」
イリスは黙った。
周囲の書記官たちも。
何となく黙った。
「父親と母親は関係ないだろ」
「……そうですね」
「じゃあ、何なんだ」
少しの沈黙。
やがて。
イリスが小さく息を吐いた。
「……正直に申し上げますと」
「ああ」
「私も苦手なんです」
「幽霊が?」
「はい」
「怪談も?」
「……はい」
「やっぱりじゃないか」
「仕方ないでしょう」
イリスは少しだけ不満そうに言った。
「幽霊や怪談が苦手なことと、首席書記官であることは関係ありません」
「それはそうだな」
「ですから、今日はメリッサと明るいうちに帰ります」
そこで。
リリアが微笑んだ。
「では、一緒に帰りましょう」
イリスがリリアを見る。
「リリアさん?」
「私も今日は五時で帰りますから、イリス様もメリッサさんも一緒に帰りましょう」
「……そうですね」
イリスの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「そうしましょう」
レオンも頷いた。
「それなら俺も安心だ」
リリアがレオンを見る。
「お兄様は?」
「俺は残る」
「まだお仕事ですか?」
「ああ」
リリアは少し困ったように笑った。
「お兄様も、あまり遅くならないでくださいね」
「分かってる」
「本当ですか?」
「……なるべくな」
リリアはそれ以上言わず、小さく微笑んだ。
レオンは軽く息を吐く。
「じゃあ、俺が渡す」
「駄目です」
今度はイリスが即答した。
「なぜだ」
「形式があります」
「渡すだけだろ」
「副長ご本人が、夜八時まで近衛中隊を待って、配置変更の通達文を直接手渡すおつもりですか?」
「それの何が悪い」
「そういう問題ではありません」
イリスは淡々と答えた。
「これは第一執務室が扱う正式な通達です」
「書記官を通してください」
「俺が決めた配置変更だぞ」
「存じています」
「俺が渡した方が早いだろ」
「形式を守ってください」
「面倒だな」
「職務です」
レオンは黙った。
イリスがそう言い始めると。
だいたい覆らない。
レオンは早々に諦め、手元の別の書類へ視線を落とした。
「では」
イリスが第一執務室を見渡す。
「夜八時まで残れる書記官を一人――」
再び。
女性陣が目を逸らした。
「……」
イリスは何も言わなかった。
夜の庁舎。
白い幽霊。
七不思議。
女性書記官を一人だけ残すというのも、さすがに問題がある。
そこでイリスは視線を動かした。
第一執務室に残っている、数少ない男性書記官。
ライ。
そして。
コウ。
ライも、その視線に気づいた。
嫌な予感がした。
イリスはまずコウを見る。
「では、コウさん」
「すみません」
コウが先に口を開いた。
「少し体調が悪くて」
「体調が?」
「はい。今日はこれで早退させていただこうと思っていたんです」
ライがゆっくりとコウを見る。
「え?」
「朝から少し調子が悪くて」
「そうだったのか?」
「うん」
コウは頷いた。
ライは知らなかった。
「それなら仕方ありませんね」
イリスが言った。
「今日はもう帰ってください」
「ありがとうございます」
コウは頭を下げた。
「お大事に」
「はい」
そして。
コウが帰り支度を始める。
ライは、その姿を見つめていた。
何となく。
ものすごく置いていかれる気がした。
ゆっくり。
イリスの視線が動く。
ライへ。
「……」
「……」
二人の目が合った。
「ライさん」
「ちょっと待ってください」
「まだ何も言っていません」
「分かりますよ」
ライは即座に答えた。
「その目で分かります」
「それなら話が早いですね」
「早くないです」
ライは首を振った。
「嫌ですよ」
「まだ頼んでいません」
「今から頼むんでしょう?」
「はい」
「やっぱり!」
ライは思わず声を上げた。
「夜八時まで残ってください」
「嫌です」
「近衛中隊の夜勤が来たら、この通達文をミズーリ・バス中隊長へ直接渡してください」
「その『だけ』が嫌なんですよ」
「三時間ほど残るだけですよ」
「その三時間、ここにいるんですよね?」
「当然です」
ライは周囲を見た。
昼間の第一執務室は明るい。
人もいる。
今は何ともない。
だが。
五時を過ぎれば。
一人。
また一人。
皆、帰っていく。
夜八時まで。
この広い庁舎に残る。
「僕、何回も言ってますよね?」
「何をですか?」
「幽霊とか怪談とか、そういうの、本当に嫌なんですよ」
「知っています」
「知ってるなら頼まないでくださいよ!」
「幽霊が出るとは限らないでしょう」
「出るかもしれないじゃないですか!」
「出ないかもしれません」
「だったらイリス殿下が残ってくださいよ!」
「私は五時で帰ります」
