第2章54話 補佐官と七不思議嫌い
――帝国暦三二二年・春初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第二執務室
第二執務室は、第一執務室に比べると静かだった。
人の出入りも少ない。
机の数も少ない。
置かれている書類も、第一執務室ほど山にはなっていない。
だが、エリシアにとって、その静けさはあまり心地よいものではなかった。
自分の机の上には、書類がある。
しかし、その多くは確認だけで止まっている。
署名できない。
補佐官としての印を押せない。
正式な処理に進められない。
リディアとメリーの処分は、すでに解除されていた。
それは、よかったと思っている。
本当に、よかったと思っている。
だが、自分はまだだった。
補佐官として戻りきっていない。
それだけのことだ。
そう理解している。
理解しているのに、胸の奥に小さな重さが残っていた。
エリシアは、手元の書類に視線を落とす。
処理できるものは処理した。
整理できるものは整理した。
それでも、最後のところで止まる。
その先は、レオンハルト・ヴァイスの机へ回すしかない。
エリシアは顔を上げた。
少し離れた机で、レオンが黙々と書類に向かっている。
今も一枚、署名を入れた。
次の一枚を取る。
また確認する。
また署名する。
その中には、本来ならエリシアが処理を補助できたはずの書類も混じっている。
自分が動けない分、レオンに仕事をさせている。
その事実が、静かに刺さった。
「……」
エリシアは何も言わなかった。
レオンも何も言わない。
ただ、書類の音だけが続いている。
励まされたいわけではない。
慰められたいわけでもない。
ただ、役に立てない時間が、思ったよりもこたえていた。
その時、第二執務室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、ノーラだった。
ノーラは室内を見回した。
「エリシアさん。クリス大隊長はこちらにいらしていませんか?」
「いません」
「そうですよね」
答えは妙に早かった。
しかも、あまり残念そうではない。
エリシアは少し眉を寄せた。
「何かご用件ですか?」
「いえ。クリス大隊長のことはいいんです」
「いいのですか」
「はい。どうせこちらにはいないと思っていましたので」
「では、なぜ来たのですか」
ノーラは少しだけ笑った。
「実は、エリシアさんと一度お話ししてみたかったんです」
「私と?」
「はい」
その目が、妙にきらきらしていた。
エリシアは嫌な予感がした。
「今は職務中です」
「少しだけですから」
「……何の話ですか」
ノーラの表情がさらに明るくなる。
「エリシアさん、こういう話がお好きなんですよね?」
「こういう話?」
「幽霊とか、心霊現象とか、不思議な話です」
エリシアの手が止まった。
「……なぜ、そう思うのですか」
「この前、クリス大隊長たちと白い影を確認しに行かれたのでしょう?」
エリシアの指先が、ぴくりと動いた。
「……あれは職務です」
「そうだったのですね」
ノーラは素直に頷いた。
だが、親近感に満ちた目はまったく変わらない。
「でも、実際に見に行かれたと聞いて、私と同じなのかなと思っていたんです」
「同じ?」
「私、こういう話が大好きなんです」
ノーラは楽しそうに笑った。
「ですから、エリシアさんもお好きなら、一度お話ししてみたいなと思っていて」
「……」
エリシアは返答に詰まった。
違う。
それは全然違う。
あの時は仕事だった。
団長の代わりに確認が必要だったから行っただけだ。
好きだから行ったわけではない。
むしろ。
暗い建築中の区画。
冷たい空気。
白い影。
そして、その後のこと。
思い出しただけで、指先がわずかに震えた。
エリシアは静かに手を引き、机の下へ隠した。
ノーラは知らない。
自分があの時、どれほど怖がったのか。
その後、どうなったのか。
クリスは誰にも言わないと言った。
どうやら、その約束は守られているらしい。
