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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第2章 総騎士団副長編

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第2章43話 白い影の報告

――帝国暦三二一年・冬中頃 ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――


■総騎士団副長府庁舎・第一執務室


 翌朝。


 第一執務室の空気は、いつもより少しだけざわついていた。


 理由は、書類ではない。


 工事の音でもない。


 昨夜、未完成区画に入った者がいたからである。


「本当に、白い影を見たのですか?」


 少しブラウンの混じった長い金髪を青いリボンでまとめたリリアが、涼しげな目元に不安を浮かべて尋ねた。


 その声には、いつもの柔らかな温かさがある。


 問いに答えたのは、ライだった。


 ライは第一執務室の端で、何人かの文官やリリアたちに囲まれていた。


 手には書類を持っている。


 だが、今は完全に話の中心になっていた。


「はい。確かに見ました」


 ライは、いつもより少しだけ背筋を伸ばした。


「三階の廊下を、白い何かが横切りました。一つではありません。二つ、あるいは三つです。はっきりと、人の形に見えました」


 メリーが、ココの袖をそっとつかむ。


「二つか三つ……」


「はい」


 ライは重々しく頷いた。


「しかも、こちらには気づいていませんでした。もし気づかれていたら、どうなっていたか分かりません」


「ライさんは、逃げずにその場に残っていたのですか?」


 リリアが聞く。


 ライは、少しだけ間を置いた。


 その間が、妙にそれらしく見えた。


「……残りました」


 事実ではあった。


 逃げられなかっただけである。


 だが、嘘ではない。


 周囲の同僚たちが小さくどよめいた。


「すごいですね」


 リリアが素直に言った。


 ココも目を丸くする。


「ライさん、意外と勇敢だったんですね」


「い、意外と、ですか」


「はい」


「そこは、普通に勇敢だったと言っていただけると」


 ライは少し複雑そうな顔をした。


 フィアナが、リリアの横から身を乗り出す。


「それで、白い影はどのような姿だったのですか?」


「白かったです」


「それは分かっています」


「顔は見えませんでした。鎧なのか、布なのかも分かりません。ただ、白いものが横切ったことだけは確かです」


 メリーが、ココの袖をつかむ手に力を込めた。


「……それは、やはり幽霊なのでしょうか?」


「分かりません」


 ライは、できるだけ落ち着いた声で答えた。


「ですが、私はその場で確認しました」


「確認?」


「はい。逃げずに、最後まで」


 そこで、第一執務室の扉が開いた。


「いや、お前は怖がって俺にしがみつこうとしていただけだろ」


 入ってきたのは、クリスだった。


 手には、昨夜シエラがまとめた記録を持っている。


 顔には、呆れたような笑みが浮かんでいた。


 ライの肩が跳ねる。


「クリス大隊長」


「何が最後まで確認しました、だ。お前、白い影を見た瞬間、俺の腕をつかもうとしていただろ」


「しがみつこうとしたら、蹴飛ばそうとしたじゃないですか」


「だから、しがみつこうとしていたんだろ」


「未遂です」


「未遂でも十分だ」


 クリスは、持っていた記録を近くの机へ置いた。


 周囲の文官たちが、少しずつライを見る目を変える。


 リリアが首を傾げた。


「ライさん、怖かったのですか?」


「怖くないわけではありません」


「つまり、怖かったのですね」


「慎重だったのです」


「言い換えているだけだな」


 クリスが即座に言った。


 ライは小さく咳払いをする。


 それから、少しだけクリスへ顔を寄せ小声で話した。


「クリス大隊長」


「何だ?」


「僕、初めて姫様とお話ししました」


 声を潜めていたが、隠しきれないほど弾んでいた。


「そうか。よかったな」


 クリスは冷静に答えた。


「はい!」


 ライは嬉しそうに頷いた。


 それから何事もなかったように姿勢を戻す。


「ですが、白い影を見たのは本当です」


「そこは本当だ」


 クリスは頷いた。


