第2章61話 五人だけ
――帝国暦三二二年・春中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総庁――
■総庁・受付
昼過ぎ。
レオン、イリス、メリーの三人は、総庁の受付へ駆け込んだ。
受付に座っていた女性が、三人の姿に気づいて顔を上げる。
先頭にいたレオンは、受付の前で足を止めた。
「総騎士団副長、レオンハルト・ヴァイスだ」
受付の女性が、すぐに姿勢を正した。
「はい」
「グラナート総長に会いたい」
「面会のご予定はございますか?」
「ない」
「承知しました」
受付の女性は、少しも迷わず立ち上がった。
「すぐに面会できるよう手配いたします。少々お待ちください」
「ああ」
女性は一礼すると、足早に受付の奥へ向かった。
その背中を見送り、メリーが感心したように呟く。
「すごいですね」
「何がだ」
「お兄様が来ると、すぐに総長へ会えるのですね」
「まだ会えるとは決まっていない」
「ですが、すぐに手配するとおっしゃっていました」
レオンは答えなかった。
代わりに、イリスが淡々と口を開く。
「当然と言えば、当然でしょうね」
「そうなのですか?」
「総騎士団副長は、本来、総長の筆頭補佐にあたる立場です」
「総長へ直接会いに来ても、不自然ではありません」
イリスはレオンを見る。
「それに、副長へ就任されてから、こうしてご自分で総庁へ来られたのは初めてではありませんか?」
レオンは少し考えた。
「そうだったかもしれない」
「受付の方も、何か緊急の問題が起きたと思ったのでしょう」
「なるほど」
メリーが納得したように頷く。
「お兄様がお姉様と私を連れて突然来れば、そう思われるかもしれませんね」
「俺一人なら思われないのか」
「総長へ文句を言いに来た、とか思われるのでしょうか?」
「メリー」
「はい」
「余計なことを言うな」
やがて、受付の女性が戻ってきた。
「お待たせいたしました」
三人が女性を見る。
「グラナート総長がお会いになります」
「そうか」
「こちらへどうぞ」
受付の女性に案内され、三人は総庁の奥へ進んだ。
いくつかの廊下を抜け、階段を上がる。
やがて女性は、大きな扉の前で足を止めた。
扉を控えめに叩く。
「総騎士団副長、レオンハルト・ヴァイス様がお見えです」
「入れ」
低い声が、扉の向こうから返ってきた。
女性が扉を開く。
「どうぞ」
レオンは短く頷き、部屋へ入った。
その後ろを、イリスとメリーが続いた。
* *
■総庁・総長執務室
執務机の向こうに、グラナート・グランフェルトが座っていた。
机の上には、確認途中らしい書類が並んでいる。
グラナートは手元の書類を閉じ、三人を順番に見た。
「予定もなく三人で来るとは、珍しいな」
「突然来てすまない」
「構わん」
グラナートは椅子の背に体を預けた。
「それで、何があった」
レオンは、グラナートの机の前まで進んだ。
「衛兵隊について相談がある」
「衛兵隊?」
「ああ」
「できるだけ多くの人員を、副長府へ戻してほしい」
グラナートの表情が止まった。
「無理だ」
即答だった。
「まだ何人とは言っていない」
「何人であっても、簡単には戻せん」
「そこを何とか頼みたい」
「レオンハルト」
グラナートが低い声で呼ぶ。
「元の衛兵隊に、何人いたと思っている」
「七十人ほどだったはずだ」
「七十人だ」
グラナートは、その数字を強く繰り返した。
「その七十人を、誰が再配置したと思っている」
「総長側だ」
「分かっているではないか」
グラナートは机に片手を置いた。
「各騎士団へ戻す者」
「総庁の別部署へ移す者」
「町や村の警備へ回す者」
「騎士団領内の施設へ送る者」
「七十人全員について、新しい配置先を決めた」
「衛兵隊が解散したからといって、そのまま職を失わせるわけにはいかんからな」
「それは分かっている」
「本当に分かっているのか?」
グラナートの声が少し強くなった。
「受け入れ側の人数も調整した」
「新しい任務を与えた」
「指揮官を決め、勤務場所を整えた」
「住む場所まで変えた者もいる」
