第2章63話 貴族保護令は通じません
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総庁――
■総庁・総長執務室
「副長閣下の妹君……」
セドリックが少し考え込んだ。
「では、あの親衛隊は、副長閣下が妹君を守るために組織したのですか?」
「それは違う」
グラナートが即座に否定した。
「レオンハルトが、そんな面倒な仕事を自分から増やすわけがない」
「……面倒な仕事?」
「あいつが、自分から大勢の騎士団員を集めて妹を守らせるようなことをするはずがない」
グラナートは苦笑する。
「そんなことをすれば、あいつの管理する仕事が増えるだけだ」
フェリクスが少し考えた。
「では、ヴァイス家そのものが、この騎士団領では特別な家なのですか?」
「何?」
「副長閣下の妹君だからではなく、ヴァイス家の方だから親衛隊がいるのではないかと」
グラナートは呆れたように二人を見る。
「先ほど言ったはずだ」
二人がグラナートを見る。
「この騎士団領に貴族はいない」
「ですが、ヴァイス家は――」
「騎士家の名門ではある」
グラナートは答えた。
「だが、貴族ではない。特別な身分を与えられた家でもない」
「では……」
フェリクスが眉を寄せる。
「副長閣下が命じたわけでもない」
「そうだ」
「ヴァイス家が特別な身分だからでもない」
「そうだ」
「それなら、なぜ親衛隊などがいるのですか?」
グラナートが黙った。
そして、イリスを見る。
イリスも少し困った顔をした。
「私を見られても困ります」
「殿下も知らないのか?」
「私が副長府へ来た時には、すでに親衛隊はありました」
イリスは答えた。
「ですから、どういう経緯でできたのかまでは、私にも分かりません」
「では、誰が作ったのですか?」
「それも知りません」
フェリクスが目を瞬いた。
「親衛隊なのですよね?」
「そう呼ばれていますね」
「誰が指揮しているのですか?」
「詳しくは知りません」
「何人いるのですか?」
「正確には私も分かりません」
室内が静かになった。
グラナートが額へ手を当てる。
「……余計にまずいではないか」
「そうですね」
イリスも否定しなかった。
総長府ですら実態を詳しく知らない集団に、帝国伯爵が連れていかれている。
分かっているのは、リリアを守る騎士団員たちがいるということ。
そして、その者たちがヴィクトル伯爵と護衛二人を武装解除し、そのまま連れていったということだけだった。
「ですが、一つだけ分かっています」
イリスが言った。
「何ですか?」
「リリアさんが守られている理由です」
「理由?」
「はい」
イリスは静かに頷いた。
「ヴァイス家の名があるからでも、副長の妹だからでもありません」
「では、なぜ?」
「リリアさん自身の人柄や魅力に惹かれて、守りたいと思った方々が、自分たちの意思で守っているんです」
セドリックとフェリクスが黙った。
「誰かに命じられたわけでもなく?」
「はい」
「何か見返りがあるわけでも?」
「ありません」
フェリクスが、まだ理解できないように眉を寄せた。
「それだけで、親衛隊まで?」
「それだけ、と感じるところが、帝都の貴族社会で育った方には理解しにくいのかもしれませんね」
イリスは少しだけ苦笑した。
「家名でも、地位でも、名誉でもありません。リリアさん本人を慕っているから守っている。それだけです」
セドリックとフェリクスが顔を見合わせた。
「では」
セドリックがグラナートへ向き直った。
「総長閣下から副長府へ命じて、ヴィクトル伯爵を救出していただくことはできませんか?」
「命令はできん」
二人が目を瞬いた。
「できないのですか?」
「ああ」
グラナートは答えた。
「副長府へ協力を依頼することはできる。だが、私の命令で副長府の人間を動かすことはできん」
「では、依頼を出せば――」
「出すことはできます」
イリスが答えた。
「ですが、受けてもらえるかどうかは別です」
「総長府からの依頼でも?」
「依頼は依頼です。命令ではありませんから」
「断られる可能性があるのですか?」
「内容によるでしょうね」
イリスは少し考える。
「ただ、今回のような親衛隊絡みの面倒な依頼でしたら……」
一度言葉を切った。
「私は、あまり受けてもらえるとは思いません」
セドリックとフェリクスの表情が曇った。
「……それも知らずに騎士団領へ来たのですか? やはり勉強不足ですね」
イリスが二人を見る。
