第2章52話 副長を支える係
――帝国暦三二二年・春初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
仕事を減らすために、新しい役職か仕組みを作る。
前日、クリスが口にしたその案は、思ったより早く第一執務室へ持ち込まれることになった。
レオンとしても、もう限界が近い自覚はある。
二ヶ月近く屋敷へ帰らず、副長府の仮眠室と第一執務室を生活圏にし、ようやく実家へ戻ったと思えば、自室が物置になっていた。
これ以上、何もしないわけにはいかない。
だから、まずは第一執務室で話だけでもしてみることにした。
昨日の話をしたクリスも、その様子を見るために第一執務室へ立ち寄っていた。
そして、扉を開けたところで足を止めた。
リリアのそばに、フィアナとココがいた。
少しブラウンの混じった長い金髪が、リリアの背中へ柔らかく流れている。
フィアナはリリアの片腕へ自分の腕を絡め、肩を寄せていた。
もう片方では、ココがリリアの背中へ抱きつき、長い髪へ頬を寄せている。
リリアは二人に挟まれたまま、手元の紙を読んでいた。
「フィアナさん、少しくすぐったいです」
「すみません。もう少しだけお願いします」
フィアナはそう言いながら、リリアの手へ自分の指を重ねた。
「ココさんも、少し苦しいのですが」
「あと少しだけ補給させてください」
「補給ですか?」
「はい」
ココは迷いなく答えた。
「姫様補給です」
「そうなのですね」
リリアはよく分からないまま、柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見て、フィアナとココはさらにリリアへくっついた。
クリスはしばらくその光景を眺めた。
「ほら」
クリスがレオンへ言った。
「ああいう係もあるんだぞ」
レオンが書類から顔を上げる。
「ああいう係?」
「疲れた時に、誰かにくっついて補給する係だ」
「補給係か」
「ああ」
レオンも、リリアに抱きついているフィアナとココを見る。
疲れた時に、誰かがそばにいる。
抱きつく必要があるかは分からないが、気が休まる可能性はある。
そういうものも、あっていいのかもしれない。
レオンはそう思いながら、イリスを見た。
イリスは睨んでいた。
明らかに機嫌が悪い。
レオンはすぐに視線を戻した。
「……クリス」
「何だ?」
「これは駄目だ、絶対駄目だ」
「まだ何も決めてないぞ」
「決める前に分かる」
クリスもイリスを見る。
イリスの視線は冷たかった。
だが、クリスはそこで余計なことを言った。
「俺だったら、ああいう役目は女性陣に任せたいけどな」
今度は、イリスの視線がクリスへ向いた。
それだけではない。
メリーも、静かにクリスを見ていた。
二人とも何も言わない。
だが、怖かった。
「……冗談だ」
クリスが小さく言った。
「そうですか」
イリスが静かに答えた。
「お二人も、補給されたいのですか?」
イリスはレオンとクリスを順番に見る。
「でしたら、私が補給させてあげますよ」
レオンは黙った。
クリスも黙った。
イリスの視線が、特にクリスへ強く向けられる。
「クリス大隊長はいかがですか?」
「いや、大丈夫です」
クリスの口調が急に丁寧になった。
「遠慮なさらなくてもいいのですよ」
「本当に大丈夫です」
「そうですか」
「はい」
メリーも穏やかな笑顔を浮かべている。
「私もお手伝いできますよ」
「必要ありません」
クリスは即座に答えた。
イリスとメリーの二人に補給されれば、何を補給されるのか分からない。
少なくとも、休息ではない気がした。
レオンが小さく息を吐く。
「だから駄目だと言った」
「……まあ、そうだな」
副長補給係という案は、詳しく話し合う前から危険なものになった。
リリアはフィアナとココに抱きつかれたまま、不思議そうに首を傾げている。
「皆さんは、補給されなくてもよいのですか?」
「必要ない」
レオンとクリスの声が重なった。
しばらくして、フィアナとココもようやくリリアから離れた。
クリスが咳払いをする。
「まあ、補給は置いておくとして」
「最初から置いておけ」
「お前を支える奴が必要なのは本当だろ」
レオンが眉を寄せた。
「俺を支える?」
「ああ」
「昨日も言っただろ」
「全部自分でやろうとするな」
「任せられるところは他人に任せろ」
「最後の責任だけ、お前が持てばいい」
レオンは黙った。
昨日から何度も考えている言葉だった。
「だから」
クリスは続ける。
「お前が抱え込まないように、周りから支える係があればいい」
「具体的には何をする」
