第2章42話 幽霊騒ぎ
――帝国暦三二一年・冬中頃 ヴェリア帝国東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府・未完成区画――
■総騎士団副長府・未完成区画
四人は、未完成区画の左側の入口から建物の中へ入った。
先頭は、松明を持ったクリスである。
その少し後ろにシエラ。
さらにエリシア。
最後に、予備の松明を抱えたライが続く。
ただし、実際にはきれいに縦に並んでいたわけではない。
シエラは、クリスの服の裾をつかんでいる。
ライは最後尾になるのを嫌がって、エリシアの横へ出ようとしている。
エリシアは青い顔のまま、剣の柄に手を置いている。
全員が少しずつ前へ詰めるせいで、四人は妙に固まって歩いていた。
「狭いな」
クリスが言った。
「通路がですか」
ライが聞く。
「いや、お前たちとの距離が」
「離れたら危ないので」
「まだ何も出てないだろ」
「出るまえから離れていたら遅いです」
「理屈だけは通ってるな」
クリスは呆れたように言いながら、松明を掲げた。
建物の中は、外から見るより暗かった。
壁はできている。
床も張られている。
だが、細かい部分はまだ途中で、扉のない部屋がいくつも並んでいた。
窓の隙間から冷たい風が入り、壁にかけられた布や、床に置かれた縄を揺らしている。
それだけで、何かが動いたように見えた。
ライは小さく肩を跳ねさせる。
「今、動きました」
「布だ」
「布にしては、動き方が不自然でした」
「風だ」
「風にしては、かなり悪意がありました」
「風に悪意を持たせるな」
クリスは松明を近づけた。
揺れていたのは、ただの布だった。
シエラがクリスの服をつかむ手に、少しだけ力を込める。
「記録しているのか?」
クリスが聞いた。
「今はそれどころではありません」
「記録目的で来たんじゃなかったのか?」
「記録は取ります」
「取ってないだろ」
「心に記録しています」
「記録は紙に書け」
「今、手がふさがっています」
「俺の服を離せば空くだろ」
「それは無理です」
「記録係としてどうなんだ?」
「記録係としては問題があります」
「自覚はあるんだな」
シエラは答えなかった。
服の裾をつかんだまま、少しだけ視線をそらした。
エリシアは、その横で静かに息を吐いていた。
顔色は悪い。
だが、姿勢は崩さない。
剣の柄に手を置き、視線だけは周囲に向けている。
ライはその姿を横目で見ていた。
いつものエリシアは、もっと冷たい。
表情を崩さず、必要なことだけを言い、隙を見せない。
第一執務室で見かけるエリシアは、氷のような人だと思っていた。
だが今は、明らかに怖がっている。
それでも逃げない。
職務中だから。
そう考えると、ライは少しだけ背筋を伸ばした。
自分だけ怖がっているわけではない。
少なくとも、そう思いたかった。
その直後、廊下の奥で木材がきしんだ。
ライは反射的にクリスへ手を伸ばした。
だが、ぱしり、と手を叩かれる。
「痛いです」
「何度も言わせるな。俺にしがみつくな」
「不安なのです!」
「知るか!」
「シエラさんはいいのに」
「シエラはいい」
「差別です」
「これは区別だ!」
ライは納得できなかった。
だが、言い返しているうちに、少しだけ恐怖が紛れた。
四人は一階の部屋を一つずつ確認していった。
最初の部屋。
何もない。
次の部屋。
資材が積まれているだけ。
その次の部屋。
布をかけられた木材があり、ライが一度本気で後ずさった。
「人かと思いました」
「木材だ」
「木材にしては背が高かったです」
「縦に置いてあるからだ」
「縦に置かないでほしいです」
「文句は作業員に言え」
クリスは松明で部屋の隅を照らしていく。
壁際。
床。
窓の下。
積まれた資材の裏。
怪しいものはない。
だが、何もないからこそ、逆に嫌な感じがした。
どこかに隠れているのではないか。
いないはずなのに、いるのではないか。