フェリクスが口を閉じた。
「それは……」
「いえ。来る前に知らなかったことについては、もういいです」
イリスは小さく息を吐いた。
「ですが、昨日から今までの話を聞いていれば、もう分かるのではありませんか?」
二人が黙った。
「あなた方は昨日、許可もなく副長府へ入りました」
「はい……」
「副長府は他の騎士団と違います。総長府が簡単に干渉できるような組織ではありません」
イリスは静かに言った。
「そこを理解してください」
室内が静かになる。
しばらくして、セドリックが何かを思い出したように顔を上げた。
「……待ってください」
「何ですか?」
「貴族保護令があります」
フェリクスも顔を上げる。
「ああ」
二人の表情が、わずかに明るくなった。
「ヴィクトル伯爵は帝国伯爵です」
セドリックが続ける。
「生命や身体に重大な危険があるのであれば、貴族保護令を申請できます」
「それなら――」
フェリクスも、少し安堵したように言う。
「保護令によって、ヴィクトル伯爵を救出できるのではありませんか?」
グラナートが二人を見る。
「……先ほど、この騎士団領には貴族がいないと言ったはずだが」
二人の表情が止まった。
「ですが、ヴィクトル伯爵は帝国貴族です」
「……本当に何も知らないのですね。この騎士団領に貴族はいません。ですから、貴族保護令も適用されません」
イリスが静かに言った。
「……適用されない?」
「はい」
二人の顔から、先ほど浮かんだ安堵が消えた。
イリスは小さく息を吐く。
「まだ分かっていませんね」
「…………」
「帝都で使っていた制度を、そのままここへ持ってくれば何とかなると思わないでください」
セドリックとフェリクスが再び黙った。
貴族保護令。
それも使えない。
「では……」
フェリクスが考える。
「我々で捜索隊を出します」
イリスが目を細めた。
「何ですか?」
「我々の護衛に加えて、こちらで人を集めます」
セドリックも頷く。
「三十名ほどであれば、すぐに動かせるでしょう」
「……今度は何をするつもりですか?」
「副長府を捜索します」
イリスは額へ手を当てた。
「まだ分かっていないのですか?」
二人が止まる。
「また不法侵入するつもりですか?」
「いえ」
セドリックが慌てて否定した。
「今度は正式に許可を取ります」
「許可を取ったところで、三十人もの武装した人間を副長府へ入れて捜索させる許可など出るわけがないでしょう」
「ですが――」
「それ以前に」
イリスは二人を見る。
「三十人では足りないと思います」
「三十人でも?」
「はい」
グラナートが眉を寄せる。
「親衛隊は、どれほどいるのだ?」
「先ほど申し上げた通り、正確な人数は私にも分かりません」
イリスは少し考える。
「ですが、三十人では到底及ばないほどいると思います」
「そこまでか?」
「はい」
セドリックとフェリクスの表情が曇る。
「それに、先ほど申し上げた通り、自分たちの意思で集まっている方々です」
グラナートの表情が少し険しくなる。
「……士気も高いということか」
「そういうことです」
イリスは小さく息を吐いた。
「そんな相手に三十人も連れていけば、余計に大きな騒ぎになるだけです」
「ですから、やめてください」
少し間を置いた。
「今度は、本当に死人が出ますよ」
セドリックとフェリクスの表情が固まった。
「では……」
セドリックが困ったようにイリスを見る。
「我々は、どうすればいいのですか?」
「放っておけばいいのではないですか?」
「放っておく?」
「はい」
イリスは淡々と答えた。
「リリアさんが、あまり乱暴なことをしないよう頼んでいます」
「命まで取られることはないでしょう」
「だが、そういうわけにもいかん」
グラナートが口を挟んだ。
「皇太子殿下から預かった騎士団長候補だぞ」
「それは分かっています」
「三名が来ることを前提に、こちらも予定を組んでいる」
グラナートは苦い顔をする。
「三人を迎える式典も予定している」
「一人だけ親衛隊に連れていかれたままでは、こちらも困る」
フェリクスも頷いた。
「すぐに解放される可能性はないのですか?」
二人の視線がイリスへ向く。
イリスは少し考えた。
「すぐは無理でしょうね」
「無理なのですか?」
「何をされているのかも分かっていないのですよ」
「少なくとも、すぐ返すつもりなら、鎧と兜だけ残して奥へ連れていく必要はないでしょう」
セドリックとフェリクスの表情が曇る。
「それでは困ります」
