第2章66話 受け入れ教育は始まっています
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総庁――
■総庁・総長執務室
クリス、エリシア、シエラの三人は、解放された護衛二人を伴って総長執務室へ戻った。
扉を開けた途端、室内に残っていたセドリックとフェリクスが立ち上がる。
「ヴィクトル伯爵は?」
セドリックが護衛二人へ尋ねた。
「無事なのか?」
フェリクスも続く。
護衛二人は、すぐには答えなかった。
互いの顔を見る。
それから、一人が重い口を開いた。
「命は、あると思います」
「思います?」
「我々が最後に見た時には、下着一枚にされていました」
室内が静かになった。
「それから、両手を縛られ、天井から吊るされておりました」
「吊るされていた?」
フェリクスの顔が引きつる。
「逆さに、ですか?」
「その時は、まだ普通の向きでした」
「その時は?」
「その後については分かりません」
もう一人の護衛が答えた。
「我々は別の部屋へ連れていかれましたので」
「伯爵の声は聞こえなかったのか?」
セドリックが尋ねる。
「叫び声は、何度も聞こえました」
「何をされていた?」
「分かりません」
護衛は力なく首を振った。
「親衛隊の者たちは、教育だと言っていました」
「教育……」
「我々が直接見た、ヴィクトル伯爵の最後の姿は、縛られて吊るされているところです」
「それから先は、声しか聞いておりません」
セドリックとフェリクスは黙った。
クリスが二人の横を通り、グラナートの前へ進む。
「一応、戻りました」
「ああ」
グラナートは、クリスたち三人と護衛二人を順番に見る。
「まず、護衛二名を連れ戻してくれたことには感謝する」
「ありがとうございます」
「エリシアも、よく戻った」
「総長府からの依頼でしたので」
エリシアは公的な態度を崩さず、静かに頭を下げた。
グラナートはシエラへも目を向ける。
「シエラも助かった」
「報酬については、忘れないようお願いいたします」
「分かっている」
「記録しました」
「記録しなくてよい」
セドリックとフェリクスも、クリスたちの前へ出た。
「我々からも礼を申し上げます」
セドリックが深く頭を下げる。
「護衛二名を助けていただき、ありがとうございました」
「ありがとうございます」
フェリクスも続いた。
「最初から、そうやって礼を言えばよかったんだ」
クリスが答える。
グラナートは机の上で手を組んだ。
「それで、ヴィクトル伯爵はどうなった」
「命は取られません」
クリスが答えた。
「リリアが乱暴なことをするなと言っていたので、親衛隊も命までは取らないそうです」
「それは確実なのか?」
「親衛隊長のエゼルが保証しました」
「伯爵の居場所も確認できたのだな?」
「ああ。親衛隊本室にいます」
「では、なぜ連れて戻らなかった」
「返さないと言われたからです」
グラナートの眉が寄る。
「交渉はしたのか?」
「しました」
「結果は?」
「死刑になっていました」
室内が再び静かになった。
「死刑?」
フェリクスが聞き返す。
「親衛隊内の裁判で、死刑に決まったそうだ」
「では、命は取られないという話は?」
「判決は死刑だが、リリアが乱暴なことをするなと言ったから、執行はしないらしい」
「意味が分かりません」
「俺も分からん」
クリスは即座に答えた。
「ただ、死刑の代わりに強制的な教育をするそうだ」
「教育とは、先ほど護衛が言っていたものですか」
セドリックが尋ねる。
「多分な」
「具体的には、何を?」
「知らん」
「確認しなかったのですか?」
「聞いても教えないだろ」
「叫び声は聞こえました」
護衛の一人が、小さく付け加えた。
「別に知りたくもないしな」
クリスが肩をすくめる。
「男の叫び声なんかに興味もない」
その瞬間。
エリシアとシエラ、それにイリスの視線が一斉にクリスへ向いた。
「……な、何だよ」
誰も答えなかった。
ただ、三人とも少し冷たい目をしていた。
「いや、へ、変な意味じゃないからな」
クリスは慌てて付け加えた。
「別に女の叫び声なら興味があるって意味でもないぞ」
視線が、さらに冷たくなった。
「もう何も言わない方がいいな……」
クリスはそう判断して、グラナートを見る。
「とにかく、居場所は確認した。命の保証も取った。護衛二人も連れ戻した」
「ああ」
「言われたことは、最低限できたと思うんですけど」
「問題の伯爵本人が戻っていない」
「赤点ではないですよね?」
「何の話だ」
「救出の結果です」
クリスは真顔だった。
「伯爵本人は無理だったが、護衛二人は助けた。居場所も生存も確認した。合格点とは言わなくても、赤点ではないだろ」
グラナートは黙った。
マクニッサが、いつもの平坦な声で答える。
「最低限の成果は得られています」
「だろ?じゃあ、報酬を」
「ですが、依頼そのものは達成されていません」
「余計なことを足すな」
「事実です」