「こちらも、あれだけの人数を再配置するのには相当苦労した」
レオンは何も言わなかった。
「解散から、まだ二か月ほどだ」
グラナートは続ける。
「ようやく新しい仕事に慣れ始めた頃だ」
「それを今度は、また副長府へ戻れとは簡単に言えん」
イリスとメリーから言われたことと、ほとんど同じだった。
「七十人のうち、今も総庁の近くに残っているのは三分の一ほどだ」
「残りは、すでに各地へ出している」
「近くに残っている者にも、それぞれ新しい任務がある」
「全員を元へ戻すなど不可能だ」
「全員とは言わない」
レオンは答えた。
「できる範囲でいい」
「少しでも、副長府へ戻してほしい」
グラナートは腕を組んだ。
「お前は一度不要だと言った職場へ、二か月後に戻れと言われて、素直に戻るか?」
「……戻りたいとは思わんだろうな」
「そういうことだ」
「また不要になれば解散させられるのではないかと、衛兵たちが考えても不思議ではない」
「今の配置先から人を抜けば、今度はその場所に穴が開く」
「お前の都合だけで動かせる話ではない」
「ああ」
レオンは、深く頭を下げた。
「その通りだ」
グラナートの眉が、わずかに動く。
「俺の見通しが甘かった」
「衛兵隊を解散させれば、それで終わると思っていた」
「必要になれば、また戻せばいいとも考えていた」
「だが、一度別の場所へ移した人間を、簡単には戻せない」
「そこまで考えていなかった」
レオンは頭を下げたまま続けた。
「頼む」
「少人数でも構わない」
「副長府へ戻せる者がいるなら、戻してほしい」
イリスとメリーも、レオンに続いて頭を下げた。
「お願いします、総長」
イリスが言った。
「現在の副長府には、警備人員がほとんどいません」
「統括管理部で作成している新警備体制案も、五十人以上の人員を前提としています」
メリーも続ける。
「今のままでは、昼間の巡回すら十分に行えません」
「新しい体制を作る以前に、まず警備を行う者が必要です」
グラナートは三人を見た。
特に、頭を下げているレオンを長く見る。
「お前が頭を下げるとは珍しいな」
レオンは頭を上げた。
「今回は、俺の判断が間違っていたと思っている」
「反省もしている」
「そこまで考えが変わったのは、なぜだ」
グラナートが尋ねた。
「副長府では、このところ夜間に妙な噂が広がっている」
「未完成区画のこともある」
「だが、今は夜に何か起きても、確認に回せる警備人員がほとんどいない」
グラナートは黙って聞いていた。
「それと、もう一つある」
レオンは答えた。
それから、イリスとメリーを見る。
「すまない」
「少しだけ、二人とも席を外してくれないか」
イリスとメリーが顔を見合わせた。
「私たちにも話せないことですか?」
イリスが尋ねる。
「ああ」
「警備体制に関係することですよね?」
「関係はある」
レオンは、少しだけ声を落とした。
「だが、本人に関わる話だ」
「俺から勝手に話すことはできない」
イリスは、しばらくレオンを見た。
やがて、小さく頷く。
「分かりました」
メリーも、戸惑いながら頷いた。
「外でお待ちしています」
「すまない」
二人はグラナートへ一礼し、総長執務室から出ていった。
扉が閉まる。
室内には、レオンとグラナートだけが残った。
*
「それで、何があった」
グラナートが尋ねた。
先ほどまでより、少しだけ声が低かった。
レオンは、答えづらそうに視線を逸らした。
「エリシアを泣かせた」
グラナートの表情が変わった。
「何?」
「傷つけてしまった」
次の瞬間。
グラナートが椅子を蹴るように立ち上がった。
腰の剣を抜く。
「よくも娘を!」
「待て!」
グラナートは机を回り込み、そのままレオンへ斬りかかった。
レオンは咄嗟に身を引く。
振り下ろされた剣先が、上着の肩口をかすめた。
「何をする!」
「副長という地位を振りかざして、娘にどんな無体なことをした!」
「何もしていない!」
「なら、なぜ泣かせた!」
「まず話を聞け!」
「問答無用だ!」
グラナートは剣を振りかざした。
「俺がお前を成敗してやる!」
「総長が副長を成敗するな!」
