第2章68話 伯爵は立派な方なんですね
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
数日後。
イリスは第一執務室で、いつものように書類を確認していた。
レオンは別件で席を外している。
室内には、何人かの書記官が残っていた。
「お姉様」
声をかけられ、イリスの手が止まった。
メリーが、一枚の書類を持ったまま近づいてくる。
だが。
すぐには続きを言わなかった。
「どうしました?」
「その……」
メリーは少しだけ言いづらそうに視線を落とした。
「仕事のことですか?」
「直接というわけではないのですが……」
イリスは少しだけ眉を寄せた。
「何でしょうか?」
「ヴィクトル伯爵のことです」
「…………」
やはり。
「一昨日、昔からのお知り合いだとおっしゃっていましたよね?」
「はい」
「どのような方なのですか?」
イリスは手元の書類へ視線を落とした。
「仕事については、真面目な方です」
「それは聞きました」
「…………」
「もう少し昔のお話を聞いてみたいです」
「昔の話、ですか」
「はい」
イリスは少し眉を寄せた。
「どうして、そこまでヴィクトル伯爵のことを知りたいのですか?」
「お兄様が興味を持っている方というのもありますが、新しい騎士団長候補向けの育成課程がありますよね」
「はい」
「あれは、私が中心になって調整することになりますので」
「…………」
イリスはメリーを見る。
「ですから、ヴィクトル伯爵がどういう方なのか、できるだけ早いうちに知っておきたいんです」
「性格までですか?」
「はい」
メリーは手にしている書類へ視線を落とした。
「得意なことや苦手なこと。どのような考え方をする方なのか。どういう教え方が合うのか」
「…………」
「育成内容を考えるなら、その方自身を知らないままでは難しいと思います」
「……それは、そうですね」
「お姉様は昔からヴィクトル伯爵をご存じなのでしょう?」
「はい」
「でしたら、今のうちに少し教えていただけると助かります」
「…………」
イリスは黙った。
できれば。
ヴィクトル・アルノルト伯爵の昔話など、あまりしたくなかった。
話せることがない。
正確には。
メリーへ話せるようなことが、ほとんどない。
だが。
育成課程をメリーが中心となって調整するのであれば、対象となるヴィクトルがどのような人間なのかを知っておきたいというのは当然だった。
仕事として必要だと言われれば、話さないわけにもいかない。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「ただ、何から話せばいいのか……」
「例えば」
メリーが続ける。
「昔から剣の稽古にも熱心だったのですか?」
「……そうですね」
そこは本当だった。
「かなり熱心でした」
もっとも。
純粋に剣の道を極めたいという理由だけではなかった。
ヴィクトルは昔から、自分の思うように振る舞うところがあった。
そして、それを押し通すためには、ある程度の力が必要だということもよく分かっていた。
だからこそ、剣の腕を磨くことには熱心だったのだろう。
「やっぱり」
メリーの表情が少し明るくなる。
「お兄様がおっしゃっていた通り、真面目な方なのですね」
「…………」
そういう意味ではない。
だが、訂正するには余計な説明が必要になる。
「そうですね」
イリスは結局、それだけ答えた。
「他には?」
「他、ですか?」
「はい」
「…………」
その時だった。
「何のお話ですか?」
柔らかな声が聞こえた。
イリスが顔を向ける。
そこに立っていたのは、リリアだった。
少しブラウンの混じった長い金髪が、歩みを止めるのに合わせて背中で小さく揺れる。
白い肌に浮かぶのは、いつもの穏やかな微笑み。
髪には青いリボンが結ばれていた。
その隣にはフィアナとココもいる。
「ヴィクトル伯爵のお話です」
「育成課程のことで、ヴィクトル伯爵がどんな方なのか、お姉様に聞いていたんです」
メリーが答える。
リリアの表情が明るくなった。
「この前お話ししていた、帝都から来られた騎士団長候補の方ですね」
「はい」
リリアは少しだけイリスへ近づく。
「イリス様」
「はい」
「私も聞いては駄目ですか?」
「リリアさんもですか?」
「はい」
リリアは素直に頷いた。
「お兄様が、一度もお会いしたことがない方なのに、ヴィクトル伯爵のお話をとても楽しそうにされるんです」
「…………」
「到着したその日から教育に入るくらい仕事熱心で、剣もお強くて、きっと自分と気が合うだろうって」
リリアは少し微笑んだ。
「まるで昔からの親しいご友人のお話をされているみたいで」
「…………」
「お兄様の嬉しそうな姿を見るのが珍しいので、どんな方なのか、とても興味があるのです」
「そうですね……」
確かに、レオンのあれほど嬉しそうな姿は、イリスでさえあまり見かけたことがない。
しかし。
それはすべて、誤解と勘違いだった。
