第2章幕間10 徽章が欲しい二人
――帝国暦三二一年・冬終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・正面玄関前
朝。
リリアが総騎士団副長府庁舎へ登庁すると、いつものように正面玄関前には親衛隊の列ができていた。
きれいに整列した親衛隊員たちが、リリアの姿を見た瞬間、一斉に姿勢を正す。
「姫様、おはようございます!」
「おはようございます」
リリアは柔らかく微笑み、頭を下げた。
少しブラウンの混じった長い金髪が、朝の光を受けてふわりと揺れる。
髪をまとめる青いリボンも、いつもどおりだった。
親衛隊員たちの表情が、明らかに引き締まる。
いつもの光景である。
いつもの光景のはずだった。
だが、リリアは列の途中で足を止めた。
親衛隊員たちの中に、見覚えのある二人がいた。
「フィアナさん?」
「はい」
「ココさん?」
「はい」
フィアナとココが、親衛隊員たちに混じって立っていた。
二人とも、妙に真剣な顔をしている。
リリアは不思議そうに首を傾げた。
「どうして、そこにいるんですか?」
フィアナは、まっすぐリリアを見た。
「親衛隊ですから」
ココも頷く。
「はい。私たちも親衛隊です」
「親衛隊……」
リリアは少し考えた。
フィアナとココが親衛隊に入ったことは聞いていた。
だが、こうして朝から列に並んでいる姿を見ると、やはり少し不思議だった。
「でも、これから一緒に執務室へ行きませんか?」
リリアは、いつもの調子で言った。
「お仕事の前に、少しお話しできますし」
フィアナとココの表情が揺れた。
かなり揺れた。
だが、二人は踏みとどまった。
「いえ」
フィアナが言った。
「私たちは、リリアさんが庁舎へ入って、姿が見えなくなるまでここにいます」
「はい」
ココも真剣に頷いた。
「それが、親衛隊としての活動ですから」
「そうなんですか?」
「そうです」
「そうなんです」
二人は強く言い切った。
リリアは、ますます不思議そうな顔になる。
「でも、ここにいるより、一緒に来た方が楽しくないですか?」
そう言って、リリアは両手を差し出した。
「手につかまっていいですよ」
フィアナとココの動きが止まった。
親衛隊員たちの間にも、わずかなざわめきが走る。
リリアが両手を差し出している。
つかまっていい。
それは、かなり強い言葉だった。
フィアナは、ぎゅっと拳を握った。
「そんな誘惑には乗りません」
ココも必死に頷く。
「乗りません」
「誘惑?」
リリアは首を傾げた。
「でも、手をつないで行くだけですよ?」
「それが誘惑です」
「とても強い誘惑です」
「そうなんですか?」
「そうです」
「そうなんです」
フィアナとココは、目を逸らさずに答えた。
リリアは少し困った顔をする。
親衛隊員たちは、二人を見ながら静かに頷いていた。
まるで、よく耐えたと言っているようだった。
「では、また後でお話ししましょう」
リリアはそう言って、庁舎の中へ入ろうとした。
フィアナとココは、ぴしりと背筋を伸ばして見送る。
リリアが玄関へ向かって歩き出す。
だが、数歩進んだところで、また足を止めた。
やはり気になった。
リリアは振り返る。
「フィアナさん、ココさん」
「はい」
「はい」
「どうして、そこまでして親衛隊の活動をしているんですか?」
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に答える。
「徽章が欲しいんです」
「徽章が欲しいんです!」
「徽章?」
リリアは目を瞬かせた。
「はい」
フィアナが頷く。
「親衛隊の徽章です」
ココも真剣な顔で続けた。
「徽章があると、会報を毎月買いやすくなります」
「会報」
「はい。姫様会報です」
リリアは少しだけ考えた。
姫様会報。
最近、よく聞く言葉である。
自分の名前が入っているのに、自分の知らないところで、かなり大きな扱いを受けている。
不思議な会報だった。
「そのために、朝からここに?」
「はい」
「実績を上げたいので」
「実績」
「親衛隊として活動を続ければ、いつか徽章をいただけるかもしれないと聞きました」
「だから、頑張っています」
二人の目は真剣だった。
真剣すぎた。
リリアは、少し困ったように微笑む。
「そうだったんですね」
そして、改めて両手を差し出した。
「では、二人とも一緒に来てください」
フィアナとココは、また固まった。
「え」
「今度は、親衛隊のお話を聞きに行きます」
「親衛隊の?」
「はい。エゼルさんに聞いてみます」
二人は、さらに顔を見合わせた。
リリアが言っている。
エゼルに聞く。
それは、かなり強い。
「でも、活動中です」
フィアナが言った。
「まだリリアさんの姿が見えなくなるまで、見送れていません」
「私はここにいます」
