第2章55話 補佐官と夜間警備
――帝国暦三二二年・春初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第二執務室
ノーラが第二執務室を出ていった。
扉が閉まる。
廊下を遠ざかっていく足音も、やがて聞こえなくなった。
室内に、静けさが戻る。
エリシアは、何事もなかったように机の上の書類へ視線を落とした。
姿勢は正しい。
表情も、いつものように整えている。
ただ、顔色だけが少し悪かった。
机の下へ隠した手も、まだわずかに震えている。
レオンは、しばらく何も言わなかった。
手元の書類を確認し、署名を入れる。
次の一枚を取る。
だが、すぐには読まなかった。
「エリシア」
「はい」
「やっぱりお前、ああいう話が苦手なんじゃないのか」
エリシアの手が止まった。
「……ああいう話とは、何でしょうか」
「七不思議だ」
「苦手ではありません」
即答だった。
レオンが顔を上げる。
「最後、ノーラを追い返してただろ」
「あれは、業務に不要な情報を遮断しただけです」
「そうは見えなかったが」
「気のせいです」
「そうか」
「はい」
レオンはエリシアを見る。
エリシアも視線を逸らさない。
ただ、机の下の指だけが震えていた。
「この前は、クリスたちと白い影を確認しに行ったんだろう」
エリシアの表情が、わずかに固くなる。
「クリスから聞いた」
「……そうですか」
「どうして行ったんだ」
エリシアは、すぐには答えなかった。
机の上の書類へ視線を落とす。
「団長が行かれなかったからです」
「俺が?」
「はい」
エリシアは背筋を伸ばした。
「団長には、処理しなければならない仕事がありました」
「未完成区画の確認が必要なら、私が代わりに行くべきだと思いました」
今の自分は、補佐官としての職務を停止されている。
署名もできない。
正式な処理もできない。
それでも、自分にできることはあると思った。
少しでも、レオンの負担を減らしたかった。
エリシアは膝の上で、そっと指を握る。
「……本当は、苦手なんです」
レオンが少し目を見開いた。
「こういった話は」
「そうなのか」
「はい」
声が、少しだけ小さくなる。
「それでも、団長の代わりでしたから」
エリシアは一度だけ目を伏せた。
「ですから……頑張りました」
レオンは、しばらく何も言わなかった。
「そうか」
短く答える。
「ありがとう」
エリシアが顔を上げた。
「……いえ」
「俺の代わりに行ったんだろう」
「はい」
「なら、礼を言う」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「それに関してなのですが……」
「何だ」
「団長に、お伝えしておかなければならないことがあります」
エリシアは言いづらそうに口を閉じた。
その時、第二執務室の扉が開いた。
「失礼する」
入ってきたのは、クリスだった。
室内を見回し、レオンとエリシアを見る。
「ノーラがこっちに来てたらしいな」
「先ほどまでいました」
エリシアが答えた。
「そうか」
クリスは頷く。
そのまま近くの扉へ向かおうとしたところで、レオンが呼び止めた。
「クリス」
「何だ」
「この前、未完成区画へ行った時、エリシアも一緒だったんだな」
「ああ」
クリスは当然のように答えた。
「シエラとライ、それにエリシアもいた」
「エリシアは、どうだった」
「どうだったって?」
「白い影を見た時だ」
クリスはエリシアを見ただけで、何も答えなかった。
レオンはエリシアを見る。
「何があった?」
「……申し訳ありません」
エリシアは、膝の上で両手を握った。
「私は、未完成区画へ確認に行きました」
「それは聞いた」
「ですが、最後まで職務を果たせたとは言えません」
少し間が空いた。
「白い影を見たあと、気を失ってしまいました」
レオンが止まった。
「気を失った?」
「はい」
エリシアは顔を上げたまま続ける。
「本当は、幽霊や怪談のような話がとても苦手です」
「ノーラさんには、それを知られたくありませんでした」
「だから、嫌いではないと?」
「……はい」
クリスが眉を寄せる。
「別に、そこまで隠さなくてもいいだろ」
「隠します」
エリシアは即答した。
「補佐官が幽霊を怖がっているなど、皆に知られるわけにはいきません」
「そういうものか?」
「そういうものです」
「そうか」
クリスはそれ以上言わなかった。
エリシアはレオンを見る。
「以前から得意ではありませんでした」
「ですが、あの未完成区画へ行ってから、さらに苦手になってしまいました」
暗い廊下。
冷たい空気。
そして、廊下の奥を横切った白い影。
思い出しただけで、エリシアの顔から少し血の気が引いた。
「もう、夜に一人で庁舎内を歩くのが怖いんです」
声が震えていた。
エリシアは、もう涙ぐんでいた。
「どこから何が出てくるのか、考えてしまいます」
「昼間でも、誰もいない廊下は……少し怖いです」
それでも、エリシアは姿勢を崩さなかった。