「なんでですか!」
「先ほど説明したでしょう」
「自分も怖いからじゃないですか!」
「それとこれは別です」
「何が別なんですか!」
「私はメリッサとリリアさんと帰ります」
「僕だって誰かと帰りたいですよ!」
ライは本気だった。
「ほかの書記官じゃ駄目なんですか?」
「女性の書記官を、夜八時まで一人で残すわけにはいきません」
「どうしてですか?」
「危ないでしょう」
「僕はいいんですか?」
「ライさんなら大丈夫でしょう」
「何でですか!」
イリスは一瞬だけ考えた。
「仮にも親衛隊員ですよね?」
ライが止まった。
「……」
「親衛隊員ですよね?」
「それと幽霊は関係ないでしょう!」
ライはすぐに復活した。
「親衛隊員は幽霊に強いわけじゃありませんよ!」
「ですが、一般の女性書記官よりは安心です」
「何が安心なんですか!」
「いろいろとです」
「全然説明になってません!」
ライは必死に抵抗した。
だが。
イリスは平然としていた。
レオンは。
もう二人のやり取りをほとんど聞いていなかった。
いつの間にか、別の書類へ視線を落としている。
「せめて、ほかの誰かと二人にしてください」
ライが必死に頼んだ。
イリスは少し考えた。
「では」
第一執務室を見渡す。
「ライさんと一緒に、夜八時まで残ってくださる方はいますか?」
「……」
誰も手を挙げなかった。
一人も。
先ほどまでこちらを見ていた書記官たちも。
今度は。
何となく書類へ視線を落としていた。
ライは周囲を見回す。
誰とも目が合わない。
「そんな……」
ライの肩が落ちた。
「では、決まりですね」
「何が決まったんですか!」
「ライさん一人で残ることがです」
「今のは仲間を募集しただけでしょう!」
「誰もいませんでした」
「だからって一人で決定しないでくださいよ!」
「ですが、一通の通達文を渡すためだけに、嫌がる方を二人残す必要もありません」
「僕だって嫌がってます!」
「知っています」
「知ってるなら何とかしてくださいよ!」
「それに」
イリスは少し離れたところへ視線を向けた。
「副長も残られますよね?」
レオンが書類から顔を上げた。
「ああ」
それだけ答える。
そして。
すぐに書類へ視線を戻した。
「ほら」
イリスがライを見る。
「副長も残りますから、厳密には一人ではありません」
「……」
ライはレオンを見る。
確かに。
レオンはいる。
夜まで仕事をするつもりなのだろう。
「二人います。大丈夫でしょう」
「……確かに、二人ですけど」
ライは少しだけ考えた。
レオンを見る。
だが。
すでに。
レオンは完全に仕事へ戻っていた。
こちらを見る様子すらない。
「……でも、副長閣下、ただいるだけですよね」
「何か問題がありますか?」
「ずっと仕事してるだけじゃないですか」
「いらっしゃることに変わりはありません」
「そういうものですか?」
「少なくとも、一人ではありません」
「……」
ライはもう一度レオンを見る。
レオンは書類をめくっていた。
こちらの会話など。
もうほとんど聞いていないようだった。
「……本当に大丈夫かな」
ライは小さく呟いた。
「大丈夫です」
「イリス殿下が言っても全然安心できませんよ」
「では、問題ありませんね」
「何でそうなるんですか!」
「ライさん」
「はい」
「お願いします」
「嫌です」
「お願いします」
「嫌です」
「では」
イリスは机の上の通達文を持ち上げた。
「命令です」
「……」
ライが固まった。
「首席書記官として命じます」
イリスは、その文書をライへ差し出した。
「今夜八時頃、近衛中隊の夜勤が入ったら、この通達文をミズーリ・バス中隊長本人へ直接渡してください」
「……本人にですか?」
「本人にです」
「誰かに預けるのは?」
「駄目です」
「机の上に置いておくのは?」
「駄目です」
「明日の朝では?」
「今夜から配置を変更します」
「ですよね……」
ライは肩を落とした。
それでも。
最後の望みを託すように、レオンを見る。
「副長閣下」
レオンが顔を上げた。
ライは何も言わなかった。
ただ。
助けてほしい。
そんな目で見た。
レオンは。
ライを見た。
次に、イリスを見た。
そして。
静かに首を横へ振った。
「……副長閣下まで」
ライの声が弱くなる。
イリスは通達文を差し出したままだった。
「ライさん」
「……はい」
「お願いします」
今度はもう。
拒否できなかった。
ライは、ゆっくりと通達文を受け取った。
夜八時まで。
あと数時間。
紙一枚を渡すためだけに。
幽霊騒ぎの続く副長府庁舎へ、夜まで残ることになった。
ライは手の中の通達文を見つめた。
嫌な予感しかしなかった。