リリアは両手を差し出したまま言った。
「一緒に行けば、見失いませんよ」
フィアナとココは言葉に詰まった。
その理屈は妙に強かった。
確かに、リリア本人と一緒に行けば、リリアを見失うことはない。
ココが小さく呟く。
「それは……親衛隊として正しいのでしょうか」
フィアナも真剣に考えた。
「リリアさんをお守りしながら移動する形になります」
「では、正しいのでは」
「正しいかもしれません」
二人は頷き合った。
そして、そっとリリアの手を取る。
リリアは嬉しそうに笑った。
「では、行きましょう」
親衛隊員たちの間に、静かな動揺が走った。
フィアナとココが、姫様の手を取っている。
しかも、任務として。
羨ましい。
かなり羨ましい。
だが、二人は親衛隊員である。
そして、姫様本人がそう言っている。
誰も止められなかった。
■総騎士団副長府庁舎・親衛隊室前
リリアは、フィアナとココを連れて親衛隊室へ向かった。
扉の前には、親衛隊員が立っている。
リリアを見るなり、姿勢を正した。
「姫様!」
「おはようございます」
リリアは微笑む。
「エゼルさんはいらっしゃいますか?」
「すぐに呼んでまいります!」
親衛隊員は、驚くほどの速さで中へ入った。
すぐに、エゼルとマフガランが出てくる。
二人とも、リリアの姿を見るなり深く頭を下げた。
「姫様。お越しいただけるとは」
「何か問題がございましたか?」
「いえ」
リリアは首を横に振った。
「今日は、フィアナさんとココさんのことで来ました」
エゼルとマフガランの視線が、リリアの両手へ向かう。
フィアナとココが、リリアの手にしっかりつかまっていた。
二人は、少しだけ誇らしげだった。
エゼルが一瞬だけ沈黙する。
マフガランも沈黙した。
親衛隊室前の空気が、わずかに揺れる。
「……なるほど」
エゼルが静かに言った。
「非常に高い護衛意識です」
「護衛意識なんですか?」
リリアが不思議そうに尋ねる。
「はい。姫様を直接お守りしている状態です」
「そうなんですね」
フィアナとココは、少しだけ胸を張った。
リリアは本題に入る。
「二人が、親衛隊の徽章を欲しいと言っていました」
エゼルの表情が引き締まる。
「徽章ですか」
「はい。会報を毎月買うために、実績を上げたいそうです」
マフガランが重々しく頷いた。
「動機は明確です」
「親衛隊として、正しいのでしょうか?」
「姫様を慕い、姫様について知るために会報を求める。それ自体は、親衛隊として自然なことです」
「自然なんですか?」
「はい」
リリアは少しだけ首を傾げた。
自然なのかどうかは、まだよく分からなかった。
だが、エゼルとマフガランは真剣だった。
「徽章は、とても貴重なのですよね」
「はい」
エゼルは答えた。
「初期徽章は、すでに配布を終えております。現在、新しい徽章の準備を進めていますが、数には限りがあります」
「そうなんですね」
「ただ、この二人はすでに入隊手続きを終え、活動にも参加しています」
エゼルは、フィアナとココを見る。
「次回の配布候補にも入っております」
フィアナとココの目が輝いた。
「私たち、候補に入っているんですか?」
「はい」
「これまでの意思と行動に、問題はありません」
フィアナが姿勢を正した。
「これからも頑張ります」
「会報のために」
ココが続ける。
「リリアさんのために」
フィアナは慌てて言い直した。
「リリアさんのために頑張ります」
「はい。リリアさんのために」
二人は真剣だった。
リリアは、少し困ったように笑う。
「エゼルさん。もし可能なら、二人にも徽章をお願いできませんか?」
エゼルは深く頭を下げた。
「お二人は、もともと次回配布の候補です」
「姫様のご推薦もいただけるのであれば、授与を早めても問題はございません」
「無理はしないでくださいね」
「無理ではございません」
マフガランが静かに言った。
「新しく準備していた徽章のうち、先に渡せるものが二つあります」
フィアナとココの目が、さらに大きくなる。
「本当ですか?」
「本当ですか?」
「はい」
マフガランは頷いた。
「ただし、お二人には今後、会報作成の補助もお願いすることになります」
二人の背筋が伸びた。
「はい」
「何でもします」
「何でもはしなくていいです」
リリアが慌てて言った。
エゼルは真剣な顔で続ける。
「会報を作る際には、姫様への簡単な聞き取りや、姿絵のためのデッサンをお願いする場合があります」
「お二人には、姫様のご負担にならないよう、日程や時間の調整を手伝っていただきます」
「分かりました」
「必ず調整します」
フィアナとココは力強く頷いた。
リリアは不思議そうに首を傾げる。
「私への聞き取りですか?」
「はい」
エゼルが答えた。
「最近のお仕事や、好きなお菓子、その日のリボンなどを、可能な範囲でお聞かせいただければと」
