第2章60話 新警備体制
――帝国暦三二二年・春初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
昼前。
第一執務室では、いつものように書類をめくる音が続いていた。
レオンハルト・ヴァイスは、自分の机に広げた一枚の紙を見下ろしていた。
昼間の巡回。
夜間の警備。
出入口の確認。
緊急時の初動。
庁舎内の避難誘導。
町や近隣施設への応援要請。
必要なことは分かる。
問題は、それを誰にやらせるのかだった。
レオンは紙から顔を上げた。
「メリー」
少し離れたところで書類を確認していたメリーが顔を上げる。
「はい、お兄様」
「統括管理部で作っていた新しい警備体制の案があっただろう」
「あります」
「まだ残っているか?」
「はい。草案ですが、基本的な配置と運用方法まではまとめられています」
「なら、それを使えば早いな」
レオンは少しだけ安心した。
「副長府に合わせて直せばいい」
メリーは答えなかった。
「どうした」
「使えません」
レオンの手が止まる。
「なぜだ」
「人員が足りません」
「どの程度だ」
「根本的に足りません」
メリーは手元から一枚の書類を取り出した。
「統括管理部で作成していた案は、最低でも五十人以上の警備人員を確保することを前提にしています」
「五十人?」
「はい」
「警備だけでか?」
「警備だけで、です」
メリーは淡々と続ける。
「正面入口と搬入口。庁舎内の巡回。各階の警備。外周の確認。夜間勤務。交代要員。緊急時の連絡役」
「これらを昼夜で回さなければなりません」
「五十人でも十分とは言えません」
「多すぎないか」
「多くありません」
「総庁でも、そんなに使っていないだろう」
「使っています」
別の机で書類を確認していたイリスが顔を上げた。
「総庁でも五十人以上が警備に関わっています」
「そんなにいるのか」
「はい」
イリスは静かに答える。
「それに、副長府庁舎は総庁より広いです」
メリーが続けた。
「まだ完成していない現在でも、庁舎全体を警備するには相当な人数が必要です」
「完成すれば、さらに必要になります」
「……そうだったな」
レオンは紙へ視線を戻した。
巡回。
入口。
夜間警備。
交代要員。
紙の上に書くだけなら簡単だった。
だが、歩く者が必要だった。
入口に立つ者が必要だった。
夜中に残る者と、その者に代わる者も必要だった。
仕組みだけ作っても、人がいなければ動かない。
「つまり」
レオンは顔を上げた。
「警備体制を作る前に、警備に使える人間を集めないと話にならないのか」
「はい」
メリーが頷く。
「今は、体制案を検討する以前の問題です」
「……やはり、衛兵隊を解散させたのは失敗だったな」
「だから、あの時に反対しました」
イリスが即座に答えた。
「私も反対しました」
メリーも続く。
「二人で責めるな」
「責めてはいません」
「事実です」
「二人続けて言えば十分責めている」
レオンは嫌そうな顔をした。
「俺も反省している」
「本当ですか?」
メリーが尋ねる。
「本当だ」
「では、警備人員は不要だとは、もうおっしゃらないのですね」
「言わん」
「夜間警備も必要です」
「分かった」
「交代要員も」
「分かった」
「緊急時の予備人員も――」
「もう分かった」
レオンは額を押さえた。
「反省している人間を追い込むな」
「確認しているだけです」
イリスは表情を変えない。
「今後、同じことを繰り返さないために」
「それを責めていると言うんだ」
「では、少しだけ責めています」
「やはり責めているじゃないか」
レオンは深く息を吐いた。
それから、紙を机へ置く。
「なら、衛兵隊を戻せばいい」
メリーとイリスが同時にレオンを見た。
「総長に頼んで、元の人員をこちらへ戻してもらう」
「難しいと思います」
メリーが言った。
「なぜだ」
「衛兵隊を解散してから、まだ二か月ほどです」
「なら、元の人員も把握できるだろう」
「把握できることと、戻っていただけることは別です」
今度はイリスが口を開いた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「何だ」
「仮に、副長府に不要だと言われたとします」
「……縁起でもないことを言うな」
「仮定です」
「続けろ」
「あなたは別の場所へ移され、新しい仕事を与えられます」
レオンは黙って聞く。
「そこで新しい仕事を覚え、周囲ともようやく慣れた二か月後」
イリスは続けた。
「やはり副長府に必要になったから戻ってほしい、と言われたらどう思いますか?」
「……」
レオンは眉を寄せた。
一度、不要だと言われる。
別の場所へ移される。
そこで新しい仕事を覚える。
その直後に、やはり必要になったから戻れと言われる。
「俺なら……いい気分はしないな」
「戻りたいと思いますか?」
「命令なら戻るだろう」
「ご自分からは?」
「……思わないだろうな」
「元衛兵の方々も同じです」
イリスは静かに言った。
「すでに新しい仕事があります」
「新しい指揮官も、新しい同僚もいます」
メリーが続ける。
「各騎士団へ移った方もいます」
「町や村、騎士団領内の施設へ派遣された方もいます」
「そこで新しい役目を与えられています」
「それを、副長府で必要になったから戻ってください、と簡単には言えません」
レオンは腕を組んだ。
「だが、命令なら戻せる」
「命令することはできます」
イリスは否定しなかった。
「ですが、それで全部解決するわけではありません」
「一度不要だと言われています」
「また不要になれば解散させられるのではないか、と考える方もいるでしょう」
メリーも頷く。
