第2章69話 話せる思い出がありません
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・談話室
「それで、殿下から俺たちにお話とは、どうされたんですか?」
クリスが尋ねた。
向かいにはイリスが座っている。
その隣にはシエラ。
イリスから二人へ話があると言われ、談話室へ呼ばれたのだった。
「珍しいですね」
クリスが言う。
「珍しいというより、初めてではありませんか?」
シエラも首を傾げた。
「殿下から、クリスと私だけに相談したいと言われるのは」
「そうですね。この件を話せるのは、お二人くらいしか思いつかなかったんです」
イリスは少し疲れたように答えた。
いつもの落ち着いた様子ではなかった。
少し疲れている、というより。
何かに追い詰められているようにも見えた。
「それで、何のお話でしょうか?」
シエラが尋ねる。
イリスは少し黙った。
そして。
「ヴィクトル伯爵の教育は、いつ頃終わるのですか?」
「…………」
クリスとシエラが揃って黙った。
「突然、どうされたんですか?」
クリスが聞き返す。
「何か問題でも?」
「もう、あまり待っていられないんです」
イリスが言った。
「何がですか?」
「最近、よく聞かれるんです」
「何をでしょうか?」
「ヴィクトル伯爵のことです」
クリスが眉を寄せた。
「誰にです?」
「最初はメリーさんでした」
「メリーさんが?」
「はい」
イリスは小さく息を吐いた。
「ヴィクトル伯爵とは以前から知り合いだったのでしょう、と」
「まあ、殿下は帝都にいらっしゃいましたからね」
「それで、どんな方なのか、昔はどのような方だったのか、何か思い出はないのかと聞かれるようになりました」
「それだけなら、そこまで困るようなことでもない気がしますけど」
「最初は私も、そう思っていました」
「最初は?」
「最近は、メリーさんだけではないんです」
イリスは視線を落とした。
「リリアさんも」
「リリアまで?」
クリスが目を丸くする。
「はい」
「……あいつ、ヴィクトル伯爵のこと覚えていたんですか?」
「いいえ」
イリスは首を横に振った。
「まったく結びついていません」
「やっぱりか」
クリスが呟いた。
「やっぱり、ですか?」
「多分、覚えてないだろうなとは思ってました」
「そうなのですか?」
「ええ」
クリスは苦笑した。
「あの、リリアですから」
「…………」
イリスには、その説明だけでは分からなかった。
「それなのに、最近はヴィクトル伯爵のことを、とても楽しそうに話すんです」
「楽しそうに?」
「はい」
クリスが何とも言えない顔になった。
「何でまた……」
「レオンです」
イリスが即答した。
「レオン?」
「すべての始まりはレオンです」
イリスの声に、少しだけ恨みが混じった。
「以前、ヴィクトル伯爵がまだこちらへ来ていないことに、レオンが気づきました」
「教育中ですからね。式典にも当然いませんでしたし」
シエラが言った。
「はい。それで私に、ヴィクトル伯爵はどうしたのかと尋ねたんです」
「何と答えたんですか?」
「そのまま、現在教育中です、と」
クリスが黙った。
「……まあ、色々と間違ってはいませんね」
「間違ってはいません」
イリスはきっぱりと言った。
「嘘ではありません」
「親衛隊による教育ですけどね」
シエラが淡々と付け加えた。
「それは言えません」
「でしょうね」
「しかも、うっかり正直に到着してすぐ教育に入ったと説明してしまったんです」
「それで?」
「レオンが、かなり感心していました」
「…………」
クリスの口元が少し動いた。
「あいつ、何て?」
「『そんなに仕事熱心な奴なのか』と」
「…………」
クリスは顔を逸らした。
「まだあります」
「まだあるんですか」
「剣の腕はどうなのか、と聞かれました」
「それで?」
「確かです、と答えました」
「まあ、それも本当ですね」
「仕事はできるのか、と聞かれました」
「……それで?」
「できます、と答えました」
「それも嘘ではないですね」
「そうなんです」
イリスは机へ両手を置いた。
「最初は、嘘を言っていなかったんです」
