第24話 個人的な招待
――帝国暦三二〇年・春中頃 東ロンバルディア帝国騎士団領 ヴァイス邸 応接室――
夜。
レオンは、騎士団本庁にいなかった。
本庁の執務室でもない。
珍しく、自分の屋敷にいた。
「……珍しいな」
思わず小さく呟く。
仕事が終わって屋敷に戻ること自体が、最近は珍しくなっている。
まして、そこで皇太子と向かい合っているなど、珍しいどころではない。
「世話になる」
向かいに座っているのは、帝国皇太子アシュレイだった。
昼間の視察を終えたあと、彼はそのまま形式的な宿舎へ戻るのではなく、ヴァイス邸を訪ねてきた。
公式ではない。
個人的に話がしたい。
そう告げられた。
もちろん、皇太子が言えば、個人的であっても断れるものではない。
「もっと堅い場所かと思ったが」
アシュレイは応接室を見回して言う。
「普通だろ」
「いい意味で、な」
軽く笑う。
応接室は落ち着いていた。調度は整っているが、余計な飾りは少ない。
豪華さを見せつけるための部屋ではない。
客を迎えるための部屋だった。
「お待たせいたしました」
扉が開き、茶が運ばれてくる。
湯気とともに、やわらかな香りが広がった。
「……いい香りだ」
アシュレイが素直に言う。
「うちのメイドは優秀だからな」
「それは何よりだ」
茶が注がれる。
静かな時間が流れた。
昼間の騎士団本庁とは違う。
人の声も、足音も、書類の山もない。
ただ、夜の屋敷と、茶の香りだけがある。
「さて」
アシュレイはカップを手に取った。
「少しは“外”の話でもするか」
レオンは顔をしかめる。
「余計なことはいい」
「そんな顔で言うな」
アシュレイは楽しそうに笑った。
「昼間、君は外を見たいと言った」
「言わされた気がする」
「答えたのは君だ」
それは否定できない。
レオンは黙る。
アシュレイは茶を一口飲んでから、軽く目を細めた。
「お前、どこまで知っている?」
「ほとんど知らん」
「だろうな」
あっさり言われた。
腹は立たない。
事実だからだ。
「例えば、アストリア連邦」
聞き慣れない名前だった。
レオンは黙って続きを待つ。
「西の果て、海の向こうにある国だ」
「帝国の外か」
「そうだ」
アシュレイはカップを置く。
「王も皇帝もいない。すべて、議会で決める」
「合議制か」
「そうだな」
レオンは少しだけ眉を寄せた。
騎士団領にも評議はある。
団長たちが意見を出し、上層部が判断する。だが、それとは違うのだろう。
「ここに少し似ている」
アシュレイは、まるでレオンの考えを読んだように言った。
「だが、もっと徹底している。商人も、学者も、兵も、同じ場で意見を持つ」
「……まとまるのか」
「まとまらないことも多い」
あっさり言う。
「駄目だろ」
「そうとも限らない」
アシュレイの声が、少しだけ静かになる。
「遅い。面倒だ。口論も多い。それでも、一度決まれば多くの者が納得して動く」
そこで、わずかに視線を上げた。
「遅くても、止まらない」
静かな言葉だった。
レオンは黙る。
(……止まらない、か)
騎士団領は、速い。
命令が下れば動く。
必要なら切り捨てる。
現場は強い。
だが、速いからこそ、止まれない。
止まれないまま、仕事だけが増えていく。
そう思うと、少しだけ胸に残った。
「他にもある」
アシュレイは、まるで世間話のように続けた。
「ヴェルン砂海」
「砂海?」
「南にある巨大な砂漠だ。そこでは、国境があまり意味を持たない」
「なぜだ」
「砂が動く。道も変わる。町も移る。線を引いても、風が消す」
レオンは眉を寄せた。
「どうやって動く」
「星と風だ」
軽く言う。
「地図は頭の中にある」
「……理解できんな」
「俺もそうだった」
アシュレイは笑う。
「だが、見れば分かる」
その一言だけが、妙に重く落ちた。
レオンは視線を落とす。
(……見れば、か)
本で読むだけではない。
話に聞くだけでもない。
外を知るとは、実際に見ることなのかもしれない。そんな考えが、ふと浮かんだ。
その時、扉がノックされた。
「失礼いたします」
セレナとアルヴェルトが入ってくる。
ヴァイス家の当主夫妻として、皇太子に挨拶をするためだった。
「殿下。ご挨拶が遅れ――」
「いらない」
アシュレイが軽く手を上げる。
「今はただの客だ」
さらりと言う。
「そういう堅いのは苦手でな」
セレナは一瞬だけ驚き、すぐに微笑んだ。
「かしこまりました」
アルヴェルトも短く頷く。
それ以上は踏み込まない。
二人は、必要な礼だけを残して静かに退室した。
扉が閉まる。
「いい家だな」
ぽつりと、アシュレイが言った。
「そうか?」
「ああ。無理がない」
それだけで十分だった。
レオンは、少しだけ目を伏せる。
家にいると休めないと思うことも多い。
けれど、外から来た人間には、そう見えるらしい。
無理がない家。
そう言われると、少しだけ変な感じがした。
やがて、また扉が開く。
「お兄様」
リリアだった。
夜の屋敷にふさわしい、落ち着いたドレス姿。昼間の公式対応用のパーティードレスとは違い、色も飾りも控えめだ。
けれど、令嬢としての所作は崩れていない。
「……来ていたのですね」
リリアはアシュレイへ向き直り、一礼した。
「こんばんは、殿下」
美しいカーテシー。
「こんばんは」
アシュレイが軽く応じる。
そして、少しだけ笑った。
「“姫様”、か」
リリアは困ったように微笑む。
「……その呼び名は、騎士団の方々が勝手に」
「似合っていると思うが」
「そのような者ではありません」
「そう言うところも含めて、だろうな」
アシュレイは楽しそうに言う。
リリアは返答に困ったように視線を下げる。
レオンは目を逸らした。
(否定すればするほど悪化するやつだ)
もう知っている。
短い挨拶。
それだけで終わる。
リリアは兄の邪魔をしないように、静かに下がった。
やがて、アシュレイが立ち上がる。
「さて」
「もう帰るのか」
「長居しすぎると、侍従がうるさい」
その言葉に合わせるように、控えていた侍従が一歩前へ出る。
明日の予定を確認する。
無駄がない。
「問題ないな」
「はい」
「では、失礼する」
アシュレイは軽く手を上げた。
「世話になった」
「別に」
レオンは短く返す。
そのまま、皇太子は去っていく。
廊下の向こうへ足音が遠ざかり、屋敷はまた静かになった。
少しだけ、夜風が入る。
静かな空。
誰もいない応接室。
「……どうだった」
レオンは、独り言のように呟く。
少しだけの間。
(……悪くない)
そう思った。
いや。
「……有意義だったな」
言い直す。
知らないもの。
見たことのない世界。
それは、思っていたよりもずっと現実だった。遠い物語ではない。
誰かが実際に歩き、見て、話せる場所にあるものだった。
(……行けるのか?)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
まだ形にはならない。
どうすれば行けるのかも分からない。
そもそも、自分がこの騎士団領を離れられるのかも分からない。
けれど、今までとは違う。
外は、ただの憧れではなくなった。
レオンの中で、何かが静かに動き始めていた。




