第2章48話 第四大隊長は噂を止められませんでした
――帝国暦三二一年・冬終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 ロングの街――
■ロングの街・騎士団軍区へ続く道
ロングは、東ロンバルディア騎士団の軍区中央部に最も近い街だった。
騎士団軍区を半ば取り囲むように市街地が広がり、商店街や飲食店を中心に発展している。
軍区内にも、日用品を扱う店や食事のできる場所はいくつかある。
だが、数も品揃えも限られており、必要なものを十分に揃えられるほどではない。
そのため、軍区で働く騎士や書記官、そのほかの職員たちの多くは、買い物や食事のためにロングへ出る。
ロングには騎士団で働く者も多く暮らしており、騎士団のお膝元として、軍区と共に大きくなってきた街でもあった。
クリス・ラングレーは、シエラと並んでロングの街を歩いていた。
オリオン社本社を出て、騎士団軍区へ戻る途中である。
上級調査員。
情報開示範囲の拡大。
報酬増加。
そこまでは、まだ分かる。
だが、なぜそこから次期社長候補と婿候補の話になったのか。
まったく分からない。
しかも結局、上級調査員になれたのかどうかも分からない。
正式な承認を受けた覚えはない。
書類も見ていない。
証明になるものも受け取っていない。
父親と母親と兄が、勝手に別の話を進めていただけである。
何をしに行ったのか。
クリスは、そこからもう分からなくなっていた。
「……今のうちに謝っておきます」
隣で、シエラが静かに言った。
クリスは横を見る。
シエラは、いつもより少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。
その言い方に、嫌な予感がした。
「何をだ」
「先ほどは、変なことになってしまって、すみませんでした」
「その件なら、もういい」
クリスは息を吐いた。
「誤解なんだろ。本人たちに違うと言えば、すぐに解ける」
「難しいと思います」
「何でだ。違うものは違うだろ」
「済まないと思います」
「済むだろ」
「済まないと思います」
シエラは同じ調子で言った。
クリスは眉を寄せる。
「それに、今謝ったのは、その件だけではありません」
「まだ何かあるのか」
「はい」
シエラは肩にかけていた資料鞄を下ろした。
鞄を開き、中から封をされた一通の書状を取り出す。
「上級調査員への推薦書状です」
「それがどうした」
「こちらへ来る前に、提出しておくはずでした」
「……まさか」
「提出するのを忘れていました」
「……ああ」
クリスは、ようやく理解した。
だから、シエラの父親は上級調査員の話を何も知らなかったのだ。
今日の面談が、最初から最後まで別の話だった理由も分かった。
「じゃあ、上級調査員の手続きは」
「まだ、何も始まっていません」
「……」
クリスは額を押さえた。
「俺は、一体何のためにここまで来たんだ」
シエラは少しだけ考えた。
「私の家族に会うためでしょうか?」
「それが一番駄目だったんだよ」
「すみません」
シエラは素直に謝った。
クリスは深く息を吐く。
「推薦書状は、これから提出するんだろうな」
「はい」
「今度は忘れるなよ」
「気をつけます」
「絶対に忘れるな」
「努力します」
「そこは断言しろ」
クリスは、もう一度額を押さえた。
「それから、先ほど何も否定しないでくださいと言った理由も説明します」
「どういうことだ」
「その前に、クリスさんはオリオン社について、どれくらい知っていますか」
「情報を扱う会社だろ」
クリスはすぐに答えた。
「情報を集めて、売っている。商人や貴族や、騎士団関係者にも情報を流している」
シエラは、少しだけ黙った。
「……まさか、そこまでしかご存じなかったのですか」
「何だ、その反応」
「知っているものだと思っていました」
「何をだ」
「オリオン社が、どのように利益を得ているのかです」
クリスは嫌な予感を覚えた。
「情報を売ってるんじゃないのか」
「情報を売ることもあります」
「なら、合ってるだろ」
「一部は合っています」
「一部?」
「オリオン社は、正しい情報を早く手に入れ、それを利用して、さまざまな商売を行う会社です」
「商売?」
「はい」
シエラは静かに頷いた。