それは非常にいい。
だから、ここでわざわざ自分から説明する必要などない。
「……嫌いではありません」
結局、エリシアはそう答えた。
「やっぱり!」
ノーラの顔がぱっと明るくなった。
エリシアはすぐに後悔した。
「ちょうどよかったです。今、副長府の七不思議が話題なんですよ」
全然ちょうどよくない。
エリシアは心の中で即座に否定した。
「……七不思議」
「はい。できて間もない庁舎なのに、もう七つもあるんです」
ノーラは明らかにわくわくしていた。
「すごくないですか?」
「そうでしょうか」
「すごいですよ。楽しい職場ですよね」
「その基準で職場を評価しないでください」
「一つ目は、エリシアさんもご存じの白い幽霊です」
エリシアの背筋が、ぴたりと固まった。
「……それは知っています」
「そうでした。エリシアさんも実際に確認されていますものね」
「職務です」
机の下で、指先がまた震えた。
「白い影は、足音もなく曲がり角の奥へ消えたそうです」
「見間違いです」
「クリス大隊長とライ書記官も見たそうですが」
「見間違いです」
「三人とも同じものを見たというのが、また面白いですよね」
「面白くありません」
「そうですか?」
「はい」
ノーラは少し不思議そうだった。
「私は、こういう話を聞くとすごくわくわくします」
「……そうですか」
「はい」
エリシアにはまったく理解できなかった。
「二つ目は、使われていない奥の部屋から聞こえる声です」
「声」
「まだ正式には使われていない部屋なのに、夜になると低い話し声が聞こえるそうです」
「誰かが近くを通ったのでしょう」
「それだけではなくて、時々、叫び声のようなものまで聞こえるとか」
机の下で、エリシアの手に力が入った。
「……建物は音が響きます」
「反響ですか?」
「そうです」
「誰もいない部屋から聞こえても?」
「反響です」
きっぱりと言った。
「なるほど」
ノーラは楽しそうに頷く。
「原因を考えるのも面白いですね」
「そうでしょうか」
「はい」
「……そうですか」
「三つ目は、まだ屋上として使える場所がないのに、上の方から声が聞こえる話です」
「屋上がないなら、屋上から聞こえるはずがありません」
「はい。ですから不思議なんです」
ノーラは少し身を乗り出した。
「夜中に、上の方から大きな声がするそうです」
「誰かが外で話していたのでしょう」
「でも、聞いた人は上から聞こえたと言っているそうで」
「人間の感覚は曖昧です」
「しかも、声もはっきりした言葉ではなくて、叫び声のような、嘆き声のような――」
「やめてください」
エリシアは思わず言った。
ノーラが止まる。
エリシアはすぐに姿勢を正した。
「……いえ。そういう曖昧な表現では、情報としてあまり役に立ちません」
「なるほど」
「具体的な内容だけにしてください」
「では、具体的には『あああ』というような――」
「再現しなくて結構です」
「分かりました」
ノーラは素直に頷いた。
少しも怖がっていない。
むしろ楽しんでいる。
エリシアには理解できなかった。
「四つ目は、夜中の食堂です」
「食堂」
「閉まっているはずなのに、食器の音がするそうです」
「鼠でしょう」
「鼠にしては、皿を動かす音がはっきりしているとか」
「では、誰かが片付けをしているのでしょう」
「夜中にですか?」
「……熱心な職員です」
ノーラは少し笑った。
「やっぱり副長府って、思っていたより楽しい職場ですよね」
「その基準で職場を評価しないでください」
「七不思議がある職場なんて、なかなかありませんよ」
「なくていいです」
「今度、一緒に探検に行きませんか?」
「行きません」
即答だった。
ノーラが目を瞬く。
「白い影の時は行かれたのに」
「あれは職務です」
「では、何か確認する必要が出たら」
「出ません」
「まだ分かりませんよ」
「出ません」
エリシアは強く言った。
ノーラは少し残念そうだったが、すぐに笑顔へ戻った。
「では、五つ目です」
「……まだあるのですね」