「最初は?」
イリスは小さく頷いた。
「ですが、その結果」
一度、息を整える。
「レオンの中で、ヴィクトル伯爵は、到着したその日から自分で教育を受け始めるほど仕事熱心で、仕事もできて、剣の腕も確かな、非常に優秀な騎士団長候補になってしまいました」
「…………」
「最近では、仕事が好きな人間だと思って、勝手に親近感まで持っています」
「…………」
「仕事の話も剣の話もできて、自分と気が合うだろうと」
「…………」
「最近のレオンは、ヴィクトル伯爵の話になると、本当に楽しそうなんです」
「……そんなにですか?」
「はい」
イリスは頷いた。
「まだ一度も会ったことがないのに、会える日をとても楽しみにしています」
「…………」
今度は。
二人とも、すぐには何も言わなかった。
「何か言ってください」
イリスが言う。
「いや……」
クリスが口を開く。
だが、続かなかった。
シエラも少し視線を逸らしている。
「それだけではありません」
「まだあるんですか?」
「レオンが第一執務室で、その話をするんです」
「ああ……」
クリスが察した。
「それで広まったんですね」
「はい」
「メリーさんだけじゃなく?」
「はい」
イリスは頷いた。
「リリアさんも、フィアナさんも、ココさんも」
「…………」
「マリニーファさんまで、ヴィクトル伯爵に興味を持っています」
「マリまで?」
クリスが目を瞬いた。
「はい」
「何に興味を?」
「仕事です」
「…………」
「ヴィクトル伯爵が非常に仕事熱心な方だと聞いて、副長と仕事の進め方が似ているのではないかと」
「…………」
「一度、仕事について直接お話を伺ってみたいそうです。とても楽しみにしています」
「…………」
また。
クリスとシエラが黙った。
「それからリリアさんも」
「リリアも、ですか」
「はい」
「お兄様があれほど楽しそうに話す方なら、自分も会ってみたいと」
「…………」
「どんな方なのか、とても楽しみにしています」
「…………」
「髪へ勝手に触れた本人ですよね?」
シエラが確認するように尋ねた。
「はい」
「その相手のことを、今は楽しそうに話しているのですか?」
「はい」
シエラは少し考えた。
「それにしても、本当に覚えていないのですね」
「みたいですね」
クリスはそれほど驚かなかった。
「俺は、多分そうだろうと思ってましたけど」
「どうしてです?」
シエラが尋ねる。
「ヴィクトル伯爵にされたことが、それほど印象に残らなかったのでしょうか?」
「それもあるかもしれないけど」
クリスは少し考えた。
「リリアって、昔から切り替えがすごく早いんですよ」
「切り替えが?」
「ええ」
クリスは頷いた。
「嫌なことがあっても、いつまでも引きずらないんです」
「…………」
「悪いことも、結構すぐ忘れます」
「忘れてしまうのですか?」
「何でも忘れるってわけじゃないですよ」
クリスは苦笑する。
「でも、もう終わったこととか、自分にとって大したことじゃない嫌なことなら、いつまでも抱えてないんです」
「なるほど……」
「さっさと切り替えて次に行く」
「…………」
「リリアには特殊な才能がいくつかありますけど……」
クリスは話を続ける。
「ある意味、あれがリリアの最強の才能だと思いますよ」
「最強の才能ですか?」
「ええ」
クリスは少し笑った。
「嫌なことがあっても、必要以上に引きずらない。無理に忘れようとしてるわけでもないんです」
「…………」
「終わったことなら、本当に切り替えて、すぐ忘れる」
「本当に、忘れてしまうのですか?」
「ええ。だから多分、ヴィクトル伯爵のことも、もうほとんど頭に残ってないんでしょうね」
「それで今は、お兄様が楽しそうに話している伯爵としてしか見ていないのですね」
シエラが言った。
「多分」
「…………」
イリスは黙って二人の話を聞いていた。
嫌なことがあっても。
必要以上に引きずらない。
終わったことなら、すぐに切り替えて次へ進む。
「…………」
羨ましい。
イリスは素直にそう思った。
非常に羨ましかった。
自分は今。
ヴィクトル伯爵のことで、毎日のように悩んでいる。
