第2章65話 伯爵は返せません
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■総騎士団副長府・廊下
総長府を出たクリス、エリシア、シエラの三人は、副長府へ戻ってきた。
これから、親衛隊に連れていかれたヴィクトル・アルノルト伯爵の所在を確認しなければならない。
三人で廊下を歩いている途中、エリシアが隣のシエラへ目を向けた。
「ところで」
「はい」
「クリスさんとシエラさんは、いつの間にそのような関係になったのですか?」
クリスが露骨に嫌な顔をした。
「今、その話をするのか?」
「総長閣下から、夫婦のように扱われていましたので」
「夫婦じゃない」
「婚約者です」
シエラが静かに訂正した。
「それも、俺は納得してない」
「婚約したこと自体は事実です」
「俺は騙されたんだよ」
エリシアが少し首を傾げる。
「騙されたのですか?」
「この前、父と母へ報告するため、オリオン社本社へ行った時です」
シエラが淡々と説明する。
「そこで、私と婚約することになりました」
「途中を省きすぎだろ」
「それに」
シエラはクリスを見る。
「私と婚約する時に、クリスさんは騎士の誓いまで立ててくださいました」
エリシアの表情が少し変わった。
「騎士の誓いを?」
「はい」
「おい、そこまで言う必要あるか?」
「事実ですから」
シエラは平然としている。
エリシアは少し安心したように頷いた。
「それなら安心ですね」
「何がだ?」
「もう夫婦のようなものではありませんか」
「違う」
クリスは即座に否定した。
「騎士が一度立てた誓いは、簡単に違えることはできませんから」
クリスの動きが止まった。
「……やっぱり、そうなのか?」
エリシアがクリスを見る。
「やっぱり、とはどういう意味ですか?」
「いや」
クリスは目を逸らした。
「何でもない」
やっぱり、そうなのか。
心の中でもう一度呟く。
どうやら、本当に逃げ道はあまりないらしい。
クリスは少し考えた。
「ちなみに、エリシアはどうなんだ?」
「何がですか?」
「そういう約束をしたことはないのか?」
「私は、あまり軽々しく約束をしないようにしています」
「そうなのか?」
「はい」
エリシアは当然のように答えた。
「幼い頃から父に言われてきましたから」
「総長に?」
「はい。騎士が口にした約束は、簡単に違えてはいけないと」
「……そうか」
「私は昔から騎士になりたかったので、そのように教えられて育ちました」
クリスは黙った。
考えてみれば、馬鹿な質問をした。
グランフェルト家も、ヴァイス家と並ぶほどの騎士の名門である。
エリシアも幼い頃から騎士になるための教育を受け、そのまま騎士になった。
約束や誓いに対する考え方が軽いはずがない。
「ですから、シエラさん」
「はい」
「安心してください」
エリシアは真剣な顔で言った。
「クリスさんが騎士の誓いを立てたのであれば、簡単に違えることはありません」
「そうですよね」
シエラの表情が明るくなる。
「もし、それでもクリスさんが約束を違えようとしたら、私に言ってください」
「エリシア」
クリスが警戒したようにエリシアを見る。
「何をするつもりだ?」
「クリスのためです」
「俺のため?」
「はい」
エリシアは真顔でクリスを見る。
「クリス。騎士の誓いを破ったら、どうなるか分かっていますよね?」
「……はい」
クリスの返事が少しだけ小さくなった。
「ですから、クリスがこれからも騎士としていられるように、私がきちんと止めてあげるんです」
「…………」
「何か言うことがあるのではありませんか?」
クリスはしばらく黙った。
「……よろしくお願いします」
「はい」
エリシアは満足そうに頷いた。
「ありがとうございます、エリシアさん」
シエラも嬉しそうに頭を下げる。
それから、クリスを見る。
「だそうですよ、クリスさん」
「だから、俺は違――」
「クリス」
エリシアが静かに呼んだ。
クリスの口が止まった。
「あまり何度も違う違うと言っていると、本当に怒りますよ」
「…………」
クリスは黙った。
今の言い方は、冗談ではなかった。
もうエリシアの前では、迂闊に「違う」とも言えない。
何をされるか知れたものではない。
ただでさえ外堀を埋められているのに、シエラにかなり強力な味方まで増えてしまった。
シエラは、今まで以上に嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「よかったですね、クリスさん」
「……」
クリスは何も言わなかった。
ここでまた否定すれば、隣にいるエリシアが何をするか分からない。
こんな仕事を、エリシアと一緒に受けるんじゃなかった。
ヴィクトル伯爵を助けに行く前から、自分の逃げ道だけがまた一つ減っていた。
「もういい。今は親衛隊の方が先だ」
クリスは話を打ち切り、廊下の先へ目を向けた。
「まず本室へ行く」
「親衛隊が使っている部屋をご存じなのですか?」
エリシアが尋ねる。
「知ってる」
クリスは当然のように答えた。