「七不思議ですから」
「そうでしたね」
「五つ目は、夜中のシャワー室です」
「シャワー室」
「誰も使っていないはずの時間に、水音がするそうです」
「水道の不具合でしょう」
「それだけなら、そうかもしれません」
「そうです」
「でも、水音の後に、低い息遣いのような音も聞こえるそうなんです」
「聞き間違いです」
「さらに、壁に誰かが手をついたような音がして――」
「聞き間違いです」
「最後に、深いため息が聞こえるそうです」
「……」
エリシアは黙った。
机の下では、両手が震えていた。
もう、指先だけではない。
自分でも分かるほど、はっきりと震えている。
怖くない。
怖くない。
少なくとも、そう見られるわけにはいかない。
「エリシアさん?」
「ノーラさん」
「はい」
「私も、少し忙しいので」
エリシアはできるだけ平静な声で言った。
「今日は、もう帰ってください」
ノーラが目を瞬いた。
「え」
「仕事がありますので」
ノーラはエリシアの机を見る。
書類はある。
だが、エリシアが正式に処理できるものは多くない。
それでもノーラは何も言わなかった。
「でも、ここからが面白いんですけど」
「帰ってください」
「あと二つありますよ?」
「またにしてください」
「……分かりました」
ノーラは少し残念そうに肩を落とした。
それでも、すぐに笑顔へ戻る。
「では、また今度お話ししましょうね」
「……」
「六つ目と七つ目は、かなり面白いんですよ」
「言わなくて結構です」
「はい」
ノーラは楽しそうに一礼した。
「では、失礼します」
扉が閉まった。
第二執務室に、静けさが戻った。
「……」
エリシアは動かなかった。
しばらくして、机の下から両手を出す。
まだ震えていた。
エリシアは両手を重ね、ぎゅっと握った。
震えを止めようとする。
止まらない。
「……」
何事もなかったように、書類へ視線を戻した。
その時。
「エリシア」
レオンが書類から目を離さずに言った。
「はい」
「今のは、何だったんだ」
エリシアは少し黙った。
「……七不思議だそうです」
「聞こえてた」
「では、なぜ聞いたのですか」
「なんで途中からお前の返事が全部否定になったのかと思ってな」
「事実ではないからです」
「そうか」
「はい」
レオンは、それ以上追及しなかった。
エリシアは少し迷ってから口を開く。
「団長」
「何だ」
「今のことは、誰にも言わないでください」
レオンの手が止まった。
「今のこと?」
「……私が、こういった話を怖がっているように見えたことです」
「怖かったのか」
「いえ、怖くありません」
即答した。
レオンがエリシアを見る。
エリシアは背筋を伸ばしたまま座っている。
机の上に出した両手だけが、まだ少し震えていた。
「手が震えてるぞ」
エリシアは即座に両手を机の下へ隠した。
「震えていません」
「今、隠しただろ」
「震えていません」
「そうか」
「はい」
しばらく沈黙したあと、レオンは書類へ視線を戻した。
「分かった。言わない」
「……ありがとうございます」
エリシアは小さく頭を下げた。
それでいい。
クリスも、あの時のことを誰にも言わなかった。
レオンも言わない。
なら、まだ大丈夫だ。
自分が幽霊や怪談を怖がっていることなど。
誰にも知られる必要はない。
エリシアは再び書類へ目を落とした。
手の震えは、まだ少し残っていた。
一方。
第二執務室を出たノーラは、少し残念そうに廊下を歩いていた。
「あと二つだったのに……」
今日は仕事中だった。
仕方がない。
だが、エリシアは白い影を自分で確認しに行っている。
こういう話も嫌いではないと言っていた。
原因についても、一つ一つ真面目に考えてくれた。
やはり、話の合う相手なのかもしれない。
ノーラの表情が少し明るくなる。
「また今度にしましょう」
六つ目と七つ目。
それに、もし新しい話が増えたら、それも。
次はもう少し時間のある時に話せばいい。
そう考えながら、ノーラは楽しそうに廊下を歩いていった。




