第2章70話 副長府衛兵隊
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■総騎士団副長府庁舎・副長室
その日の午後。
レオンは珍しく執務室ではなく副長室にいた。
机の上には、新しく書き直された書類が置かれている。
副長府庁舎内警備体制やや強化。
大幅な強化ではない。
やや強化である。
レオンは、その題名を見ただけで少し疲れた。
以前、総長へ直談判した結果、衛兵隊から五名を派遣してもらえることになっていた。
そして今日、その五名が副長府へ来る。
衛兵隊から五名。
少ない。
だが、今の副長府にとっては、それでも貴重な五名だった。
自分が警備を甘く見ていたことは、もう認めるしかない。
門衛すら置かなかった判断は、明らかに行きすぎだった。
「間もなく来ます」
そばで書類を確認していたイリスが言った。
レオンは顔を上げる。
「衛兵隊か」
「はい。総長府からの派遣です」
「五人だけだがな」
「五人でも、いないよりはましです」
「分かっている」
レオンは軽く襟を正した。
その直後、扉が叩かれる。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、五人の衛兵だった。
先頭に立つ男は、年は三十前後だろうか。
無駄のない動きで一礼する。
その後ろに、四人の部下が並んでいた。
そのうち一人は、若い女性だった。
「本日より、副長府の衛兵隊長を拝命いたしました、レックマンです」
男がはっきりと名乗った。
「こちらが部下の四名です」
続いて、四人が順に名を告げた。
最後に、若い女性衛兵が一歩前へ出る。
「エルト・マーラーと申します」
声は少し緊張していたが、姿勢はまっすぐだった。
レックマンは改めて頭を下げる。
「閣下。副長府への配属、誠にありがとうございます。まだ人数は少ないですが、誠心誠意、務めさせていただきます」
「期待している」
レオンは頷いた。
「さっそくだが、聞きたい」
「はい」
「五人で、どの程度の警備ができる」
レックマンの表情が、わずかに引き締まった。
「先ほど、庁舎と敷地内を確認してまいりました」
「早いな」
「必要と思いましたので」
レックマンは一度頷いた。
「ただ、その前に一点、確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「我々が担当する警備の範囲についてです」
「範囲?」
「はい」
レックマンは続ける。
「この総騎士団副長府庁舎と敷地だけではなく、ヴァイス騎士団の各大隊本部についても、我々が警備を担当するのでしょうか」
「いや」
レオンはすぐに首を振った。
「今はそこまでやらなくていい」
「よろしいのですか?」
「ああ。各大隊本部については、当面それぞれの大隊に任せる」
レオンは机の上の書類を指で軽く叩いた。
「それより、まずこっちだ」
「この庁舎ですか」
「ああ」
レオンは少し疲れた顔をする。
「自分たちがいる副長府庁舎の警備すら、まともにできていない」
「まずは、この庁舎と敷地内を何とかしてくれ」
「承知しました」
「五人しかいないんだ。最初から手を広げる必要はない」
「では、総騎士団副長府庁舎と、その敷地内を最優先として警備計画を組みます」
「ああ。頼む」
「それで、確認したところですが」
レックマンの表情が、さらに引き締まった。
「まず、敷地内に門衛がいません」
「……ああ」
「出入口を見守る者も、敷地内を巡回する者も、現状ほぼ確認できませんでした」
「ほぼ」
「はい。極端な話ですが、犬や猫でも素通りできます」
レオンは少し黙った。
イリスは何も言わない。
「さらに、庁舎そのものが大きすぎます」
レックマンは続けた。
「まだ半分ほどは工事中と聞いておりますが、完成している部分だけでも、総長府より大きいかもしれません」
「そこまでか」
「少なくとも、五名で全体を警備するには広すぎます」
レックマンは遠慮なく言った。
「現実的には、一階層の巡回と出入口確認だけでも限界に近いかと」
「一階層だけか」
「はい。二十四時間体制は、とても無理です」
「まずは昼間の最低限の警備から始めることになると思います」
副長室に、少し重い沈黙が落ちた。
レオンは机の上の書類を見た。
五人。
本当に五人しかいない。
昼間だけでも足りないと言われている。
だが。
夜については、まったく人がいないわけではなかった。
