第2章45話 第四大隊長は第一執務室に入れませんでした
――帝国暦三二一年・冬中頃 ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府――
■第四大隊本部・大隊長室
クリス・ラングレーは、第四大隊本部の大隊長室にいた。
自分の机に座っている。
目の前には書類があり、手元にはペンがある。
室内には、副官のマルク・レイノルズと、書記官のノーラ・セイルもいた。
何もおかしなことはない。
第四大隊長が、第四大隊本部の大隊長室で仕事をしている。
ただそれだけである。
それだけのはずだった。
「……大隊長」
マルクが、書類を抱えたまま声をかけてきた。
「何だ」
「具合でも悪いんですか?」
クリスはペンを止めた。
「俺が自分の職場にいると、具合が悪いことになるのか」
「いえ、そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味だ?」
「朝からずっといらっしゃるので」
「いて悪いか」
「悪くはありません。ただ、珍しいので」
マルクは真面目な顔をしていた。
冗談を言っている様子はない。
だから余計に腹が立つ。
「大隊長が昼前まで大隊長室にいるのは、かなり珍しいことです」
「俺の部屋だぞ」
「はい」
「俺がいてもいいだろ」
「もちろんです」
「なら、何だ」
「ですから、何かあったのかと」
クリスは額を押さえた。
自分の大隊長室にいるだけで、部下から心配されている。
どう考えてもおかしい。
いや。
おかしいのは、普段の自分なのかもしれない。
クリスは、その考えをすぐに追い払った。
深く考えれば負ける気がした。
部屋の隅で書類を整理していたノーラが、控えめに口を開く。
「私も、久しぶりにクリス大隊長のお顔を拝見しました」
「おい」
「悪い意味ではありません」
「悪い意味にしか聞こえないぞ」
「ただ、大隊長室でこれほど長くお見かけするのは初めてです」
「初めてなのか?」
「はい」
ノーラは素直に頷いた。
マルクまで隣で頷く。
「お前まで頷くな」
「事実ですので」
クリスは椅子の背へもたれた。
居心地が悪い。
自分の部屋なのに、他人の場所へ長居しているような気分だった。
廊下からも、時折小さな声が聞こえてくる。
大隊長が部屋にいるらしい。
朝からいるらしい。
仕事をしているらしい。
そんなざわめきが、扉の向こうを通り過ぎていく。
「……おい。今の、聞こえたか」
「聞こえました」
マルクが答える。
「何で噂になってるんだ」
「かなり珍しいからではないでしょうか」
「俺が仕事をしてるだけだぞ」
「ですから、希少です」
「お前、今日は容赦ないな」
「いつもどおりです」
ノーラが、少し考えるように首を傾げた。
「もしかして、反省されたのではありませんか?」
「何をだ?」
「これからは大隊長室で、きちんと仕事をしようという意思表明かと」
マルクが目を見開いた。
「本当ですか、大隊長!」
「待て」
「もう、毎日探し回らなくてもいいんですか?」
「待てと言ってる」
「副長府庁舎の第一執務室、談話室、食堂、娯楽室、廊下、訓練場。そのすべてを回らなくてもいいんですか?」
「お前、そんなに探してたのか」
「探しています」
マルクはきっぱりと言った。
「大隊長が大隊長室にいないので」
「俺が悪いみたいに言うな」
「違うんですか?」
「……」
クリスは答えられなかった。
ノーラが、どこか明るい顔で続ける。
「よかったですね、マルク副官。これからは大隊長が書類を見てくださいます」
「そうですね」
「毎日お部屋にいてくだされば、確認も早くなります」
「助かります」
「お前たち、勝手に未来を決めるな」
クリスは低く言った。
だが、二人はあまり聞いていない。
マルクは少し感動したような顔で、抱えていた書類を机の上へ置いた。
「では、こちらもお願いします」
「増やすな」
「大隊長が部屋にいらっしゃるので」
「それは理由にならない」
「なります」
クリスは深く息を吐いた。
今日、第四大隊本部の大隊長室にいる理由は、反省ではない。
仕事への目覚めでもない。
明日、シエラと出かけることになっているからである。
周囲からは、デートだと言われていた。
だが、実際の目的は違う。
行き先は、シエラの実家でもあるオリオン社。
そこでクリスは、上級調査員になるための面接を受けることになっている。
シエラは、その付き添いである。
少なくとも、クリスはそう認識していた。
だが、オリオン社にはシエラの父や兄がいる。
そのため周囲からは、いつの間にか実家への挨拶を兼ねたデートのように扱われていた。
まったく違う。
ただの面接である。
上級調査員になるための、大切な面接だった。
問題は、リリアにも誤解されていることである。