「親衛隊が副長府で使っている部屋は三つだ。本室と、資材置き場と、礼拝室みたいになってる分室」
「三室もあるのですか?」
「ああ。各階に一室ずつだ」
「私は、まったく把握していませんでした」
「最初は、あいつらが空いてる部屋を勝手に使ってたんだよ」
副長府庁舎には、まだ利用目的の決まっていない部屋が残っている。
親衛隊は、その中のいくつかを集会や資材保管のために使っていた。
「それを見つけて、俺がエゼルたちに言ったんだ。使うなら、レオンへ正式な使用申請を出せってな」
「クリスさんが申請させたのですか?」
「ああ」
「それで、三室の使用が正式に認められたのですね」
「申請書も見た。どの部屋を何に使うかも全部知ってる」
「では、場所を探す必要はありませんね」
「最初からない」
クリスは歩きながら答えた。
「資材置き場へ行っても、人がいるとは限らない。礼拝室の方は、今行く必要がない」
「なぜですか?」
「リリアの絵とか、もらった手紙とか、そういうものを置いてる部屋だからだ」
エリシアの足が、わずかに遅くなる。
「本当に礼拝室なのですか?」
「俺に聞くな」
「分類上は分室です」
シエラが補足した。
「親衛隊内では、正規隊員、準隊員、協力隊員などの区分もあり、利用できる部屋や時間に違いが――」
「その説明、今いるか?」
クリスが遮った。
「今は必要ありません」
「なら、あとにしろ」
「詳細な記録はあります」
「見せなくていい」
クリスは廊下の先を指した。
「本室へ行けば、エゼルかマフガランのどちらかはいるはずだ。まずは、そこへ行く」
「分かりました」
エリシアが頷く。
三人は、親衛隊本室へ向かった。
■総騎士団副長府・親衛隊本室前
親衛隊本室の前には、完全武装した親衛隊員が二人立っていた。
三人が近づくと、そのうちの一人が前へ出る。
「止まってください」
「エゼルはいるか?」
クリスが尋ねた。
「親衛隊長でしたら、中におります」
「呼んでくれ」
「現在、取り込み中です」
「クリスが来たと伝えろ」
親衛隊員は少し考えた。
「お伝えはしますが、すぐには応対できないと思います」
「構わない。ここで待つ」
「承知しました」
親衛隊員は本室の中へ入っていった。
「取り込み中とは、何をしているのでしょうか」
エリシアが扉を見る。
「考えない方がいい」
クリスは壁へ背を預けた。
「ヴィクトル伯爵の件でしょうか」
「多分な」
「もう少し早く来るべきだったのでは?」
「今さら言っても仕方ないだろ」
三人は本室の前で待った。
しばらくして、扉が開く。
親衛隊長のエゼルが姿を現した。
「クリス殿」
「ああ」
「こちらへ来られた理由は分かっています」
「なら、話が早い」
クリスは本室の扉を見る。
「帝都から来た無礼者のことだ」
「あの男ですか」
「一応、帝国伯爵らしいぞ」
「我々には関係ありません」
「そう言うと思った」
エゼルの表情は、いつになく険しかった。
「あの男については、先ほど親衛隊内での裁判が終わりました」
「裁判?」
「はい」
「判決は?」
「死刑です」
クリスは目を閉じた。
「やっぱりな」
「やっぱり、なのですか?」
エリシアがクリスを見る。
「前にも似たようなことがあった」
「前にも死刑判決を出したのですか?」
「親衛隊だからな」
「理由になっていません」
エリシアはエゼルへ向き直った。
「リリアさんは、乱暴なことをしないように頼んだと聞いています」
「姫様のご意向は、何よりも優先されます」
「では、死刑にはできないのではありませんか?」
「判決は死刑です」
エゼルは真顔で答えた。
「ただし、姫様から命を奪わないようにとのご意向をいただいております。そのため、刑を執行するつもりはありません」
「執行しない死刑判決に、何の意味があるんだ?」
「罪の重さを明確にするためです」
「そうかよ」
クリスは、それ以上考えることをやめた。
「なら、あいつを返してくれ」
「できません」
「即答か」
「あの男には、教育が必要です」
「教育?」
「二度と姫様へ無礼を働こうと思わないよう、我々が責任を持って教育します」
「強制的にか?」
「自ら望んで受けるとは思えませんので」
「それはそうだろうな」
エリシアが尋ねる。
「どの程度の期間、預かるつもりなのですか?」
「本人が、自らの罪を正しく理解するまでです」
「一か月くらいか?」
クリスが聞く。
「それでは足りない可能性があります」
「長いな」
「犯した罪を考えれば、当然です」
クリスは頭をかいた。
「伯爵本人は返す気がないんだな?」
「ありません」
「なら、護衛は返してくれ」
「護衛?」
「あいつと一緒に連れてきた二人だ」
「主の蛮行を止めなかった者たちです」
「それでも、リリアに直接何かしたわけじゃないだろ」
「止めることはできたはずです」
「帝国伯爵を護衛が力ずくで止められるわけないだろ。そいつらまで預かる必要はない」
エゼルは、しばらくクリスを見た。
「確認してきます」
「ああ」
エゼルは本室の中へ戻った。
再び扉が閉じる。
「すぐには終わらなさそうですね」
エリシアが言った。
「最初から分かってた」