「三階の廊下を、白いものが二つか三つ横切った。顔は見えない。正体も分からない。こちらには気づいていなかった」


 第一執務室の空気が、少しだけ引き締まった。


 冗談では済まない。


 少なくとも、何かがいた。


 見間違いではない何かを、複数人が見ている。


 イリスは机の向こうで、静かに顔を上げた。


「クリス大隊長」


「ああ」


「その報告は、正式なものとして扱ってよろしいですね」


「ああ。俺が見た。ライも見た。シエラとエリシアも見ている」


 そこでクリスは、ちらりとライを見た。


 ライもクリスを見返す。


 クリスは声を少し落とした。


「ライ」


「はい」


「エリシアが気を失ったことは、絶対に言うなよ」


「……あのことですね」


「言うな。後で何をされるか分からないぞ」


「分かりました」


 ライは、昨夜のエリシアを思い出した。


 青い顔。


 震える声。


 それでも剣の柄に手を置き、職務を果たそうとしていた姿。


 そして、白い影を見た直後の状態。


 言わない方がいい。


 それはライにも分かった。


「何のお話ですか?」


 リリアが不思議そうに聞く。


 クリスは、すぐに顔を戻した。


「何でもない」


「怪しいです」


「怪しくない」


 ライも頷く。


「エリシアさんは、最後まで職務を果たしました」


「その言い方も怪しいな」


 クリスが言った。


「余計なことを言うな」


「言っていません」


「言いかけている」


「まだ言っていません」


「最後まで言うな」


 ライは口を閉じた。


 その直後、何かを思い出したように顔を上げる。


「あ」


「何だ」


「そういえば、シエラさんとクリス大隊長は、恋人同士だったのですね」


 第一執務室の空気が、少し変わった。


 白い影の話を聞いていた者たちの視線が、今度はクリスへ向く。


 クリスは固まった。


「何で今それを言う」


「昨夜、シエラさんが言っていました」


「何を」


「私は一応、恋人なんですよ、と」


 リリアが、にこにこと頷いた。


「それは知っていますよ」


「知っているのですか?」


 ライが驚いたようにリリアを見る。


「はい。クリスさんとシエラさんは、そういうご関係ですよね」


「リリア、そこで普通に言うな」


 クリスが疲れたように言った。


 ライは真面目な顔で続ける。


「それから、私を捨てるんですか、とも言っていました」


「言っていたな」


「やはり言っていたのですね」


「状況が状況だったんだよ」


 フィアナが、少しだけ目を細める。


「クリスさん」


「何だ、フィアナ」


「そういうことを言わせるのは、よくないと思います」


「俺が言わせたわけじゃない」


「ですが、シエラさんはそう言ったのですよね」


「幽霊が怖くて、変なことを言っただけだ」


 ココがリリアの横から顔を出す。


「でも、恋人なのは本当なんですよね?」


「……否定しにくい聞き方をするな」


「では、やっぱり本当なんですね」


 メリーが、少し考えるように言う。


「つまり、幽霊よりも、シエラさんを一人にすることの方が問題だったということですか?」


「どうしてそうなる」


「シエラさんが、そう言ったので」


「言ったが、そういう意味じゃない」


 リリアは、にこにこしている。


「仲がよいのですね」


「リリア、その笑顔で追い詰めるのをやめろ」


「追い詰めていません」


「追い詰めている」


 フィアナが小さく息を吐く。


「クリスさんは、昔からそういうところがありますね」


「どういうところだ」


「そういうところです」


「説明しろ」


「しません」


 クリスは額に手を当てた。


 ライは、自分の発言が別の騒ぎを生んだことに、少し遅れて気づいた。


「もしかして、今の話はしない方がよかったですか?」


「気づくのが遅い」


「申し訳ありません」


「絶対わざとだろ」


「半分は」


「半分は何だ」


「疑問です」


「残り半分が悪意だな」


 ライは否定しなかった。


 イリスが、静かにクリスを見る。


「クリス大隊長」


「はい」


「深夜のデートは禁止ですからね」


「していない」


 クリスは即答した。


「今後、シエラさんを連れて、深夜の未完成区画へ行くのは控えてください」


「俺が連れていったわけじゃない。それに、ライもいた。エリシアもいた」


「ですが、シエラさんは恋人との深夜の外出として受け取っていたようです」