「オリオン社には、子会社がいくつかあります」
「子会社?」
「集めた正確な情報を、それぞれの会社へ提供するためです」
「何に使うんだ」
「情報をもとに品物を売買したり、新しい商売を始めたりもします」
「情報を使って、子会社を動かしてるのか」
「はい」
「だから、子会社が多いのか」
「そうです」
シエラは淡々と説明を続ける。
「どの地域で何が不足しているのか。どの商品が値上がりするのか。どの品物が余り始めているのか。どこで新しい需要が生まれるのか」
「そういう情報を先に手に入れるのか」
「はい。正しい情報を他社より早く手に入れれば、先に動けます」
「値上がりする前に買って、上がった後で売るとかか」
「そのようなこともします」
「相場で儲けてるのか」
「かなり」
「情報屋というより、商会じゃないか」
「商会でもあります」
「聞いてないぞ」
「知っていると思っていました」
「知らない」
「すみません」
シエラは素直に謝った。
だが、問題は謝罪ではない。
クリスは、ゆっくりと額を押さえた。
「つまり、情報を売るだけじゃなくて、手に入れた情報を使って、自分たちでも商売をしているんだな」
「はい」
「それで、子会社がいくつかある」
「はい」
「分かった」
クリスは頷いた。
「それと、さっきの話に何の関係がある」
「オリオン社が得意としていることの一つに、情報戦や諜報戦があります」
「情報戦?」
「はい。噂や偽情報を流して人々の認識を誘導したり、交渉や外交で相手の判断を動かしたり、特定の主義主張を広めたりします」
「外交にも使うのか」
「はい。必要であれば、内偵で得た情報を利用することもあります」
「それを商売にも使うのか」
「使います。情報を流して相場を動かし、その値動きから利益を得ることもあります」
クリスは黙った。
聞きたくない話だった。
それも、できれば聞きたくなかった。
「どのくらい得意なんだ」
「自分の家を褒めるようで、あまり言いたくはありませんが」
シエラはいつもと変わらない声で言った。
「情報戦に関しては、帝国でも一、二を争うくらいだと思います」
「十分褒めてるだろ」
「事実です」
「お前も、その情報戦のプロなのか」
「私は、調査と分析が専門です」
「情報を扱ってることには変わらないだろ」
「情報戦で兄に勝てるとは思っていません」
「そこまで違うのか」
「兄は、そちらに特化していますので」
クリスは少し黙った。
先ほどまで、目の前にいたエリオの顔を思い出す。
会社を譲ると言いながら、満足そうに自分たちを眺めていた男である。
「それで、俺に否定するなと言ったのか」
「はい」
シエラは静かに頷いた。
「あの場でクリスさんが婚約を強く否定し続ければ、その部分だけが外へ伝わる可能性がありました」
「その部分?」
「クリスさんが、騎士に二言はないと誓った直後に、私との婚約を否定したという部分です」
クリスは黙った。
「実際には、上級調査員の話だと誤解していただけです」
「ですが、その事情まで正しく伝わるとは限りません」
「騎士に二言はないと言った直後に、自分の言葉を覆した。その部分だけが広まれば、クリスさんは誓いを軽く扱った騎士だと思われます」
「……」
「そうなれば、クリスさんの騎士としての信用が失墜します」
「だから、あの場では否定するなと言ったのか」
「はい」
「俺のことを心配してたのか」
「心配しました」
シエラは迷わず答えた。
「誤解のために、クリスさんの騎士としての信用を失わせるわけにはいきません」
「……そうか」
クリスは短く答えた。
自分で口にした誓いである。
あの場で否定できなかったことも、自分の責任だった。
だが、その間、シエラもクリスの信用を守ろうとしていたらしい。
「それで、もう広がってるのか?」
「分かりません」
「分からない?」
「父や母や兄が、すでに誰かへ伝えているかもしれません。まだ何もしていない可能性もあります」
「じゃあ、まだ間に合うかもしれないだろ」
「すでに広がり始めているかもしれません」
「どっちなんだ」
「分かりません」
クリスは眉を寄せた。
「なら、今から戻って聞けばいい」
「おすすめしません」
「何でだ」
「クリスさんが慌てて確認へ戻った、という情報が増えます」
「そんなことまで使うのか」