グラナートは短く息を吐いた。
「最低限の役割は果たした。それは認める」
「なら、休暇の話も」
「覚えている」
「ありがとうございます」
シエラがすぐに頭を下げた。
「お前は本当にそこだけ早いな」
「重要です」
グラナートは、もう一度ヴィクトルの護衛を見る。
「親衛隊は、どの程度で伯爵を返すと言っていた?」
「期間は決めていないらしいです」
クリスが答えた。
「本人が自分の罪を理解し、教育が終わったと判断するまでだと」
「お前は、どの程度かかると思う?」
「一か月くらいじゃないですか?」
「一か月か」
「ただ、一か月では足りない可能性があると言われました」
グラナートが止まる。
「では、どの程度だ」
クリスはシエラを見る。
「お前は、どう思う?」
「三か月ほどは想定した方がよいと思います」
シエラが淡々と答えた。
「三か月?」
グラナートとマクニッサが同時に顔を上げた。
「はい」
「なぜ、そんなにかかる」
「ヴィクトル伯爵は、帝都では同じような行為を繰り返しても、これまで大きな問題にはならなかったのでしょう?」
「そう聞いています」
イリスが答える。
「長年正しいと思っていた行動を変えさせるのであれば、短期間では難しいと思います」
「だから三か月か」
「親衛隊が、どの程度の教育計画を作っているかにもよります」
「教育計画まで作るのか?」
「作っている可能性は高いです」
「そこまで熱心でなくてもよいのだが」
グラナートが額へ手を当てる。
「三か月も伯爵を預けておけるわけがない」
「俺たちに言われても困ります」
クリスは肩をすくめた。
「なんとかならないのか?」
「なりません」
「即答するな」
「親衛隊長本人が返さないと言っています」
「リリアに頼めば」
「リリアは、すでに乱暴なことをしないよう頼んでいます」
「それ以上は難しいか」
「本人は、伯爵がここまでのことになっているとは知らないでしょう」
エリシアが答えた。
「ですが、知らせたとしても、親衛隊がすぐに解放するとは限りません」
「姫様へ二度と無礼を働かないよう、教育する必要があると考えていますので」
「死にはしません」
シエラが付け加える。
「それで安心できる状況か?」
「少なくとも、死亡する心配はありません」
「それ以外が心配なのだ」
セドリックとフェリクスは、顔を見合わせていた。
「教育が終わるまで、ヴィクトル伯爵は拘束されたままなのですか?」
フェリクスが尋ねる。
「多分な」
クリスが二人を見る。
「お前たちも、ここで同じようなことをするなよ」
「我々は、ヴィクトル伯爵と同じことをするつもりはありません」
セドリックが震えながら答える。
「今はそう言ってても、帝都で通じたやり方をそのまま持ち込むと、すぐ同じことになるぞ」
クリスは二人へ念を押した。
「特にリリアには、絶対に変なことをするな」
「副長閣下の妹君ですね」
「ああ」
「髪へ触れるようなことはしません」
「それだけじゃない」
クリスは少し声を落とした。
「副長府の中には、リリアを呼び捨てにしただけで動くような連中もいる」
「名前を呼んだだけで?」
フェリクスが目を見開く。
「本人が許してる相手なら問題ない。だが、お前たちは違う」
「では、どのようにお呼びすれば?」
「普通にリリアさんと呼べ」
「それだけでよいのですか?」
「敬意を持って接しろ。軽口も叩くな。肩にも触るな。余計なことを言うな」
「かなり厳しいですね」
「捕まりたくなければ守れ」
グラナートがエリシアを見る。
「本当に、そこまでなのか?」
「本当です」
エリシアは迷わず答えた。
「リリアさんが認めている方や、本人が親しくしている方であれば問題ありません」
「ですが、それ以外の方が軽々しく触れたり、失礼な言葉を向けたりすれば、親衛隊がどう動くか分かりません」
「呼び捨てだけでもか」
「気にする者はいます」
「面倒な集まりだな」
「ですから、『大変な人に手を出した』と言ったのです」
イリスが口を挟んだ。
「でもそのおかげで、副長府内ではリリアさんだけでなく、リリアさんと親しい方へ軽々しい態度を取る者もほとんどいません」
「規律が整っていると言えば、整っているのか」
「もともと総騎士団副長の妹でもありますので、普通は失礼な態度を取る方はいません」
エリシアは少し間を置いた。
「普通でない方が現れた時に、親衛隊が動きます」
全員の視線が、ヴィクトルの護衛二人へ向く。
二人は静かに目を伏せた。
「しかし、困ったな」
グラナートが呟く。
「三名の正式な受け入れ式典を行う予定だった」
「ヴィクトル伯爵がいなければ、三名揃っての式典はできません」
マクニッサが答える。
「三か月も待つわけにはいかん」
「そうですね」
「イリス殿下」
グラナートが顔を向ける。
「何か方法はないか?」
イリスは少し考えた。
机の上に置かれている三名の資料を見る。
ヴィクトル・アルノルト伯爵。
セドリック・ローゼンフェルト。
フェリクス・ハーゲン。
「一つ、方法があります」