「…………」
私にも、その才能があればよかったのですが。
「殿下?」
「何でもありません」
イリスは小さく首を横に振った。
「それで」
クリスが話を戻す。
「皆さん、ヴィクトル伯爵をどんな人だと思ってるんです?」
「…………」
イリスの表情がさらに沈んだ。
「仕事が好きで、非常に真面目で、能力が高くて、剣も強い方です」
「そこまでは、まだ分かります」
「女性に優しくて」
「…………」
「親切で、誠実で、約束を守り、責任感があって、人望もあって、部下からも慕われている方です」
「…………」
クリスが止まった。
シエラも黙った。
「もう、帝国騎士の鑑のような方になっています」
「…………」
しばらく。
談話室に沈黙が落ちた。
「それ……」
クリスがようやく口を開く。
「誰の話です?」
「ヴィクトル伯爵です」
「別人ですよね?」
「私が知っているヴィクトル伯爵とは、ほとんど別人です」
「ですよね」
「ですが」
イリスは机へ視線を落とした。
「そうなった原因の一部は、私なんです」
「殿下が?」
「はい」
「何を言ったんです?」
「最初は本当のことだけです」
イリスは答えた。
「仕事はできる」
「はい」
「剣の腕も確か」
「はい」
「人付き合いにも熱心だった」
「……まあ、それも嘘じゃないですね」
「嘘ではありません」
イリスは少し強く言った。
「ですが、そこからどんどんおかしくなってしまったんです」
「どういうふうにです?」
「女性にもお優しい方なのですか、と聞かれました」
「…………」
「それで?」
「女性にはよく声をかけていました、と答えました」
「…………」
クリスの口元が動いた。
「それも……嘘じゃないですね」
「嘘ではありません」
「意味は全然違いますけど」
「そうなんです」
イリスの声が重くなる。
「それを、女性に親切で優しい方なのだと受け取られてしまいました」
「…………」
「さらに、騎士としての誇りを大切にする方なのか、嘘をつかず、約束を守る誠実な方なのかと聞かれて」
「…………」
「帝都にも立派な騎士は大勢います、と答えたら」
イリスはさらに声を落とした。
「『では、ヴィクトル伯爵も?』と聞かれてしまって」
「……それで?」
「そうですね、と」
「…………」
「言ってしまいました」
クリスとシエラが、また黙った。
「否定できなかったんです」
イリスは俯く。
「…………」
「その結果、さっきお話ししたような立派なヴィクトル伯爵が出来上がってしまいました」
「…………」
クリスが俯いた。
肩が少し動いた。
「クリスさん」
「すみません」
「まだ何も言っていませんよ」
「いや、その……」
クリスは口元を押さえた。
「レオンが、そのヴィクトル伯爵に会えるのをすごく楽しみにしてて」
「…………」
「マリニーファさんは、仕事の話をするのを楽しみにしてて」
「…………」
「髪を触られたリリア本人まで、その伯爵に会うのを楽しみにしてるって……」
「クリスさん」
「すみません、殿下」
とうとう。
クリスが笑った。
「笑い事ではありません!」
イリスの声が少し大きくなる。
「申し訳ありません」
クリスはすぐに頭を下げた。
だが。
まだ肩が少し震えている。
シエラも口元をわずかに緩めていた。
「シエラさんまで」
「失礼いたしました」
「私は本当に困っているんです」
「はい」
「最近は、ヴィクトル伯爵のことを聞かれるたびに、自己嫌悪するんです」
クリスの笑いが止まった。
「自己嫌悪、ですか?」
「はい」
イリスは俯いた。
「私は嘘をつきたいわけではありません」
「それは分かっています」
「ですが、本当のことは言えない」
「…………」
「だから、嘘ではない言葉を選んで答えるんです」
「はい」
「でも、その言葉が違う意味で受け取られて、そのたびにヴィクトル伯爵がもっと立派な方になっていく」
「…………」
「そして私は、それを否定できない」
イリスは小さく息を吐いた。
「昔はどんな方だったのか。どんな思い出があるのか。女性にも昔から親切だったのか。部下にも慕われていたのか。約束は必ず守る方だったのか」
「…………」
「最近よく、そんなことを聞かれるんです」