「使える情報であれば」
「じゃあ、戻らない」
「その方がいいと思います」
「俺が本人だと名乗って、違うと説明すれば終わるだろ」
「婚約を必死に否定している、と受け取られる可能性があります」
「必死には否定しない」
「冷静に婚約を否定した、と広がるかもしれません」
「言い方の問題じゃないのか」
「否定したという事実は残ります」
クリスは少し黙った。
「なら、何も言わなければいいのか」
「今は、それが一番安全です」
「黙ってたら、認めたことにされるだろ」
「婚約については、その可能性があります」
「どっちにしても駄目じゃないか」
「騎士としての信用を失うよりはましです」
「……」
クリスは何も言えなくなった。
婚約の噂を否定しようとすれば、騎士としての信用が危うくなる。
黙っていれば、婚約を認めたことにされるかもしれない。
どちらを選んでも、クリスにとって都合のよい結果にはならない。
「情報っていうのは、そこまで面倒なものなのか」
「扱い方によっては、人の立場も信用も失わせます」
「嫌なものだな」
「正しく使えば、役にも立ちます」
「今の話を聞いた後では、信じられない」
シエラは何も言わなかった。
クリスは額を押さえた。
しばらく考えてから、シエラを見る。
「もしかして、お前が記録を取るのが好きなのも、そういうことなのか」
「それもあります」
「それも?」
「情報は、私たちにとって命だと、昔から父に教えられてきました」
シエラは静かに答える。
「何が起きたのか。誰が何を言ったのか。どの情報が正しく、どの情報が間違っていたのか。記録がなければ、後から確かめることができません」
「だから、何でも記録してまとめてるのか」
「はい。昔からの習慣です」
クリスは、しばらくシエラを見た。
「……悪かった」
「何がですか」
「お前は、ただ記録を取るのが好きな、変な女だと思ってた」
シエラが、わずかに眉を寄せた。
「それは謝罪ですか」
「謝ってる」
「変な女という部分を訂正してください」
「そういう事情があったとは知らなかった」
「訂正になっていません」
シエラは少しだけ不満そうに言った。
クリスは小さく息を吐く。
「それで、どの程度まで広がってると思う」
「ですから、分かりません」
「本当に何も分からないのか?」
「会社が契約している協力者を、私はすべて把握していません」
「お前はオリオン社の人間だろ」
「それでも、全員の協力者を知ることはできません」
「じゃあ、誰を止めればいいのかも分からないのか」
「分かりません」
「手の打ちようがないな」
「はい」
シエラは静かに頷いた。
「商人、帳場、書記、馬車の御者、出入りの職人。情報が伝わる道はいくつもあります」
「そんなにいるのか」
「父や母や兄が、個人的に契約している協力者もいます」
「それも、お前は知らない」
「はい」
「兄は、特に情報戦が得意なんだよな」
「はい」
「帝国で一、二を争う会社の中でもか」
「そちらに関しては、私より上です」
クリスは目を閉じた。
嫌な話が、さらに嫌な形でつながった。
「仮に、明日から違うと言って回ったらどうなる」
「おすすめしません」
「また否定したことを使われるからか」
「それもあります」
「ほかにもあるのか」
「父や母や兄が怒った場合、別の噂を広める可能性があります」
「別の噂?」
「私が傷物にされた、とか」
「待て」
「クリスさんは浮気性だ、とか」
「待て」
「クリスさんは年下好きだ、とか」
「待てと言ってる」
「借金まみれのひどい男だ、とか」
「全部悪化してるだろ」
「はい」
「何でそんな噂を流すんだ」
「まずないとは思います」
シエラは静かに答えた。
「ですが、クリスさんの行動で父や母や兄を怒らせた場合、報復として何かしらの情報を使われる可能性はあります」
「報復かよ」
「可能性の話です」
「情報戦が得意な家族、怖すぎるだろ」
「否定はしません」
「というか、婚約の方が嘘だろ」
シエラは、少しだけ首を傾げた。
「もう、決まってしまっています」
「決まってない」
「噂としては、決まってしまっている可能性があります」
「可能性に戻ったな」
「どこまで広がったか分かりませんので」
「そこだけ正確だな」
「情報を扱う者ですから」
シエラは静かにクリスを見る。