ただ、それは言えない。
言ってしまえば、その理由まで説明しなければならなくなる。
「だから、どんな方なのか私も気になってしまって」
リリアが少し首を傾げた。
「駄目でしょうか?」
「……いえ。構いません」
「ありがとうございます」
リリアが嬉しそうに微笑んだ。
「リリアさんが聞くなら、私も聞いてみたいです」
フィアナが続く。
「私もです」
ココも頷いた。
「リリアさんが気になっている方なら、少し興味があります」
「二人まで……」
気づけば。
メリー。
リリア。
フィアナ。
ココ。
四人に囲まれていた。
イリスは静かに息を吐いた。
「それで」
メリーが続きを促す。
「ヴィクトル伯爵は、昔から剣の稽古に熱心だったのですよね?」
「はい」
「仕事も真面目で」
「はい」
「ほかには?」
「…………」
イリスは記憶を探った。
昔から仕事そのものを放り出す人間ではなかった。
任されたことは、それなりにこなしていた。
剣にも熱心だった。
そこまではいい。
問題は、それ以外だった。
特に女性関係については、非常に熱心だった。
こちらは到底話せない。
「……人付き合いにも、熱心な方でした」
イリスは慎重に答えた。
嘘ではない。
「人付き合いですか?」
リリアが尋ねる。
「はい」
「いろいろな方と交流されていたのですね」
「……そうですね」
非常に幅広く。
特に女性と。
そんな言葉は飲み込んだ。
「社交的な方なのですね」
メリーが言う。
「…………」
イリスは一瞬迷った。
「はい」
また一つ。
ヴィクトル伯爵に、良い印象が加わった。
「なるほど」
メリーが納得したように頷きながら、メモを取り続けている。
「仕事にも熱心で、剣も強くて、社交的」
「…………」
「かなり優秀な方なのですね」
「…………そうですね」
イリスは小さく答えた。
その時。
「何のお話をされているのですか?」
少し離れたところから声がした。
書類を抱えたマリニーファが、こちらへ近づいてくる。
「ヴィクトル伯爵のお話です」
リリアが答えた。
「帝都から来た騎士団長候補の方」
「ああ、副長がお話しされていた方ね」
「そう。到着したその日から教育に入った、とても仕事熱心な方なんですって」
マリニーファが頷いた。
「仕事に熱心な方だというお話は、私も聞いています」
「マリさんも知ってたんですね?」
「ええ。副長がかなり評価されている方でしょう?」
「はい、そうです」
マリニーファの表情に、はっきりと興味が浮かんだ。
そして、イリスへ向き直る。
「私も、もう少し詳しくお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「マリニーファさんもですか?」
「はい」
「以前から、とても仕事熱心な方だとは聞いていましたので」
マリニーファは真面目な顔で答えた。
「どのような働き方をなさる方なのか、もう少し詳しく知りたいと思っていました」
「…………」
「仕事をきちんとなさる方のお話にはとても興味があります」
「マリさんらしいですね」
リリアが楽しそうに笑う。
「そう?」
「はい」
マリニーファも少し笑った。
だが、イリスへ顔を戻すと、再びきちんとした口調になる。
「副長のように、ご自分から仕事を見つけて進められる方ですか?」
「…………」
イリスは非常に困った。
レオンとヴィクトルを同列にしてよいのだろうか。
よいわけがない。
「任された仕事については、きちんとこなす方です」
「そうなのですか」
マリニーファの表情が明るくなる。
「それなら、真面目な方なのですね」
「…………」
また評価が上がった。
何もしていないヴィクトル伯爵の評価だけが、目の前で上がっていく。
「イリス様」
今度はリリアだった。
「何でしょうか?」
「やはり、帝都の騎士の方々も、こちらの騎士と同じような方なのですか?」
「同じような、とは?」
「その……」
リリアは少し考えた。
「騎士としての誇りを大切にして」
「はい」
「女性にも優しくて」
「…………」
「嘘をつかず、約束を守って、誠実で」
「…………」
「そういう立派な方が多いのでしょうか?」
イリスは答えなかった。
「イリス様?」
リリアが不思議そうに首を傾げる。
長い金髪と一緒に、青いリボンがわずかに傾いた。
帝都にも立派な騎士は大勢いる。
もちろん、それは本当だ。
だが。
今話しているのはヴィクトル・アルノルト伯爵である。
「……帝都にも、立派な騎士は大勢います」
「やっぱりそうなんですね」
リリアが嬉しそうに笑う。
「では、やはりヴィクトル伯爵も?」
「…………」
逃げ道が塞がれた。
「そう……ですね」
言ってしまった。
「やっぱり」
リリアの笑顔がさらに明るくなる。
「お兄様と気が合うというのも分かる気がします」
「…………」
違う。
全然違う。
だが、言えない。
イリスは嬉しそうなリリアを見る。
そして、心の中で思った。
リリアさん。
本当に何も覚えていないんですか?