イリスは額へ手を当てた。
「そのたびに何を答えればいいのか分からなくなって、また曖昧に答えてしまう」
「…………」
「あとになって、また嘘をついたような気持ちになる」
イリスの声が沈んだ。
「毎日、自己嫌悪しています」
「…………」
「私は一体、何をしているのでしょうか」
クリスもシエラも、今度は笑わなかった。
「というか、殿下」
少しして。
クリスが尋ねる。
「昔のヴィクトル伯爵について、普通に話せる話ってあるんですか?」
「ありません」
即答だった。
「一つも?」
「ほとんどありません」
「まあ……そうでしょうね」
クリスもヴィクトルを思い浮かべた。
「伯爵だってことを結構鼻にかけますし」
「はい」
「剣の腕にも自信がありますし」
「それも、かなり」
「女関係も派手ですしね」
「それをメリーさんやリリアさんに話せると思いますか?」
「無理ですね」
「でしょう?」
イリスが身を乗り出した。
「ですが、適当な良い思い出を作って聞かせるわけにもいかないんです」
「それはそうですね」
「これ以上、嘘を重ねたくありません」
イリスは額へ手を当てた。
「もう、心が疲れました」
「お気持ちは分かります」
シエラが静かに言った。
「クリスも、私にはよく嘘をつきますから」
「何の話だ」
「夫婦ではない、とか」
「夫婦じゃないだろ」
「私のことを、それほど気にかけていない、とか」
「それも本当だ」
「嘘ですね」
「本当だ」
「嘘です」
「殿下の相談中に、その話を始めるな」
「クリスが嘘をつく苦しさについて――」
「俺は苦しんでない」
「お二人とも」
イリスが低い声で言った。
二人が止まった。
「今は、私の話をしてください」
「申し訳ありません、殿下」
「失礼いたしました」
二人とも素直に頭を下げた。
「というか、殿下」
クリスが改めてイリスを見る。
「何ですか?」
「本当のことは、話してないんですか?」
「言えると思いますか?」
イリスは即座に返した。
「…………」
「ヴィクトル伯爵が到着したその日にリリアさんへ無礼を働いて、親衛隊に連れていかれたなどと」
「まあ……」
クリスは少し考えた。
「言いづらいですね」
「言いづらいどころではありません」
「それに」
クリスの表情が少し真面目になる。
「本当のことを話すなら、ヴィクトル伯爵がリリアに何をしたのかまで、レオンに説明しないといけないですよね?」
「……そうなります」
「それは、やめた方がいいですね」
今度はクリスが即答した。
「やはり、そう思いますか?」
「思いますよ」
クリスは腕を組む。
「あいつ、多分激怒します」
「…………」
「リリアの髪を勝手に取って、匂いまで嗅いだ。それも自分のものにしようとしてた、なんて知ったら、絶対に黙ってないでしょう」
「私も、今は話さない方がよいと思います」
シエラも頷いた。
「副長はリリアさんのことを大切にしていますから」
「それもありますけど」
クリスが続ける。
「今、あいつ本当に楽しみにしてるんですよね?」
「はい……」
「ヴィクトル伯爵に会うのを」
「はい」
「皇太子殿下が自分を気遣って、優秀な奴を送ってくれたと思ってる」
「そうです」
「総長が三人の中で一番いい奴を自分に回してくれたとも思ってる」
「……はい」
「だったら、なおさら今は言わなくていいんじゃないですか?」
クリスが言った。
「レオンがああやって素直に喜ぶことなんて、そんなにないでしょう」
「そうですね」
シエラも同意した。
「私も、そのままにしておいた方がよいと思います」
イリスは少しだけ迷った。
「ですが、いずれは分かることです」
「その時はその時ですよ」
「軽いですね」
「今言っても、いいことないでしょう」
クリスは少し考え。
「むしろ、悪化するかもしれません」
「悪化?」
「ヴィクトル伯爵の教育です」
イリスの顔が止まった。
「今でも、いつ終わるか分からないんですよね?」
「はい」
「そこにレオンまで怒ったらどうなると思います?」
「…………」
「親衛隊に『副長閣下もお怒りです』なんて伝わったら」
クリスは少し間を置いた。