シエラを待っているところを見られた。
早く話したかったと言ったところも聞かれた。
お二人だけでお話なのですね、とまで言われた。
その時点で嫌な予感はしていた。
そして今日。
第一執務室へ行き、明日の目的を説明しておくつもりだった。
デートではない。
実家への挨拶でもない。
上級調査員になるための面接である。
それだけ伝えれば、余計な話も収まるはずだった。
だが、第一執務室へ行く勇気がなかなか出なかった。
リリアが、すでに何をどこまで広めているのか分からない。
確かめるのも怖い。
だから説明へ行く機会をうかがいながら、朝から大隊長室にいる。
その結果、仕事が進んでいる。
おかしい。
誤解を解く機会を待っているだけなのに、書類が片づいていく。
非常に納得がいかなかった。
「大隊長」
マルクが言った。
「今度は何だ」
「そんなに無理をなさらなくてもいいですよ」
「無理?」
「先ほどから、どこかへ行きたそうな顔をしています」
「してない」
「しています」
「してない」
「第一執務室へ行きたいのではありませんか?」
クリスはペンを止めた。
「何でそうなる?」
「いつもなら、もう向かっている時間です」
「俺は時間を決めて第一執務室へ行っているのか」
「だいたいそうです」
「……」
「違いますか?」
ノーラも静かに頷く。
「クリス大隊長は、第一執務室へ行かれると元気になりますから」
「何だ、その話は」
「レオン副長やリリアさんとお話しすると、機嫌がよくなると」
「薬みたいに言うな」
マルクが頷いた。
「姫様がいらっしゃいますから」
「それで何でも治るみたいに言うな」
「違うのですか?」
「たぶん」
クリスは即答した。
即答したが、ノーラは不思議そうな顔をしている。
マルクも納得していない。
何だ、この部屋は。
自分の部屋なのに、完全に味方がいない。
「大隊長」
マルクが静かに扉を示した。
「どうぞ、行ってください」
「なぜ追い出す」
「無理にこちらへ残らなくても大丈夫です」
「俺の部屋だぞ」
「はい」
「何で俺が追い出されるんだ」
「お元気になってから戻ってきていただければ」
「本当に薬扱いするな」
ノーラが小さく頷く。
「書類は置いておきますので」
「置くな」
「戻られたら確認をお願いします」
「戻る前提で話すな」
「戻ってください」
マルクが真顔で言った。
クリスは黙った。
行けと言われても、戻れと言われる。
いったいどうしろというのか。
「……分かった」
クリスは立ち上がった。
「少しだけだ」
「はい」
「すぐ戻る」
「お待ちしています」
「本当に待ってろよ」
「はい」
マルクは嬉しそうに頷いた。
ノーラも、どこか安心したように会釈する。
クリスは、ますます居心地が悪くなった。
第四大隊長は、自分の大隊長室から追い出されるようにして廊下へ出た。
■総騎士団副長府
第四大隊本部を出たクリスは、副長府の中心にある副長府庁舎へ向かった。
足取りは重い。
いつもなら、何も考えず第一執務室へ入る。
書類がある。
リリアがいる。
レオンやイリスがいる。
フィアナやココ、メリーがいることもある。
面倒ではあるが、いつもの場所だった。
だが今日は、明日の目的が面接であることを説明しなければならない。
誤解を解くだけだ。
そう考えれば、難しいことではない。
それでも足が重いのは、リリアがどこまで話を広めているのか分からないからだった。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室前廊下
第一執務室の扉が見えてきた。
クリスは、すぐには入らなかった。
扉の前で足を止める。
中から声が聞こえた。
思ったとおり、自分の話をしている。
「それで、明日です」
リリアの声だった。
とても嬉しそうだった。
「クリスさんが、またシエラさんのご実家へ行かれるそうです」
その声には、疑う様子がまるでなかった。
心から二人の進展を喜んでいるらしい。
クリスは扉の前で固まった。
それは違う。
まったく違う。
オリオン社へ行くのは、上級調査員になるための面接を受けるためだ。
シエラの実家でもあるが、今回も挨拶へ行くわけではない。
やはり、きちんと説明しなければならない。
クリスは扉へ手を伸ばしかけた。
「また、ご実家へ行かれるのですか」
メリーの声がした。
「はい。今回は、お兄様にもお会いするそうです」
「お兄様?」
「シエラさんのお兄様です」
「以前にもご実家へ行かれて、今度はお兄様にもお会いするのですね」
「はい」
「それは、前よりもさらに進んでいますね」
「はい。とても大切な日です」
違う。
ただの面接である。
以前にもオリオン社へ行ったことはある。
今回は、そこで上級調査員になるための面接を受けるだけだ。