騎士団領へ到着したその日。
あなたの髪へ勝手に触れた男性ですよ。
名前を聞いていなかったとはいえ、本当にまったく結びついていないらしい。
リリアは今も、まだ見ぬ立派な騎士団長候補の話を聞くような顔をしていた。
「そんなに女性にもお優しくて、親切な方なのですか?」
メリーが尋ねる。
「…………」
そこだけは聞かないでほしかった。
ヴィクトルは女性に対して積極的だった。
非常に。
必要以上に。
「……女性には、よく声をかける方でした」
イリスは言葉を選んだ。
「やっぱり親切で、お優しいんですね」
リリアが言う。
「…………」
違う。
「困っている方を放っておけない方だったのでしょうか」
フィアナまで聞いてくる。
「……そういうことも、あったと思います」
あったかもしれない。
少なくとも、絶対になかったとは言い切れない。
「素敵ですね」
フィアナが感心したように言った。
「仕事熱心で、剣も強くて、社交的で、女性にも優しい」
ココが順番に数える。
「かなり立派な方ですね」
「…………」
「副長が気に入るのも分かります」
マリニーファも頷いた。
イリスは、目の前にいる全員を順番に見た。
仕事熱心。
剣も強い。
社交的。
女性にも優しい。
「…………」
あなたたちは、一体ヴィクトル伯爵をどんな人だと思っているんですか?
もちろん、口には出せなかった。
そう思わせた原因の一部は、自分にある。
イリスは、それ以上何も言わないことにした。
もう十分だった。
これ以上、自分からヴィクトルについて何かを付け足すつもりはない。
ところが。
「仕事にも真面目で、剣にもお強いのでしょう?」
リリアが言った。
「それなら、責任感も強そうですね」
メリーが頷く。
「騎士団長候補なんですものね」
「部下の方からも頼られていそうです」
フィアナが続けた。
「社交的なら、人望もありそうですね」
ココも言う。
「女性にもお優しいなら、気配りもできる方なのかもしれません」
「…………」
イリスは黙っていた。
もう。
自分は何も言っていない。
それなのに。
ヴィクトル伯爵が、彼女たちが話すたびに立派になっていく。
「お兄様が気に入られるのも分かる気がします」
リリアが嬉しそうに微笑む。
「お仕事の進め方も似ていたりするのでしょうか」
マリニーファが少し興味深そうに言った。
「それなら、私も一度お仕事についてお話を伺ってみたいです」
「マリさんは、やっぱりそこなんですね」
リリアが笑う。
「大事なことじゃない」
「それはそうですけど」
「私もお会いしてみたいです」
フィアナが言った。
「どんな方なのか楽しみですね」
ココも頷く。
「育成課程を考える上でも、安心できそうな方です」
メリーまで満足そうだった。
「…………」
イリスは近くで、その会話だけを聞いていた。
「帝都でも、きっと有名な方だったのでしょうね」
「部下の方からも慕われていそうです」
「お兄様とは、どんなお話をされるのでしょう」
「きっと、お仕事や剣のお話じゃないですか?」
「…………」
話はどんどん膨らんでいく。
誰も。
ヴィクトル伯爵に一度も会ったことがない。
それなのに。
責任感があって。
人望があって。
部下からも慕われている。
そんな話まで、いつの間にか増えていた。
イリスは、あれから何一つ言っていない。
ただ。
イリス以外の五人だけで、話が盛り上がっていた。
「…………」
いつの間に、そんな人になったんですか。
心の中でそう思った。
自分が知っているヴィクトル・アルノルト伯爵と。
目の前の皆が思い描いているヴィクトル伯爵。
もう、ほとんど別人だった。
「ヴィクトル伯爵にお会いするのが楽しみです」
リリアが言った。
「私もです」
フィアナが頷く。
「私も」
ココも続いた。
「私も、一度お仕事についてお話を伺ってみたいです」
マリニーファも言う。
「私も、実際にお話ししてから育成内容を調整したいと思います」
メリーまで頷いた。
「…………」
イリスだけが何も言えなかった。
やがて。
皆がそれぞれの仕事へ戻っていった。
第一執務室が、ようやく静かになる。
「…………」
イリスは一人、机へ視線を落とした。
仕事熱心。
剣が強い。
社交的。
女性に優しい。
そして、いつの間にか。
責任感もあって、人望もあって、部下からも慕われる立派な騎士になっていた。
「…………」
途中から。
自分はほとんど何も言っていない。
それなのに。
ずいぶん立派な人物になっていた。
しかも。
「また今度、帝都でのお話も聞かせてくださいね」
帰り際。
メリーからそう言われてしまった。
リリアたちも、また聞きたそうにしていた。
「……無理です」
イリスは小さく呟いた。
今日だけでも十分だった。
このまま一人で抱えるのは、もう無理だった。
事情を知っていて。
親衛隊とも話ができて。
ヴィクトル伯爵がどうなっているのかも知っている人物。
「…………」
イリスの頭に、二人の顔が浮かんだ。
明日にでも。
二人に相談してみよう。
イリスは静かに息を吐いた。
これ以上。
ヴィクトル・アルノルト伯爵が、皆の想像の中だけで立派になっていくのを、一人で見ているのはもう限界だった。