「伯爵本人を解放できなければ、総長府から頼まれたことを達成したことにはなりません」
「命は取らないって言ってるんだ。放っておけば、そのうち帰ってくる」
「そのうちが、いつなのか分かりません」
「俺たちが困るわけじゃない」
「それを、総長閣下の前でも言えるのですか?」
「言える」
シエラも静かに頷いた。
「伯爵の所在と生命が確認できただけでも、十分な成果です」
「お前は休みが欲しいだけだろ」
「それもあります」
「否定しないのか」
「二日間の休暇は、正式な報酬です」
「まだ申請される予定なだけだ」
「総長の発言は記録しました」
「抜け目がないな」
「もちろん、祝い金についても記録しています」
「そっちもかよ」
「総長閣下が、たっぷり出すとおっしゃいましたので」
「まだ結婚するって決まってないだろ」
「エリシアさんが保証してくれましたので、結婚した際には、必ずいただきます」
「……もらう気満々じゃねぇか」
それから、数十分が過ぎた。
ようやく本室の扉が開く。
先に出てきたのは、エゼルだった。
その後ろに、二人の男がいる。
二人とも上半身は裸だった。
鎧も武器も取り上げられ、両手を後ろで縛られている。
顔には疲労が浮かんでいた。
「この二人は、返しても構わないという結論になりました」
「結論を出すのに、ずいぶん時間がかかったな」
「姫様への侮辱を止めなかった責任について、意見が分かれました」
「もういい。返してくれるなら、それでいい」
クリスは二人を見る。
「歩けるか?」
「はい」
一人が弱々しく答えた。
「助かりました」
「ありがとうございます」
二人はクリスたちへ頭を下げた。
「礼はあとでいい」
クリスはエゼルへ向き直る。
「縄を解いて、服くらいは返してやれ」
エゼルは本室の中にいる親衛隊員へ合図した。
二人の縄が解かれ、衣服が運ばれてくる。
武器と鎧は戻されなかったが、二人は急いで服を着た。
「ヴィクトル伯爵は、本当に返さないんだな?」
「返しません」
「命は取らない?」
「姫様から、乱暴なことはしないようにと言われています」
「なら、命は保証されてるんだな」
「はい」
「今、何をしてる?」
「教育中です」
「丁重に扱ってるのか?」
「姫様のご意向に従い、丁重に扱っています」
「お前らの丁重は、信用できないんだよな」
「命は取っていません」
「そこしか保証できないのか」
エゼルは答えなかった。
シエラがクリスへ目を向ける。
「ヴィクトル伯爵の所在は確認できました」
「ああ」
「生命の保証も得られました」
「ああ」
「護衛二名も解放されました」
「ああ」
「一度、総長府へ戻りましょう」
「伯爵本人は助けてないけどな」
「これだけでも十分だと思います」
エリシアも頷いた。
「私も、そう思います」
「お前までか」
「もともと、ヴィクトル伯爵の救出には、それほど乗り気ではありませんでした」
「ひどいこと言うな」
「私は、現在の親衛隊がどのような状態なのか、直接確認したいという目的もありました」
「それで?」
「十分に確認できました」
「満足そうだな」
「三室を正式に使用し、独自の裁判まで行っていることが分かりました」
「余計な仕事を増やすなよ」
「必要な確認です」
クリスは深く息を吐いた。
「分かった。伯爵は置いていく」
「賢明な判断です」
エゼルが答える。
「教育が終わりましたら、こちらから連絡します」
「いつ終わるんだ?」
「本人次第です」
「そうかよ」
クリスは護衛二人を見る。
「じゃあ、この二人は俺たちが預かる」
「構いません」
二人は、改めてクリスたちへ頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「助かりました」
「お前らも、とんだ目に遭ったな」
クリスは二人を見る。
「お前らの主人のせいだけどな」
二人は顔を見合わせた。
それから、一人が小さな声で答える。
「表立っては申し上げられませんが」
「ああ」
「ヴィクトル伯爵が、帝都で行っていたことを、こちらでも同じように行ったのは間違いだったと思います」
「今さら気づいたのか」
「帝都では、ここまでのことにはなりませんでした」
「ここは帝都じゃないからな」
「はい」
もう一人も、疲れた顔で頷いた。
「私たちも、ここまでひどい目に遭うとは思っていませんでした」
「次からは、主人が馬鹿なことをしそうになったら止めろ」
「可能な限り、努力します」
「止められない可能性もあるのか」
二人は黙った。
「まあいい。戻るぞ」
クリスたちは、護衛二人を伴って親衛隊本室を離れた。
総長府へ戻り、状況を報告しなければならない。
ヴィクトル・アルノルト伯爵の居場所は分かった。
命も保証されている。
護衛二人も解放された。
だが、伯爵本人の救出には、まったく成功していなかった。
今回の目的は、ヴィクトル伯爵を連れ戻すことだったはずである。
それでも。
クリス、エリシア、シエラの三人にとっては、それほど重要なことではなかった。
ヴィクトル伯爵が戻ってくるまで、この話はまだ終わりそうになかった。