「クリスさんは、情報戦の経験はありますか」
「ない」
「では、諦めた方がいいです」
「早いな」
「相手は情報戦の専門家です」
「お前も情報のプロなんだろ」
「ですから、私は調査と分析です。情報戦は兄の専門です」
「だから最悪なんだよ」
クリスは頭を抱えた。
まずい。
どう考えてもまずい。
明日から第一執務室へ行けない。
第四大隊長室でも、マルクとノーラに何を言われるか分からない。
廊下を歩くだけでも、誰かに見られる。
副長府の中で、噂は勝手に走る。
しかも、今回その噂を広げる可能性があるのは、オリオン社の人間である。
正しい情報を手に入れ、それを利用して多くの商売を行っている会社である。
その中でも、情報戦に関しては、帝国でも一、二を争うほど得意としている。
どの程度まで広がっているのかも分からない。
まだ何も起きていないかもしれない。
すでに手遅れになっているかもしれない。
クリスには、確かめる方法すらなかった。
「……明日から、どこに行けばいいんだ」
クリスは小さく呟いた。
「大丈夫です」
シエラが言った。
クリスは少しだけ顔を上げる。
「何とかできるのか?」
「はい」
「本当か」
「はい」
「どうする」
「結婚までは、まだ言いません」
「まだ?」
「はい。今は婚約ということにしておきましょう」
「勝手に決めるな」
「否定するよりは安全です」
「安全の意味が違う」
「他の噂よりはましです」
「ましかどうかで決める話じゃない」
「では、否定しますか?」
「それは……」
クリスは言葉に詰まった。
否定したい。
今すぐ否定したい。
だが、否定した結果、もっとひどい噂を流される可能性がある。
誓いを軽く扱った騎士だと思われる可能性もある。
オリオン社は、それをできる会社である。
そして、シエラはそれを知っている。
ひどく嫌な状況だった。
「……少し考えさせろ」
クリスが言った瞬間だった。
シエラの手が、すっと伸びた。
そして、クリスの襟元をつかんだ。
「クリスさん」
「……おい」
「私では、不満なんですか」
いつもの静かな声だった。
だが、少しだけ語気が強い。
目も、逃がす気がない。
「待て」
「私では、不満なんですか」
「待て、シエラ」
「答えてください」
ぐい、と襟元を引かれる。
クリスは少しだけ顎を上げた。
「……不満、じゃない」
「本当ですか」
「……不満じゃない」
「私との婚約で、不満なんですか」
「不満じゃありません」
「では、婚約でいいですね」
「私との婚約で、不満なんですか」
「……お前が上級調査員として優秀なのは、認めてる」
シエラは、少しだけ目を細めた。
「今は仕事の話をしていません」
「……分かってる」
「では、婚約について答えてください」
「……分ける必要があるのか」
「あります」
シエラの手に、もう一度力が入った。
「私との婚約で、不満はありませんね」
「……分かった。分かったから」
「不満はありませんね」
「……不満はありません」
「本当に?」
「……本当に」
「私との婚約で、いいですね」
シエラは、少しだけ語気を強めた。
襟元をつかむ指にも、また力が入る。
クリスは、喉の奥でうめいた。
「……シエラ上級調査員との婚約で、いいです」
シエラは、ようやく手を離した。
「それでいいです」
「全然よくない」
クリスは襟元を直しながら、低く言った。
「最初から最後まで、何一つよくなかった」
ロングの街の向こうに、騎士団軍区の建物が見え始めている。
そこへ戻れば、副長府がある。
そして、すでに噂があるかもしれない。
第四大隊長は、上級調査員になるために来たはずだった。
だが、上級調査員の手続きは何一つ始まっていなかった。
その一方で、ただ一つだけ、はっきりしたものがある。
シエラとの婚約者という、勝手についてきた肩書きである。
クリス・ラングレーは、襟元を直しながら、静かに思った。
今日、いいことは何一つなかった。
情報は増えるかもしれない。
報酬も増えるかもしれない。
上級調査員にも、いつか正式になれるのかもしれない。
だが、今日残ったのは、未提出の推薦書状と噂と乱れた襟だけである。
隣では、シエラが少しだけ満足そうに歩いている。
クリスは、もう一度だけ思った。
やはり、これはデートではなかった。
絶対に違う。