「教育期間、さらに延びるんじゃないですか?」
「…………」
「殿下は困るんじゃないですか?」
「非常に困ります」
「だったら、本当のことは今は言わない方がいいですよ」
「同意します」
シエラも淡々と答えた。
「ヴィクトル伯爵本人については、自業自得です」
「そこは相変わらず容赦ないな」
「リリアさんへ無礼を働いた結果ですので」
「まあ、それはそうだけど」
イリスは小さく息を吐いた。
「では、本当のことは言えない」
「はい」
「ですが、これ以上嘘をつくのも嫌なんです」
「それも分かります」
「では、どうすればいいのでしょうか」
「…………」
今度はクリスが黙った。
シエラもすぐには答えなかった。
「ヴィクトル伯爵の教育を早く終わらせることはできないのですか?」
イリスが尋ねる。
「いつ終わるかは、俺にも分かりません」
「エゼルさんたちへ聞くことは?」
「できなくはないでしょうけど……」
クリスは少し嫌そうな顔をした。
「できれば、あまり聞きに行きたくないですね」
「なぜですか?」
「今どんな教育をしてるのか、俺も知りたくないので」
「…………」
「下手に聞いたら、説明されそうじゃないですか」
「確かに」
シエラが頷いた。
「では、リリアさんから何とかしてもらうことは?」
イリスが尋ねる。
「無理でしょう」
クリスは即答した。
「どうしてです?」
「さっきの話ですよ」
「…………」
「リリアは、ヴィクトル伯爵が誰なのか分かってないんでしょう?」
「はい」
「髪を触ってきた男の名前も知らない」
「はい」
「そもそも伯爵だったことも知らない」
「おそらく」
「じゃあ無理ですよ」
クリスは腕を組む。
「リリアに『ヴィクトル伯爵を何とかしてくれ』って言っても、『どなたですか?』で終わります」
「顔を見れば、思い出すのではないでしょうか」
シエラが言った。
「どうでしょうね」
クリスは首を傾げる。
「リリアですからね」
「…………」
「さっき言ったでしょう。嫌なことは引きずらないんですよ」
「本当に羨ましいですね」
イリスが思わず呟いた。
「え?」
「…………」
クリスとシエラがイリスを見る。
「何でもありません」
イリスは少しだけ視線を逸らした。
「では……」
恐る恐る尋ねる。
「私は、これからもずっと、このままなのでしょうか」
「教育が終わるまでは、たぶん」
「…………」
「申し訳ありません、殿下」
クリスが少し気の毒そうな顔をした。
「俺にも、どうにもできません」
「…………」
三人とも黙った。
クリスが考える。
シエラも考える。
イリスも考える。
だが。
結局、その場ではよい方法は思いつかなかった。
「……分かりました」
しばらくして、イリスが小さく息を吐いた。
「今日は、もう戻ります」
「力になれず、申し訳ありません」
「いえ」
イリスは立ち上がった。
ヴィクトル・アルノルト伯爵。
少し前までは。
今回の騒動を起こした彼を、少しだけ恨んでいた。
だが。
今はもう、少しではなかった。
レオンは会える日を楽しみにしている。
メリーは昔話を聞きたがる。
マリニーファは仕事の話をするのを楽しみにしている。
リリアも。
フィアナも。
ココも。
皆が、立派なヴィクトル伯爵に会える日を楽しみにしている。
「…………」
そんな人ではありません。
そう言えれば。
どれだけ楽だっただろう。
だが。
そう言えば、本当のヴィクトルが今どこで何をしているのかという話になる。
リリアへ何をしたのかも。
すべて説明しなければならない。
言えない。
だから。
ヴィクトル伯爵について聞かれるたびに。
本当のことは言えず。
嘘ではない言葉を選び。
あとになって自己嫌悪する。
毎日。
その繰り返しだった。
「…………」
嫌なことを引きずらない。
終わったことなら、すぐに切り替える。
先ほどクリスが言っていた。
リリアの最強の才能。
「…………」
本当に。
羨ましい。
イリスは静かに目を閉じた。
ヴィクトル・アルノルト伯爵。
あなたが余計なことをしなければ。
私は、こんなことで毎日悩む必要などなかったのです。
少し前までは、少しだけ恨んでいた。
今は。
かなり恨んでいた。