「団長」
「何だ」
「できれば、夜間の警備を見直していただけないでしょうか」
エリシアは静かに頭を下げた。
「お願いします」
レオンは、すぐには答えなかった。
クリスが口を開く。
「俺からも頼む」
レオンがクリスを見る。
「エリシアは、本当に頑張ってた」
「怖がってたが、途中で帰ろうとはしなかった」
「お前の代わりに来たんだから、自分が確認しなきゃならないってな」
エリシアが小さくクリスを見る。
「クリス大隊長」
「これは言っておいた方がいい」
クリスは続ける。
「最後まで残った」
「最後には気を失ってたけどな」
「そこまで言わなくても結構です」
「でも、頑張ってたのは本当だ」
クリスは真面目な顔でレオンを見る。
「お前の代わりだからって、最後まで残った」
「それだけは分かってやってくれ」
レオンは、ゆっくり椅子から立ち上がった。
エリシアの前まで歩いていく。
そして、その頭へそっと手を置いた。
「団長?」
「すまなかった」
レオンは低い声で言った。
「気づかなかった」
「お前が、そこまで怖い思いをしていたとは思わなかった」
「いえ、私は自分の判断で――」
「俺の代わりに行ったんだろう」
「それでも、行くと決めたのは私です」
「だが、お前が代わりに行こうと思った原因は俺にある」
レオンは静かに手を離した。
「俺は、騎士団があれば庁舎の警備も足りると思ってた」
「この騎士団領で、騎士団の庁舎に勝手に入り込む奴なんて、そうはいないとも思ってた」
「だから、衛兵隊を解散させた」
警備のためだけに人を置いておく。
そのために人件費を払い続ける。
当時のレオンには、それがもったいなく思えた。
騎士がいるのだから、わざわざ別に衛兵まで置く必要はない。
そう判断した。
だが。
リリアの件。
白い影の件。
そして、今度は七不思議。
一つ一つは、まったく別の騒ぎだった。
だが、共通していることがある。
何かが起きた時。
すぐに現場を確認する者がいない。
夜間に誰が庁舎を歩いているのか。
どこで何が起きているのか。
それを確認する者さえいないから、正体の分からないものが、そのまま噂になる。
白い影が本当に何だったのかも、まだ分かっていない。
レオンはしばらく黙った。
「……やっぱり、俺の判断が間違ってたな」
エリシアが顔を上げる。
「衛兵隊を完全に解散させるべきじゃなかった」
「団長……」
「警備は必要だ」
レオンははっきりと言った。
「夜間の警備体制を作り直す」
エリシアの目が少し大きくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
レオンは迷わず頷いた。
「衛兵隊を戻すことも考える」
「少なくとも、今みたいに、何か起きるたびに誰かを探して確認に行かせるような状態はやめる」
エリシアの目に溜まっていた涙が、少しだけ大きくなった。
「団長……」
「もう、お前に一人で怖い思いをさせるつもりはない」
エリシアは深く頭を下げた。
「……お願いします」
声はまだ少し震えていた。
だが、先ほどまでとは違う。
どこか安心したような響きが混じっていた。
レオンは頷いた。
「任せろ」
少しの沈黙のあと、エリシアが顔を上げる。
「それと、一つお願いがあります」
「何だ」
「私が、幽霊や怪談を苦手にしていることは、皆には内緒にしていただけますか」
「分かった」
レオンは即答した。
「絶対に言わない」
エリシアは、次にクリスを見る。
「クリス大隊長もお願いします」
「俺も、今まで誰にも言ってないだろ」
「ライさんは知っています」
「あいつには口止めしてある」
「本当に守りますか?」
「守る」
「絶対です」
「ああ。絶対に言わない」
エリシアは、ようやく少しだけ安心したように息を吐いた。
レオンは自分の机へ戻った。
椅子へ座り、しばらく考える。
「そういえば、メリーが警備体制について何かまとめていたはずだ」
エリシアが顔を上げる。
「新しい警備体制の草案ですか?」
「ああ」
「まだ草案の段階だったと思います」
「それでいい」
レオンは答えた。
「まず、それを確認する」
誰が最初に現場へ向かうのか。
どこへ報告するのか。
誰が対応するのか。
今の副長府には、そこから足りていない。
「衛兵隊についても確認する」
レオンは言った。
「元々あった組織だ。戻せるなら戻した方が早い」
クリスが少しだけ眉を寄せる。
「……まあ、確認してからだな」
「何だ、その言い方は」
「いや。別に」
クリスはそれ以上言わなかった。
レオンはもう一度、エリシアを見る。
「とにかく、警備は見直す」
「はい」
「少し待ってくれ」
「分かりました」
エリシアは静かに頷いた。
先ほどまで涙ぐんでいた目元にも、少しだけ安堵が戻っていた。
白い影の正体は、まだ分からない。
七不思議の噂も消えてはいない。
それでも。
夜の副長府を、このままにはしない。
レオンがそう言ってくれた。
今のエリシアには、それで十分だった。