「それくらいなら大丈夫です」
「また、姿絵作成のため、短時間のデッサンをお願いすることもございます」
「デッサンですか?」
「はい」
エゼルは深く頭を下げた。
「もちろん、姫様のご負担にならない範囲でございます」
フィアナとココは、そっとリリアを見た。
かなり期待している目だった。
リリアは少し考える。
「会報や姿絵で得たお金は、町で行っている活動にも使われるんですよね」
エゼルとマフガランは、迷いなく頷いた。
「はい」
「活動に必要な物品などにも充てております」
「それなら、いいですよ」
リリアはあっさり言った。
フィアナとココは、そろって瞬きをした。
会報や姿絵が売れる。
そのお金が、町での活動に使われる。
それなら自分も少し協力したい。
リリアは、そう考えたらしい。
「ありがとうございます、リリアさん」
フィアナが言った。
「ありがとうございます」
ココも続ける。
リリアは微笑んだ。
「二人がそこまで頑張っているなら、私も少し協力します」
その言葉を聞き、エゼルとマフガランの表情が引き締まった。
「姫様のご協力、決して無駄にはいたしません」
「会報の作成に、さらに力を入れます」
「さらに入れるんですね」
「はい」
リリアは、よく分からないまま頷いた。
■総騎士団副長府庁舎・親衛隊室
エゼルは、親衛隊室の奥から小さな箱を持ってきた。
箱は丁寧に布で包まれている。
それが机の上へ置かれた瞬間、親衛隊員たちの空気が変わった。
徽章。
親衛隊員にとって、特別な証である。
エゼルは布を開き、箱の蓋を持ち上げた。
中には、二つの徽章が入っていた。
まだ新しい。
光を受けて、静かに輝いている。
フィアナとココは、息を止めるように見つめた。
「フィアナ」
「はい」
「ココ」
「はい」
エゼルは厳粛な声で言った。
「姫様のご推薦、およびこれまでの意思と活動を認め、親衛隊徽章を授与する」
フィアナとココは、同時に背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
エゼルは、一つ目の徽章をフィアナへ渡した。
「通し番号、一五一番」
続いて、二つ目の徽章をココへ渡す。
「通し番号、一五二番」
二人は、受け取った徽章を両手で包むように持った。
その表情は、明らかに輝いている。
「一五一番……」
「一五二番……」
リリアは、二人がとても喜んでいるのを見て、嬉しそうに笑った。
「よかったですね」
「はい!」
「はい!」
二人は力強く頷いた。
マフガランが補足する。
「徽章保持者となったため、今後は会報の優先購入が可能になります」
フィアナとココの顔が、さらに明るくなった。
「会報が毎月……」
「買いやすくなるんですね」
「はい」
エゼルが頷いた。
「親衛隊として、これからも頑張ります」
フィアナとココは徽章を大切そうに持つ。
「リリアさんのために頑張ります」
リリアは少し照れたように笑った。
「無理はしないでくださいね」
「はい」
「無理はしません」
二人は即答した。
だが、その声にはかなりの熱があった。
リリアは少しだけ不安になった。
「本当に、無理はしないでくださいね」
「はい」
「はい」
エゼルとマフガランは、リリアへ深く頭を下げた。
「姫様、ありがとうございました」
「こちらこそ、二人のことを考えてくださってありがとうございます」
「もったいないお言葉です」
リリアは、まだ少し不思議そうだった。
ただ、フィアナとココが嬉しそうなので、それでよいような気もした。
■総騎士団副長府庁舎・廊下
親衛隊室を出ると、フィアナとココはすぐにリリアの両手を取った。
今度は、少しも迷わなかった。
「フィアナさん?」
「帰りは護衛です」
フィアナが言った。
「はい。親衛隊ですから」
ココも続ける。
二人は、しっかりとリリアの手につかまっている。
先ほどまで、誘惑には乗らないと言っていた二人である。
リリアは首を傾げた。
「朝は、手をつなぐのは誘惑だと言っていませんでしたか?」
「今は任務です」
「任務なら大丈夫です」
「そうなんですね」
リリアは少し笑った。
「では、お願いします」
「はい!」
「はい!」
二人は、徽章を胸に、リリアの両手にしがみついたまま歩き出した。
廊下の向こうで、その姿を見た親衛隊員たちが固まる。
フィアナとココは、姫様の手を取って歩いている。
しかも、正式な徽章保持者として。
それは、かなり強い光景だった。
リリアは周囲の視線に気づかないまま、穏やかに廊下を歩いていく。
フィアナとココは、とても幸せそうだった。
その日、二人は親衛隊の徽章を手に入れた。
通し番号、一五一番と一五二番。
そして朝には耐えたはずの強い誘惑を、帰りには立派な任務として受け入れていた。