「夜間は、近衛中隊の配置を変える」
レックマンが顔を上げた。
「近衛中隊ですか?」
「ああ」
レオンはイリスを見る。
「今、夜は五人だったな」
「はい」
イリスが答えた。
「新副長室前の警護に二名。庁舎内巡回に二名。残る一名が休憩です」
「違う」
レオンは即座に言った。
「あれは仮眠室だ」
「正式には、そうです」
「なら仮眠室だ」
イリスは少し間を置いた。
「ですが、副長はほとんど毎晩、あちらで寝泊まりされていますよね」
「仮眠しているだけだ」
「食事もされています」
「……」
「着替えも、あちらに置いてありますよね」
「必要だから置いてあるだけだ」
「ですから、皆が新副長室と呼ぶようになっているんです」
「正式には仮眠室だ」
「それは分かっています」
イリスの口調は淡々としていた。
からかっているわけではない。
むしろ。
レオンが仮眠室で寝泊まりすることが当たり前になっているのを、少し心配しているようだった。
そこで。
五人の中にいたエルト・マーラーが、おそるおそる口を開いた。
「あの、副長閣下」
「何だ」
「では、副長閣下は、ほとんどこちらで寝泊まりされているということでしょうか」
「寝泊まりではない」
レオンはすぐに否定した。
「仮眠だ」
「……では、夜も庁舎内にいらっしゃることが多いのですね」
「ああ」
「仮眠室に?」
「ああ」
エルトは少し驚いたように頷いた。
「承知しました」
「それで」
レオンは話を戻した。
「その仮眠室の前は、一人でいい」
「一名に減らすのですか?」
レックマンが尋ねる。
「ああ。今まで二人立たせていたうち、一人を巡回へ回せ」
「巡回を三名にするのですか?」
「ああ」
「三人で一階を重点的に回らせる」
「一階だけですか?」
「まずは一階だ」
レオンは頷いた。
「外から庁舎に入るなら、基本的には一階を通る」
「そうですね」
「全部の階を薄く回るより、一階に人数を集めた方がいい」
「少なくとも、侵入者がそのまま庁舎の奥まで入ってくるのは防ぎやすくなる」
レックマンは少し考えた。
「確かに、三名で一階を重点的に巡回するのであれば、現在より警戒はかなり厚くできます」
「ああ」
レオンは指を折る。
「仮眠室前に一人」
「巡回に三人」
「残る一人は、これまで通り休憩」
「はい」
「五人しかいないなら、五人なりの使い方をするしかない」
「承知しました」
レックマンは頷いた。
「でしたら、我々は昼間の出入口確認と庁舎内巡回を中心に担当します」
「ああ」
「夜間は近衛中隊が一階を重点的に巡回する」
「当面はそれでいこう」
「承知しました」
そこで。
レックマンは、少し考えるように視線を落とした。
「ただし」
「何だ」
「それですと、夜間の敷地内への侵入までは防げません」
レオンはすぐに頷いた。
「ああ」
「門衛がいない以上、夜間は敷地内へ入ろうと思えば入れてしまいます」
「分かっている」
「よろしいのですか?」
「よくはない」
レオンは即答した。
「だが、今の人数ではどうにもならない」
レックマンは黙って聞いている。
「敷地全体を守ろうとすれば、庁舎の警備まで薄くなる」
「はい」
「だったら、まず庁舎の中へ入れないことを優先する」
「一階の巡回を三名に増やすのは、そのためですか」
「そうだ」
レオンは少し嫌そうな顔をした。
「敷地内に入られるところまでは、今は諦める」
「その代わり、庁舎の中まで好き勝手に入られるのは防ぐ」
「承知しました」
「門衛まで置けるようになるのは、人が増えてからだ」
「そうですね」
「今は全部を守ろうとして、全部が中途半端になる方がまずい」
レックマンはしっかりと頷いた。
「では、昼間は我々が庁舎と出入口を中心に警備し、夜間は近衛中隊が一階を重点的に巡回する形で進めます」
「ああ」
「まずはそれでやってみてくれ」
「承知しました」
レオンはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「無理はしなくていい」
「はい」
「何か問題があれば、すぐ報告してくれ」
「承知しました」
「詰め所は用意してあります」
イリスが横から補足する。
「一階西側の小部屋を、当面の衛兵詰め所として使ってください。机、椅子、記録帳、簡単な仮眠用の長椅子は入れてあります」
「ありがとうございます」
レックマンは丁寧に頭を下げた。