「それを今から考えるんだろ」
「考えていなかったのか」
「俺が全部考えたら、また俺の仕事になるだろ」
「言い出したのはお前だ」
「きっかけを作っただけだ」
クリスは平然と答えた。
レオンは少し嫌そうな顔をした。
「お前は本当に人へ任せるな」
「昨日、お前に褒められたばかりだからな」
「褒めてはいない」
「謝っただろ」
「そこは別だ」
イリスが机の上の紙を整えながら口を開く。
「仕事面で支えるのであれば、考え方自体は悪くありません」
「そうだろ」
クリスが頷いた。
「副長まで上げる必要のないものを先に処理する」
「誰かへ任せられるものは任せる」
「副長自身が必要以上に仕事を引き受けようとした場合は――」
「待て」
レオンが止めた。
「最後は何だ」
「止めます」
「俺を?」
「はい」
「支える係ではなかったのか」
「支えるためです」
「監視に聞こえる」
「気のせいです」
クリスが笑った。
「そこまでやってもらえ」
「お前は他人事だと思っているな」
「他人だからな」
「友人ではなかったのか」
「友人だから言ってるんだよ」
レオンは納得していない顔だった。
「でも、仕事だけじゃ足りないだろ」
クリスが続けた。
「何がだ」
「お前自身だ」
「俺?」
「仕事が減っても、食わない、寝ない、帰らないじゃ意味ないだろ」
「食べている」
「いつ」
「……昨日」
「今日は?」
レオンは黙った。
「ほら」
「後で食べる」
「休憩は?」
「必要なら取る」
「睡眠は?」
「仮眠した」
「帰宅は?」
「……」
「全部駄目じゃねぇか」
リリアも心配そうにレオンを見る。
「お兄様、最近またあまりお帰りになっていませんよね」
「仕事がある」
「その仕事を減らす話をしているんだろ」
クリスは呆れた。
「なら、仕事だけじゃなくて、帰った後まで支える奴が必要なんじゃないか?」
レオンがクリスを見る。
「帰った後?」
「ああ」
「温かい食事を用意しておく」
「食事」
「風呂も整えておく」
「風呂」
「部屋を暖かくしておく」
「部屋」
「それで、今日は大変だったな、と優しい言葉をかける」
第一執務室が止まった。
レオンはクリスを見る。
「それは何の係だ」
クリスも止まった。
少し考える。
そして真顔で言った。
「……妻だな」
マリニーファが椅子から半分立ち上がった。
「つ、妻ですか!?」
メリーも頬を赤くして、手元の紙を見つめる。
フィアナは咳払いをした。
リリアは不思議そうに首を傾げている。
イリスは静かに目を閉じた。
「クリス」
レオンは低い声で言った。
「何だ」
「仕事を減らす話はどこへ行った」
「途中まではあった」
「途中で捨てるな」
「だが、帰ってきた時に食事と風呂と労いの言葉があるなら、お前は休めるだろう」
「それを係にするな」
マリニーファが勢いよく手を上げた。
「では、私がやります!」
全員の視線がマリニーファへ向いた。
マリニーファは真剣だった。
「レオン様がお戻りになった時に、お食事を用意して、お風呂を整えて、今日は大変でしたねとお迎えするのですよね」
「違う」
レオンは即座に言った。
「今のは却下する方向の話だ」
「ですが、必要なのですよね」
「必要かもしれないが、係ではない」
クリスがマリニーファを見る。
「お前、家事はできるのか」
「できます」
「食事は」
「……努力します」
「風呂は」
「……覚えます」
「部屋の整理は」
「……これからです」
「何もできてねぇじゃねぇか」
「うるさいですね」
マリニーファは、むっとした顔でクリスを見る。
「最初から完璧な者などいません」
「これから覚えればいいのです」
「レオンの仕事を減らす係が、レオンに教わることになりそうだな」
「それは困る」
レオンが即座に言った。
マリニーファが少し傷ついた顔をする。
「レオン様」
「いや、気持ちはありがたい」
「では」
「だが、俺の仕事を減らすために、お前の教育まで増えるのは違う」
「……それは、そうかもしれません」
マリニーファは悔しそうに手を下ろした。
すると、リリアがそっと手を上げる。
「では、私がお兄様のお世話をします」
クリスがすぐに振り向いた。
「待て。お前は妹だろ」
「はい。妹です」
「妹が妻の役をするな」
「妻の役ではありません」
「お兄様のお世話です」
「言い直しても危ない」
「危ないのですか?」
「危ない」
「なぜでしょう」
「俺に聞くな」
クリスは珍しく困った顔をした。
「でも、お兄様がお疲れなのでしたら、お食事を用意したり、お茶を淹れたりすることはできますよ」
「気持ちはありがたい」