「それに、元衛兵を受け入れた側にも事情があります」
「受け入れ先を決めて、役目を与えて、指揮系統を調整しています」
「ようやく新しい配置が落ち着き始めたところです」
「そこから人を抜けば、今度はその場所に穴が開きます」
レオンは何も言わなかった。
衛兵隊を解散させた時。
不要な組織なら、なくせばいいと思った。
人間は必要な場所へ移せばいい。
それで済むと思っていた。
だが、移した人間は駒ではない。
移された先にも仕事がある。
生活がある。
そこで必要としている者もいる。
一度動かした人間を、都合よく元へ戻せば済む話ではなかった。
「総長へお願いしても、すぐには認められないと思います」
イリスが言った。
「私もそう思います」
メリーも頷く。
「……そこまで考えていなかった」
「だから、あの時に反対しました」
「また言うのか」
「大事なことですので」
「私も反対しました」
「お前まで繰り返すな」
レオンは嫌そうな顔をした。
だが。
もう、元へ戻せばいいとは言えなかった。
少しの沈黙。
「それでも、何とかする必要はある」
レオンは机の上の警備体制案を見る。
「このところ、続けて問題が起きている」
「リリアの肖像画の件では、何か起きてもすぐ動かせる警備がいなかった」
「未完成区画の白い影の時も、巡回へ回せる人間がほとんどいなかった」
「今度は七不思議だ」
「七不思議は事件ではありません」
イリスが訂正した。
「噂です」
「分かっている」
「だが、ただの物音なのか、人がいるのか、それすら夜に確認する者がいないから噂になる」
イリスは、それ以上は何も言わなかった。
「それに」
レオンは少し間を置く。
「エリシアにも頼まれた」
メリーが顔を上げた。
「エリシアさんに?」
「ああ」
「夜間の警備を何とかしてほしいと言われた」
「どうしてですか?」
「それは言えん」
レオンは即答した。
「本人に関わることだ」
「俺から話すことじゃない」
メリーは少しだけレオンを見た。
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
「だが、夜の庁舎を不安に思っている者がいることは確かだ」
「エリシアさんだけではありません」
イリスが言った。
「七不思議の噂が広まってから、暗くなる前に帰ろうとする者は増えています」
「お前たちもか?」
「はい」
メリーが答えた。
「遅くなる必要がなければ、早めに戻ります」
「夜に移動する時も、できるだけ一人にはなりません」
「私も同じです」
イリスも頷く。
レオンは少し考えた。
「では、夜まで毎日ここにいるのは誰だ」
メリーとイリスが同時にレオンを見る。
「……俺か?」
「はい」
「お兄様くらいです」
「俺は好きで残っているわけじゃない」
「分かっています」
「仮眠室で寝ているだけだ」
「ほとんど住んでいるのと同じです」
「違う」
「警備の話としては、大差ありません」
レオンは言葉に詰まった。
夜中に何か起きた時。
警備の者ではなく、自分が最初に気づく。
それでは、警備体制とは呼べない。
「とにかく、何とかする」
レオンは言った。
「エリシアにも約束した」
メリーは少し黙ってから尋ねた。
「衛兵隊を戻せば、お兄様の仕事も増えますよ」
「俺の仕事が?」
「人を戻せば終わりではありません」
「新しい警備体制の決裁」
「指揮系統の調整」
「勤務時間」
「各部署との調整」
「運用開始後の確認も必要です」
イリスも続ける。
「今でも仕事は多いです」
「さらに増えることになります」
レオンは黙った。
「それでも、よろしいのですか?」
「ああ」
答えは早かった。
「構わん」
イリスが、わずかに目を細める。
「珍しいですね」
「何がだ」
「仕事が増えると分かっていて、迷わないのがです」
「俺が衛兵隊を解散させた結果だ」
レオンは机の上の紙を見る。
「そのせいで増える仕事なら、仕方がない」
「反省されたのですね」
「している」
「本当に?」
「していると言っている」
レオンは嫌そうに答えた。
それでも、言葉を変えなかった。
「俺が始めたことだ」
「後始末から逃げるつもりはない」
メリーの表情が少しだけ緩んだ。
「分かりました」
「ただし」
イリスが言う。
「すぐに衛兵隊が元通りになるとは思わないでください」
「ああ」
「元衛兵を全員戻せるとも限りません」
「分かっている」
「本当に?」
「今、散々説明されただろう」
「なら結構です」
レオンは椅子から立ち上がった。
上着を取る。
イリスが顔を上げた。
「どちらへ?」
「総庁だ」
「今からですか?」
「ああ」
「総長に直接頼んでくる」
メリーが少し驚いたように顔を上げた。
「今から行って、総長閣下にお会いできるのでしょうか」
「普通なら、難しいでしょうね」
イリスが答えた。
「総長閣下に直接お会いするには、先に予定を確認して、面会の時間を取る必要があります」
「では、今日は難しいのでは?」
「私やメリーさんだけで行けば、おそらくそうでしょう」
イリスはレオンを見る。
「ですが、副長本人が直接行くのであれば、話は別だと思います」
「そうなんですか?」
「たぶん、そうなります」
「総騎士団副長本人が直接相談に来たとなれば、少なくとも用件の確認はされるでしょう」
レオンは上着を整えた。
「それで十分だ」
「十分?」
「ああ」
レオンはそれ以上説明しなかった。
必要なら、エリシアに関わる件だと伝えるつもりだった。
詳しい事情まで話すつもりはない。
だが、それでもグラナートなら会うはずだ。
今回は、会えなかったから後日にするつもりはなかった。
「とにかく行くぞ」
レオンは扉へ向かった。