「勤務時間は、午前八時から午後五時までを基本としてください」
「承知しました」
「細かな配置や巡回順路については、あとで私から説明します」
「はい」
「それから、警備中に何か異常があった場合は、第一執務室へ報告してください」
イリスは五人を見渡した。
「実際に警備を始めてから、配置上の不都合や、人数の問題などが出てきた場合も同じです。私にも報告をお願いします」
「承知しました」
レオンも頷いた。
「五人しかいないんだ。無理に全部を守ろうとしなくていい」
「はい」
「やってみて、人数が足りないとか、配置に無理があるとか、何かあればすぐ言ってくれ」
「承知しました」
「できないことを、できると言われる方が困る」
「はい。何かあれば、すぐに報告いたします」
レックマンは改めて頭を下げた。
「では、本日より配置確認に入ります」
「頼む」
五人は再び一礼し、副長室を出ていった。
扉が閉まる。
レオンは椅子に背を預けた。
「これで、多少はましになるだろう」
「そうですね」
イリスは否定しなかった。
「昼間は衛兵隊」
「夜間は近衛中隊の巡回を三名に増員」
「少なくとも、庁舎の中は今までよりましになります」
「ああ」
「ですが」
レオンは嫌な予感がした。
「まだ何かあるのか」
「あります」
イリスは当然のように答えた。
「敷地全体は、ほとんど変わっていません」
「……分かっている」
「昼間も五人では庁舎内だけで手いっぱいになるでしょう」
「分かっている」
「夜間も、一階の警備は厚くなりますが、敷地内への侵入そのものは防げません」
「それも分かっている」
「つまり、まだ穴だらけです」
「分かっていると言っている」
レオンは額を押さえた。
昼も足りない。
夜も足りない。
庁舎の中は多少ましになる。
だが、副長府の敷地そのものは相変わらず広い。
五人増えたくらいで、全部がどうにかなるはずもなかった。
少し間を置いて。
イリスが言う。
「あるいは、親衛隊の方々に一部協力をお願いする方法もあります」
レオンは、今度こそ顔を上げた。
「それは駄目だ」
「なぜですか」
「親衛隊に庁舎警備を任せるなど、危険すぎる」
「全体を任せるとは言っていません。一部協力です」
「それでも駄目だ」
「ですが、あの方々は夜も残っていることが多いですし、庁舎内にも詳しいです」
「詳しいから問題なんだ」
「それに、すでに親衛隊室を使っています」
「それは事情があってだ」
「三部屋ほど貸していますよね」
「……」
「十分、存在は認めていると思いますが」
「認めてはいない」
「部屋は貸しているだけだ」
「それを認めていると言うのでは」
「言わない」
レオンは強く否定した。
強く否定したが、説得力はあまりなかった。
「あいつらに頼むわけにはいかない」
「なぜですか」
「心理的に駄目だ」
「心理的に」
「あいつらは敵だ」
イリスが、少しだけ瞬きをした。
「敵ですか」
「……敵のようなものだ」
「あの方々が守りたいと言っているのは、リリアさんですよね」
レオンは黙った。
イリスは静かに続ける。
「リリアさんは、敵なのですか?」
「……」
「レオン」
「……それは違う」
「では、親衛隊は」
「それとこれとは別だ」
「別でしょうか?」
「別だ」
レオンは言い切った。
だが、自分でも少し苦しい。
リリアは敵ではない。
当然である。
だが、親衛隊は苦手だ。
かなり苦手だ。
ただ、それをどう説明すればいいのか分からなかった。
イリスはそれ以上追及しなかった。
「では、親衛隊の協力は保留にします」
「そうしろ」
「ただし、敷地内警備の問題は残ります」
「分かっている」
「親衛隊協力案も、検討事項には残しておきます」
「残すな」
「残しておきます」
「残すなと言っている」
「検討だけです」
レオンは額を押さえた。
机の上には、副長府庁舎内警備体制やや強化の紙がある。
そこには、ようやくいくつか項目が増えた。
レオンは額を押さえた。
衛兵が五人増えた。
近衛中隊の夜間配置も見直した。
それでも、敷地内の警備までは手が回らない。
そのうえ、イリスは親衛隊まで使おうとしている。
仕事も増やしたくない。
問題も増やしたくない。
だが、敷地内の警備がほとんど手つかずなのも事実だった。
レオンは深く息を吐く。
「……警備体制を戻すだけで、なぜこんなに面倒なんだ」
「一度なくしたものを戻すのは、大変です」
イリスは静かに言った。
レオンは何も言い返せなかった。