「私に言われても困ります」
イリスは即座に答えた。
「そもそも、ヴィクトル伯爵自身が起こした問題です」
誰も反論できなかった。
「それなら、レオンハルトへ伝えるしかないか」
グラナートが言った。
「自分の妹に関わることだ」
「伝えても、すぐには何も分からないと思います」
「何?」
「レオン自身も、親衛隊について詳しくは知りません」
グラナートが止まった。
「それだけの集まりなのだろう?」
「はい」
「しかも、自分の部下も関わっている」
「そうですね」
「それなのに、詳しく知らないのか?」
「存在は知っています」
イリスは答えた。
「ですが、詳しいことまでは尋ねないんです」
グラナートが眉を寄せる。
「あいつは部下を見ていないのか?」
「いいえ。見ていますよ」
イリスは即座に否定した。
「ただ、見ているのは部下のした仕事です」
「仕事?」
「はい」
「誰が何の仕事をして、どのような結果を出したのか。提出された報告書も、必要な判断も見ています」
イリスは少し間を置いた。
「レオンにとって大切なのは、今ある仕事です」
「今ある仕事?」
「はい」
「目の前にある仕事を終わらせることを優先します」
「親衛隊の存在は知っています。ですが、これまでは大きな問題としてレオンのところへ上がってきていません」
「だから、自分から詳しく尋ねて、新しい仕事にしようとはしないんです」
グラナートが深く息を吐いた。
「……なるほどな」
「それに」
イリスはグラナートを見る。
「そこまで余裕がない原因の一つは、総長府にもありますけどね」
グラナートの動きが止まった。
「何?」
「レオンに仕事を任せすぎています」
「それは前総長が――」
「始めたのは前総長かもしれません」
グラナートが少しだけ表情を緩める。
「そうだろう。そこはヴァルド前総長の――」
「ですが、今の総長はグラナート閣下ですよ」
グラナートが黙った。
「…………」
「今もレオンへ回る仕事がなくなったわけではありません」
「……そこは、あまり私をいじめないでくれ」
「事実を申し上げただけです」
グラナートは何も言い返さなかった。
セドリックとフェリクスは、二人のやり取りを黙って見ている。
やがて、フェリクスが恐る恐る口を開いた。
「では……結局、我々はどうすればよいのでしょうか」
イリスは少し考えた。
「私より、親衛隊について詳しい方がいます」
二人が顔を上げる。
「誰ですか?」
「クリスさんです」
「クリス?」
「クリス・ラングレー第四大隊長です」
グラナートが眉を寄せた。
「あの、ふざけた男か?」
イリスが少しだけ笑った。
「はい。あのふざけた男です」
「……本当に大丈夫なのか?」
「少なくとも、親衛隊については私よりずっと詳しいと思います」
イリスは続けた。
「それと、エリシアさんです」
グラナートの表情が少し変わる。
「エリシアか」
「はい」
「二人なら話が分かるのか?」
「少なくとも、私よりは」
イリスは素直に答えた。
「私は親衛隊の詳しい内情までは分かりません」
「クリスさんとエリシアさんに話を聞く方が早いと思います」
グラナートはしばらく考えた。
そして、マクニッサを見る。
「クリス・ラングレー第四大隊長と、エリシア・グランフェルト軍務補佐官へ連絡しろ」
「承知しました」
「二人に総長府へ来てもらえるよう、正式に依頼を出せ」
「承知しました」
「それと、依頼内容は伏せろ」
グラナートが続けた。
「受付には、私から二人への依頼だとだけ伝えろ。用件まで話す必要はない」
「承知しました」
マクニッサが頭を下げる。
セドリックが、少し不安そうに尋ねた。
「……来ていただけるのでしょうか?」
イリスが少し考えた。
「クリスさんが親衛隊絡みだと最初から知れば、嫌がるとは思います」
「嫌がるのですか?」
「面倒なことは嫌いですから」
グラナートが額へ手を当てた。
「やはり、ふざけた男ではないか」
イリスがわずかに笑う。
「ですから、用件は伏せておいた方がいいと思います」
「……そうしよう」
グラナートは重く頷いた。
帝都から派遣された騎士団長候補三名。
その一人。
ヴィクトル・アルノルト伯爵は、騎士団領へ到着した翌日に親衛隊へ連れていかれた。
帝国伯爵という身分も。
総長の権限も。
貴族保護令も。
三十人の捜索隊も。
どれも、ヴィクトルをすぐに連れ戻す手段にはならなかった。
残された手段は、この騎士団領と親衛隊の事情を知る者へ、正式に協力を求めることだけだった。