「何だ?」
「ヴィクトル伯爵は、すでに副長府で受け入れたことにしてはいかがでしょうか」
グラナートが眉を寄せる。
「どういうことだ?」
「実際、ヴィクトル伯爵は副長府内にいます」
「親衛隊に拘束されているだけだ」
「ですが、騎士団長候補としての教育は、すでに始まっています」
室内が静かになった。
「それを教育と呼ぶのか?」
「親衛隊は、そう呼んでいます」
「正式な課程ではないぞ」
「人間的な問題を矯正するための、受け入れ教育です」
イリスは真顔だった。
「皇太子殿下からの書状には、騎士団領の新体制を学ばせ、騎士団長に必要なものを身につけさせたいとありました」
「そうだな」
「騎士団領で、帝国伯爵という身分だけでは人が動かないことは、すでに学んでいます」
「到着したその日のうちにな」
「女性へ無礼を働けば、相応の結果を招くことも学んでいます」
「かなり強制的にだが」
「教育そのものは始まっています」
グラナートはしばらく黙った。
「では、ヴィクトル伯爵は副長府で受け入れ済み」
「はい」
「現在は受け入れ教育中」
「はい」
「残る二名だけを式典へ参加させる」
「それで問題ないと思います」
マクニッサも少し考え、静かに頷いた。
「帝都への報告上も、三名とも受け入れたことに変わりはありません」
「ヴィクトル伯爵が式典に出られない理由は?」
「すでに教育を始めているためとすればよいかと」
「嘘ではないな」
「はい」
「かなり言い方を整えてはいるが」
「必要な処理です」
グラナートは深く息を吐いた。
「それしかないか」
「それしかないと思います」
イリスは、セドリックとフェリクスへ視線を向けた。
「お二人は、別の受け入れ先へ移る形でもよろしいですか?」
「異論はありません」
セドリックが速答する。
「三名を同じ場所へ置く必要はないと、私も考えています」
「私は……」
フェリクスは少し迷った。
それから、親衛隊から解放された護衛二人を見る。
「やはり、別の場所でお願いします」
返答はこちらも早かった。
イリスが二人を見る。
「ヴィクトル伯爵は、数か月ほど副長府から出られない可能性があります」
「理解しています」
「それでもよいのですか?」
「はい」
二人の返事に迷いはなかった。
「本当に分かっているのですか?」
イリスが念を押す。
「分かっています」
セドリックは落ち着いて答えた。
「現状で、ヴィクトル伯爵と同じ受け入れ先を希望することは合理的ではありません」
「そうですか」
イリスは少しだけ目を細めた。
「それから、セドリック」
「何でしょうか、殿下」
「あなたが以前、私の婚約者候補だったことは、この騎士団領では口にしないでください」
「なぜですか?」
「余計な誤解を招きます」
「誰に?」
「多くの方にです」
セドリックは少し考えた。
「分かりました」
「素直ですね」
「こちらでは、それを口にすることは、あまり合理的ではなさそうですので」
「その判断で構いません」
イリスは続けた。
「それから、ヴィクトル伯爵が親衛隊で受けている教育の詳細について、あなた方から帝都へ余計な報告はしないでください」
セドリックとフェリクスが一瞬、顔を見合わせた。
「承知しました」
「承知しました」
二人の声が重なった。
「帝都への正式な報告はこちらで行います」
「分かりました」
セドリックが答える。
フェリクスもすぐに頷いた。
グラナートが小さく息を吐く。
「殿下には感謝する。そこまで気を回してもらって」
「正式な報告を総庁から出せば、それで十分でしょう」
「そうしてもらえると助かる」
グラナートは、机上の書類を引き寄せた。
「では、そう処理する」
「ヴィクトル・アルノルト伯爵は、副長府で受け入れ教育中」
「セドリック・ローゼンフェルトとフェリクス・ハーゲンは、受け入れ式典に参加させた後、それぞれ別の場所へ配属する」
「はい」
「二名の受け入れ先については、改めて決める」
「承知しました」
こうして、帝都から派遣された騎士団長候補三名の扱いは決まった。
一名は、すでに副長府で教育中。
残る二名は、これから正式に受け入れる。
かなり無理のある形だった。
だが、間違ってはいなかった。
少なくとも、書類上は。
■後日
帝都から派遣された騎士団長候補の受け入れ式典は、厳かに執り行われた。
式典へ姿を見せたのは、セドリックとフェリクスの二名だけだった。
ヴィクトル・アルノルト伯爵は、すでに副長府で受け入れ教育を始めているため、式典を欠席した。
そのように説明された。
騎士団領へ到着した直後から教育を始めるとは、ずいぶん熱心な伯爵らしい。
一部では、そのような噂まで流れた。
本人が下着一枚で吊るされていることを知る者は、ほとんどいなかった。
さらに後日。
クリスとシエラには、約束どおり、同じ日から二日間の有給休暇が与えられた。
二人がその休暇を一緒に過ごしたのか。
別々に過ごしたのか。
それを知る者は、誰もいなかった。