シエラの兄に会うとしても、それは面接に関係する話である。
しかし、このまま聞いていれば、二人の関係がさらに進んだ証拠にされてしまう。
今すぐ入って訂正するべきだった。
だが、その前にマリニーファの声が聞こえた。
「あんな人の、どこがいいんでしょうか?」
クリスは眉を寄せた。
あんな人。
今、確実にそう言われた。
「シエラさんがかわいそうです」
「……まあ、少し心配ではありますね」
メリーの声だった。
メリーまで、少し同意している。
クリスは傷ついた。
かなり心が傷ついた。
レオンの声はしない。
いるのか、いないのか。
少なくとも、助け舟は出てこない。
中では、リリアたちの声だけがよく響いていた。
「でも、クリスさんにも良いところはあります」
リリアが言った。
クリスは少しだけ顔を上げた。
扉へ伸ばしかけた手は、そのままだった。
言ってやれ。
言ってやれ、リリア。
さすが姫様。
ようやく皆の誤解を解いてくれる。
「どこですか?」
マリニーファが即座に尋ねた。
「どんなところが良いんですか?」
メリーも続ける。
沈黙があった。
かなり長い沈黙だった。
「……今、考えています」
リリアが小さく答えた。
クリスは目を閉じた。
今、考えているのか。
つまり、すぐには一つも出てこないのか。
「リリアさん」
マリニーファの声が少し低くなった。
「何か弱みでも握られているんですか?」
「そんなことありません」
リリアは慌てたように答えた。
「では、なぜそこまでかばうんですか?」
マリニーファが続ける。
「リリアさんは優しすぎます」
今度はココが、心配そうに言った。
「あんな人まで、かばわなくていいんです」
「お二人とも、あんな人などと言ってはいけません」
リリアの穏やかな声が聞こえた。
扉の向こうでは、きっと柔らかく微笑んでいるのだろう。
少しブラウンの混じった長い金髪を肩へ流し、涼しげな目元にも相手を責めるような厳しさは浮かべずに。
姿は見えなくても、クリスにはその表情が想像できた。
「でも…」
「どれほど嫌っている相手に対しても、あんな人という呼び方はよくありませんよ」
クリスは扉の外で固まった。
どれほど嫌っている相手に対しても。
つまり、自分はそこまで嫌われているのか。
ようやくリリアが味方をしてくれたと思った。
だが実際には、マリニーファたちが自分をひどく嫌っていることを前提にかばわれていたらしい。
「……俺、そんなに嫌われてるのか?」
思わず、小さな声が漏れた。
幸い、中には聞こえなかったらしい。
昔は、自分もリリアから兄のように慕われていたはずだった。
それが今では、良いところを一つ挙げることさえできず、周囲からひどく嫌われている者として気遣われている。
いったい、いつからこうなったのか。
クリスには、まったく分からなかった。
「クリスさんにも、きっと良いところがあるはずです」
「きっと」
メリーが小さく繰り返した。
「きっと、なんですね」
「はい」
リリアは少しだけ力を込めて言った。
「必ず、明日までに一つは見つけてきます」
クリスは扉の外で固まった。
明日までに。
一つは。
見つけてくる。
「……俺の評価、どうなってるんだ」
再び、小さく呟いた。
中には聞こえなかったらしい。
それだけが救いだった。
クリスは、扉へ伸ばしかけていた手を静かに下ろした。
明日の目的が面接であることを説明するために来た。
だが、今ここへ入れば、面接の話より先に自分の良いところを問われることになる。
しかも、リリアでさえ、すぐには一つも思いついていない。
これは入らない方がいい。
少なくとも、今日は。
第四大隊本部の大隊長室にも居場所がなかった。
第一執務室にも入れなかった。
親衛隊室へ行く気にもなれない。
第三執務室へ行けば、シエラがいる。
だが、今行けば明日の面接の話になる。
それも危険だった。
結論。
帰るしかない。
「……帰るか」
クリスは小さく呟き、静かに扉から離れた。
ただし、一つだけ言いたいことは残っていた。
第一執務室にレオンがいたのかどうかは分からない。
だが、いたのなら、親友である自分があれだけ言われている間、なぜ一言もかばってくれなかったのか。
オリオン社から戻ったら、少しくらい文句を言ってやるつもりだった。
廊下を歩きながら、クリスは深く息を吐いた。
明日は、上級調査員になるための面接を受けに、シエラとオリオン社へ行く。
それがいつの間にか、実家への挨拶を兼ねたデートのように扱われている。
第一執務室では、自分の良いところを明日までに探す話になっている。
第四大隊本部では、大隊長室にいるだけで体調不良を疑われた。
自分の居場所とは何なのか。
クリスは、少しだけ本気で考えた。
だが、いくら考えても答えは出なかった。