再び振られた剣を、レオンは机を回り込んで避けた。
「エリシアに何をした!」
「何もしていないと言っている!」
「何か余計なことをしたんだろう!」
「違う!」
「言い訳は聞かん!」
「聞け!」
レオンは机を挟み、グラナートから距離を取った。
「やっていることがヴァルド前総長と同じだぞ!」
「ヴァルド殿なら、娘を泣かせたと聞いた時点ですでに斬っている」
「お前も聞いた直後に斬りかかってきただろう!」
「私は理由を尋ねた」
「剣を振り回しながら尋ねるな!」
「前総長よりは冷静だ」
「俺から見れば、どちらも変わらん!」
グラナートが、再び剣を構える。
「さっさと話せ」
「話すから、まず剣を下ろせ!」
「説明が先だ」
「その状態で説明できるか!」
「エリシアを泣かせた理由によっては、このまま斬る」
「だから違うと言っているだろう!」
レオンは声を張った。
「俺が衛兵隊を解散させたせいだ!」
グラナートの動きが、わずかに止まった。
「衛兵隊?」
「そうだ」
「エリシアは、俺の代わりに未完成区画へ確認に行った」
レオンはグラナートを見る。
「さっき話した、夜間の妙な噂があるだろう」
「ああ」
「……お前なら、それだけで分かったのではないか」
グラナートは、しばらくレオンを見た。
「……ああ」
「そのあと、夜間の警備体制を何とかしてほしいとエリシアから頼まれた」
「その話をしている時に、泣かせてしまった」
「傷つけたというのも、そういう意味だ」
室内が静かになった。
グラナートは、しばらくレオンを見た。
それから、ようやく剣を下ろす。
「……そういうことか」
「そういうことだ」
「最初からそう言え」
「言い終わる前に斬りかかってきたのはお前だ!」
グラナートは剣を鞘へ戻した。
「その話は、誰にも言うな」
レオンが言った。
「本人から、内緒にしてほしいと頼まれている」
「お前に言われなくとも、分かっている」
グラナートは答えた。
「父親のお前なら、昔から知っていると思った」
「だから、イリスとメリーを外へ出した」
グラナートが短く頷いた。
「なるほどな」
「エリシアと約束した」
「誰にも言わないと」
「その約束を守るために、俺と二人になったのか」
「ああ」
「それに、警備を戻したい理由を説明しなければならなかった」
グラナートは、しばらく何も言わなかった。
やがて椅子へ座り直す。
「分かった」
「何とかしよう」
レオンが顔を上げた。
「本当か?」
「本当だ」
「ただし、七十人を元へ戻すことはできん」
「分かっている」
「五十人も無理だ」
「それも分かっている」
「今の段階で約束できるのは、五人だけだ」
レオンは黙った。
「……五人?」
「そうだ」
「たった五人か」
「贅沢を言うな」
グラナートの声が強くなる。
「その五人も、ようやく新しい仕事に慣れ始めたところから戻すんだ」
「今の所属先との調整も必要になる」
「仕事の引き継ぎもしなければならん」
レオンは何も言えなかった。
「五人のうち一人は、元衛兵隊の古参だ」
「そいつを隊長にする」
「残りの四人を付けて、ひとまず五人で衛兵隊を編成し直す」
「近日中に、副長府へ戻す」
「近日中?」
「ああ」
「今日すぐというわけにはいかん。数日はかかると思っておけ」
「……分かった」
「今の段階で約束できるのは、そこまでだ」
「今後、配置に余裕ができれば、少しずつ追加の人員を戻す」
「それでよければ、こちらで手配する」
レオンは、深く頭を下げた。
「分かった」
「無理な頼みを聞いてくれて助かる」
「礼なら、五人を受け入れてからにしろ」
「それと、もう簡単に解散させるな」
「分かっている」
「本当に分かっているのか?」
「今度は本当に分かっている」
グラナートは、まだ疑うようにレオンを見た。
「お前が頭を下げたことも含め、今回は信じてやる」
「そうしてくれ」
「ただし、またエリシアを泣かせた時は――」
「今度は最後まで話を聞いてから剣を抜け」
「内容による」
「また抜くつもりなのか」
「父親だからな」
「総長としての立場はどこへ行った」
「今は二人だけだ」
「都合よく父親に戻るな」