「受け取っていない。怖がって変なことを言っていただけだ」


 フィアナが、少し頬に手を当てた。


「深夜のデート……少し、素敵ですね」


「素敵じゃないですよ」


 ライが即座に言った。


「あれはデートではありません。ただの恐怖です。未完成区画ですよ。白い影ですよ!」


「でも、シエラさんはクリスさんにしがみついていたのですよね?」


「それはそうですが」


「やはり、少し素敵です」


「素敵じゃないです」


 ライは強く否定した。


 クリスも額に手を当てる。


「だから、デートじゃないと言っているだろ」


 イリスは、二人のやり取りを聞いた後、静かに書類を置いた。


「話を戻します」


 その一言で、第一執務室の空気が整った。


 クリスも小さく咳払いをする。


「クリス大隊長」


「はい、殿下」


「未完成区画の三階付近に、不審者らしき白い影がいたことは間違いないのですね」


「ああ」


 クリスは真面目に頷いた。


「少なくとも、何かはいた。人かどうかまでは分からない。だが、幽霊だと決めつけるより、不審者として扱った方がいい」


「同意します」


 イリスは淡々と答えた。


「未完成区画は工事中です。資材も多く、足場もあります。許可のない者が夜間に立ち入っているなら、それだけで問題です」


「だな」


「ひとまず、夜間の立入りを禁止します」


 レオンが、書類から顔を上げた。


「警備はどうする?」


「現在の人員では、未完成区画へ専任の警備を置くことはできません」


 イリスは、机の上に置かれた記録を確認しながら答えた。


「今の夜間巡回の経路を少し変え、未完成区画の入口付近も確認させます」


「巡回を増やすことはできないのか」


「夜間巡回そのものが、最低限の人数で行われています」


 イリスは首を横に振った。


「回数を増やせば、ほかの場所を回れなくなります」


「中へ入って確認する者は」


「置けません」


 イリスは迷わず答えた。


「少ない人員を、夜間の未完成区画へ入れる方が危険です。白い影が本当に不審者であった場合、一人では対応できません」


「それで、入口を見るだけか」


「現状では、それが限界です」


 レオンは黙った。


 前にも、似たことがあった。


 リリア本人がさらわれたと思い、庁舎内が騒ぎになった時。


 すぐに動かせる衛兵がいないことを、レオンは知った。


 実際に持ち出されていたのは、リリア本人ではなく肖像画だった。


 だから、あの時は大きな被害にはならなかった。


 今回も、クリスたちは全員無事に戻っている。


 白い影も、遠くの廊下を横切っただけだった。


 今すぐ、何かが起きるわけではない。


 それでも、同じ不足が残っていた。


 人がいない。


 巡回を少し増やす余裕さえない。


 何者かが未完成区画へ入り込んでいたとしても、すぐに確認へ向かわせられる者はいなかった。


 レオンは、イリスにだけ聞こえるほどの声で呟いた。


「……やはり、衛兵隊を解散させたのは失敗だったかもしれんな」


 イリスが静かにレオンを見る。


「すぐに元へ戻せるものではありません」


「分かっている」


 人を集めれば済む話ではない。


 配置する場所。


 指揮する者。


 昼夜の勤務。


 ほかの騎士団との役割分担。


 変えようとしても、すぐに変えられるものではなかった。


 レオンは、机の上に置かれた記録へ視線を落とす。


「今回は、立入禁止と巡回経路の変更でいい」


「はい」


「中には入れるな」


「承知しました」


 イリスも、それ以上は何も言わなかった。


 今すぐ結論を出せる話ではない。


 ただ、レオンの中に、同じ問題がもう一度残った。


「こちらで正式な報告書を作成します。あわせて、未完成区画への一時立入制限申請書も作ります」


「また書類が増えるのか」


「必要です」


「白い影のためにか」


「白い影ではありません。不審者の可能性があるためです」


「面倒だな」


「必要です」


 レオンは、書類の山を見て深く息を吐いた。


「……分かった。作れ」


「はい」


「だが、簡潔にしろ」


「必要事項は記載します」


「長くなる言い方だな」


「必要です」


 レオンは嫌そうな顔をした。


 だが、否定はしなかった。


 イリスは白紙の用紙を取り出し、正式な報告書の作成に入る。


 書かれる内容は、ひどく奇妙だった。


 未完成区画。


 三階。


 夜間。


 白い影。


 複数。