レオンが答える。
「だが、リリアまで仕事を増やす必要はない」
「仕事ではありませんよ」
「そうなのか」
「はい。妹ですから」
レオンは少し考えた。
「それならいいのか」
「よくない」
クリスが即座に言った。
「なぜお前が止める」
「何となくだ」
「理由になっていない」
マリニーファがもう一度手を上げた。
「でしたら、妻の役ではなく、レオン様支援係ということで」
「広げるな」
レオンが止める。
「名前を変えただけだろ」
「仕事内容も変えれば問題ありません」
「何をする」
「レオン様のお食事、お風呂、お部屋、それから――」
「何も変わっていない」
第一執務室に、小さく笑いが起きた。
その時。
イリスが机の上へ紙を置いた。
「もう結構です」
声は静かだった。
全員が黙る。
「妻は係ではありません」
「はい」
クリスが素直に答えた。
「生活全般を担当する係も作りません」
マリニーファが残念そうな顔をした。
「リリアさんも、通常の範囲でお兄様を気遣うだけにしてください」
「分かりました」
リリアは素直に頷いた。
イリスは最後にレオンを見る。
「副長を支える係については、私の方で考えておきます」
レオンが眉を上げる。
「イリス、君が?」
「はい」
「何をする係にするつもりだ」
「副長を支える係です」
「それは名前だ」
「目的でもあります」
「具体的には?」
イリスは少し考えた。
「副長が必要以上に仕事を抱え込まずに済むよう、必要な時に必要な者が支える形にします」
「曖昧だな」
「今ここで細かく決めれば、副長がすべて確認し始めるでしょう」
レオンは黙った。
クリスが吹き出した。
「否定できないのか」
「確認は必要だ」
「ほらな」
イリスも小さく息を吐いた。
「ですので、こちらで考えます」
「勝手に決めるのか」
「昨日、他人へ任せることも考えるとおっしゃったのでしょう?」
レオンがクリスを見る。
「話したのか」
「いや、今のお前を見れば分かるだろ」
「そうか」
レオンは少し迷った。
任せる。
だが、責任は自分が持つ。
昨日のクリスの言葉が、また頭に浮かぶ。
「……分かった」
「よろしいのですか?」
「任せる」
イリスが頷いた。
「承知しました」
クリスは安心したように息を吐いた。
「まあ、イリス殿下がやるなら大丈夫だろ」
「なぜお前が安心する」
「お前一人で考えるより安心だからだ」
「失礼だな」
「自分を休ませる話をしてたのに、妻を係にしようとした奴が言うな」
「言い出したのはお前だ」
「そうだったか?」
「そうだ」
「忘れた」
「都合よく忘れるな」
クリスは笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、俺は戻るぞ」
「ああ」
「今度こそ、まともな係にしてもらえ」
「お前が言うな」
クリスは肩をすくめ、そのまま第一執務室を出ていった。
レオンは机の上の書類へ視線を戻した。
副長を支える係。
何をするのか。
誰がやるのか。
何人いるのか。
レオンには、まだよく分からなかった。
ただ、イリスに任せた。
任せると言った以上、今すぐ全部確認するのも違う気がする。
レオンは気になったが、それ以上は聞かなかった。
少なくとも、その時は。
■数日後・総騎士団副長府庁舎・廊下
数日後。
レオンは書類を抱えて廊下を歩いていた。
仕事は、まだ多かった。
副長を支える係ができたらしいが、劇的に書類が消えたわけではない。
当然だった。
何をしている係なのか、レオン自身がよく分かっていないのだから。
昨夜も遅くまで仕事をしていた。
睡眠も十分とは言えない。
曲がり角を抜けたところで、レオンの視界がわずかに揺れた。
「……」
足元がふらつく。
身体が横へ傾いた。
その瞬間。
「副長閣下」
すぐ横から腕が伸びた。
護衛についていた騎士が、レオンの身体を支える。
肩と腕をしっかり押さえられ、倒れる前に体勢が戻った。
レオンは何度か瞬きをした。
「……すまない」
「いえ」
「助かった」
「当然のことです」
騎士は真面目な顔で答えた。
レオンは抱えていた書類を持ち直す。
「護衛だからか」
「いえ」
「違うのか」
「はい」
騎士は胸を張った。
「私は、副長を支える係ですので」
レオンの動きが止まった。
「……何?」
「副長を支える係です」
レオンは、自分の身体を支えている騎士を見る。
騎士は真剣だった。
冗談を言っている顔ではない。
「……」
レオンはしばらく黙った。
そして。
「支えるって、これかよ」
思わず声に出た。
どうやら。
仕事を支える係ではなかったらしい。