レオンは疲れたように息を吐いた。
*
■総庁・廊下
総長執務室の扉が開いた。
廊下で待っていたイリスとメリーが、同時にレオンを見る。
レオンの髪は少し乱れ、上着の肩口が切れていた。
「レオン」
イリスが怪訝そうに尋ねる。
「総長との話し合いは、大丈夫だったのですか?」
「ああ」
「中から、ずいぶん激しい剣戟の音が聞こえていましたけれど」
「話の途中で、少し誤解があった」
「話し合いで剣を使うのですか?」
「俺に聞くな」
レオンは、切れた上着の肩口を見下ろした。
「この騎士団領では、娘や孫娘のいる騎士は、どうして話を聞く前に斬りかかってくるんだ」
そう言いながら、メリーを見る。
「お前のじいさんもひどかったぞ」
「お祖父様も、ですか?」
「ああ」
「以前、お前のことで話をした時も、いきなり斬りかかってきた」
レオンは疲れたように息を吐く。
「しかも相手は上司だ」
「こちらから反撃するわけにもいかん」
「……お祖父様が、申し訳ありません」
メリーが小さく頭を下げた。
「お前が謝ることではない」
「それで、上着が切れているのですね」
「ああ」
イリスはレオンの上着と、閉じられた総長執務室の扉を交互に見た。
「騎士団領というのは、すごい土地柄なのですね」
「何がだ?」
「帝都では、上司が部下へ突然斬りかかることなど考えられません」
「俺も普通はそうだと思っている」
「ですが、これで二人目です」
「俺に言うな」
レオンは、もう一度深く息を吐いた。
「それより、衛兵の話だ」
「どうなりましたか?」
イリスが表情を戻して尋ねる。
「五人だ」
「五人?」
メリーが聞き返す。
「ああ」
「近日中に、衛兵五人を副長府へ戻してもらえることになった」
「一人は元衛兵隊の古参で、隊長を任せられるらしい」
「残り四人と合わせて、ひとまず衛兵隊を編成し直す」
「すぐに来るのですか?」
「いや」
「今の仕事の引き継ぎがある。数日はかかるそうだ」
イリスは静かに頷いた。
「五人だけでも確保できたのですね」
「ああ」
「総長には、完全に断られると思っていました」
「俺も、途中まではそう思った」
「どのように説得されたのですか?」
「本人に関わることだ」
レオンは答えた。
「それは話せん」
イリスは少しだけレオンを見た。
だが、それ以上は追及しなかった。
メリーは、もう一度レオンの切れた上着へ視線を向ける。
「説得ですよね?」
「一応な」
「本当に?」
「一応、話し合いだ」
「剣を使う話し合いだったのですね」
「だから、俺に聞くな」
レオンは先に歩き出した。
イリスとメリーも、その後を追う。
「五人だけでは、新警備体制案を実行できません」
イリスが言った。
「分かっている」
「まずは、五人でできる範囲を決める必要があります」
「ああ」
「勤務時間や配置、巡回する場所も決めなければなりません」
「……分かっている」
メリーも頷いた。
「五人ですから、できることは限られますね」
「ああ」
レオンの足取りが、少しずつ重くなった。
「仕事が増えても構わないと、おっしゃいましたよね」
イリスが言った。
「言った」
「ご自分の判断に対する罰だとも理解されていました」
「そこまで言ったのはお前だ」
「否定はされませんでした」
「分かっている」
レオンは深く息を吐いた。
七十人いた衛兵隊を解散させた。
それを元へ戻そうとして、確保できたのは五人だけだった。
「一度なくしたものを戻すのは、こんなに大変なのか」
レオンは小さく呟いた。
「だから、あの時に反対しました」
イリスが即座に答える。
「今は言うな」
「事実です」
「今は聞きたくない」
「ですが、忘れないでください」
「忘れん」
レオンは、さらに重くなった足取りで総庁の廊下を進んだ。
数日後には、五人の衛兵が副長府へ来る。
それで少しは警備も変わるだろう。
少なくとも、この時のレオンはそう考えていた。
だが、まだ半分ほどしか完成していないとはいえ、総長府よりも広い副長府全体を警備するには、五人ではあまりにも少なかった。
そのことを、レオンたちはほどなく実感することになる。