 不審者の可能性。


 夜間立入禁止。


 その内容を基に、一時立入制限申請書も作られた。


 レオンは、途中で回ってきた申請書を見て眉を寄せる。


「書類にすると、余計に怪しいな」


「ですが、必要です」


「分かっている」


 レオンは面倒そうに認可欄を見た。


 そして、しばらく黙った後、認可印を押す。


「これでいいか?」


「はい。ありがとうございます」


「礼を言われるような内容ではない」


 レオンは申請書をイリスへ戻した。


 イリスはそれを受け取り、次の書類へ移る。


「立入禁止の通達を回します。夜間巡回には、未完成区画の入口付近を通るよう指示します」


 ライは、少しだけ安心した顔をした。


「では、もう僕たちが行く必要はありませんね」


「ライさん」


 イリスがライを見る。


 ライは背筋を伸ばした。


「はい」


「あなたは、絶対に未完成区画へ立ち入らないでください」


「誰があんなところに立ち入るんですか!」


 即答だった。


 イリスは、わずかに目を細める。


「昨夜、立ち入っています」


「あれは不可抗力です」


「次は不可抗力では済みません」


「はい。絶対に行きません」


 ライは本気で頷いた。


 イリスは次にクリスを見る。


「クリス大隊長」


「はい」


「エリシアさんとシエラさんにも、同じように伝えてください。未完成区画には、許可なく立ち入らないように、と」


「ああ。分かった」


 クリスは肩をすくめた。


「まあ、言わなくても行かないと思うけどな」


「念のためです」


「確かにな」


 シエラは、おそらく言われなくても行かない。


 エリシアも、職務でなければ行かないだろう。


 昨夜の様子を思えば、クリスにはそう断言できた。


 ただ、それをこの場で詳しく説明するつもりはなかった。


 メリーが、ココの袖をつかんだまま小さく言う。


「本当に、白い影がいたのですね?」


「いた」


 クリスが答える。


「見間違いではない」


 メリーは少し震えた。


 ココは、そんなメリーを見て少し嬉しそうにしながらも、自分も怖そうだった。


 フィアナはリリアの横へ寄っている。


 リリアは、未完成区画の方角を少しだけ見た。


「少し、見てみたかったです」


 その瞬間、レオンの視線がリリアへ向いた。


 リリアは、すぐに姿勢を正した。


「いえ。行きません」


「そうしろ」


「はい」


 ココとフィアナも、同時に頷く。


「私たちも行きません」


「行きません」


 メリーも小さく頷いた。


「行きません」


 レオンは、ようやく書類へ視線を戻した。


「ならいい」


 第一執務室の中に、少しだけ安堵した空気が流れた。


 白い影の正体は分からない。


 だが、見た者がいる。


 複数人が同じものを見た以上、単なる噂では済まなくなった。


 それでも、今できる対応は限られている。


 幽霊ではない。


 不審者の可能性があるものとして処理する。


 未完成区画は、夜間立入禁止とする。


 既存の夜間巡回の経路を変え、入口付近を確認する。


 内部へは、許可なく立ち入らない。


 十分な警備とは言えなかった。


 だが、人員がいない以上、今すぐできるのはその程度だった。


「では、報告書の清書と通達を回します」


 イリスが言った。


 レオンは嫌そうな顔をした。


「まだ増えるのか」


「報告書、一時立入制限申請書、立入禁止の通達、夜間巡回への指示です」


「増えすぎだろう」


「必要です」


「幽霊にも書類が必要なのか」


「幽霊ではありません。不審者です」


「不審者にも書類が必要なのか」


「必要です」


 レオンは深く息を吐いた。


「やはり、壊してしまうか」


「副長府をですか」


「問題ごと全部だ」


「余計に書類が増えます」


「そうだったな」


 レオンは諦めたように書類へ戻った。


 クリスは小さく笑う。


 ライは、もう二度と未完成区画へは行かないと、心の底から決めていた。


 白い影の報告は、こうして正式なものとなった。


 そして、副長府の夜間巡回は、ほんの少しだけ変更されることになった。


 これで、白い影の噂も落ち着くだろう。


 少なくとも、その場にいた者たちは、そう思っていた。


 だが、その判断が少しだけ甘かったことを、まだ誰も知らなかった。

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