そう思ってしまう。
ライは、早く一階の確認が終わってほしかった。
しかし、一階の確認が終われば、次は二階である。
それに気づいて、さらに気分が重くなった。
「一階は何もないな」
クリスが言った。
「では、今日はこれで」
「二階へ行くぞ!」
「やっぱりですか」
「当たり前だろ」
「一階にいなかったという成果で十分ではありませんか」
「十分じゃない!」
クリスは階段へ向かった。
シエラは服の裾をつかんだままついていく。
エリシアも続く。
ライは最後尾になりかけて、慌ててエリシアの横に並んだ。
「最後尾は嫌です」
「……私も、後方確認は慎重に行うべきだと思います」
エリシアが言った。
ライはエリシアを見る。
「今のは、後ろにいたくないという意味ですか?」
「後方確認は重要です」
「言い換えましたね」
「言い換えていません」
声は震えていた。
二階へ上がると、空気が一段冷たくなった。
窓の隙間から入る風が強い。
布が揺れる音も、一階より大きく聞こえる。
廊下の奥は、松明の明かりが届かず、黒く沈んでいた。
「ここも左から見るぞ」
クリスはそう言って、二階の最初の部屋に入った。
一階と同じように、一部屋ずつ松明で照らしていく。
部屋の中。
壁際。
資材の影。
窓の下。
何もない。
何もない。
何もない。
それなのに、心臓だけは落ち着かなかった。
シエラはいつの間にか、服の裾だけではなく、クリスの腕に手を移していた。
クリスがちらりと見る。
「おい」
「何ですか?」
「手の位置が変わってるぞ」
「安定性の問題です」
「何の安定性だ」
「私の心です」
「正直だな」
「今は取り繕う余裕がありません」
「記録は?」
「今それどころじゃありません」
「お前、さっきもそれ言ってたな」
「記録は取らなければなりません」
「だから取ってないだろ」
「あとで取ります」
「記憶が残っていればいいな」
「不吉なことを言わないでください」
シエラはクリスの腕をさらに強くつかんだ。
クリスはもう諦めたようだった。
その時だった。
廊下の奥から、音がした。
コツン。
小さな音だった。
四人が止まる。
コツン。
もう一度、鳴った。
ライは、息を呑んだ。
「クリス大隊長」
「何だ」
「出たんじゃないですか?」
「……そうだな」
「そうだな、ではなく」
クリスは松明を少し高く掲げた。
音は、二階の廊下の奥から聞こえる。
部屋の中ではない。
風で揺れる布の音でもない。
明らかに、何かが固い床を叩くような音だった。
「確認しに行くぞ」
クリスが言った。
「行かなくていいです」
ライは即答した。
「見に来たんだろ?」
「音を聞いたので十分です」
「十分じゃない」
クリスはエリシアを見る。
「エリシア。行くぞ」
返事はなかった。
「エリシア?」
エリシアは立っていた。
剣の柄に手を置いたまま。
背筋も伸びている。
だが、目が完全に止まっていた。
顔色は真っ青で、視線は廊下の奥に固定されている。
ライは顔を引きつらせる。
「エリシアさん?」
エリシアは動かない。
立ったまま、意識だけがどこかへ行っていた。
クリスは短く息を吐いた。
「駄目だな」
「駄目ですね」
「じゃあ、俺が見てくる」
クリスが一歩踏み出そうとした瞬間、シエラが背中にしがみついた。
「一人にしないでください」
「動けない」
「一人にしないでください」
「同じことを二回言うな」
「私は一応、恋人なんですよ」
「こういう時だけ恋人かよ」
「一人にするんですか。あなたはそんな男なんですか。私を捨てるんですか?」
「言い方が重い、重過ぎる」
「捨てるんですね」
「捨てない。捨てないから離れろ」
「離れたら置いていくでしょう」
「置いていかない」
「信用できません」
「恋人への信頼はどこへ行った」
「幽霊の前では揺らぎます」
「弱いな信頼」
クリスは諦めたように息を吐いた。
まずは、動かないエリシアの前に立つ。
「エリシア」
反応はない。
クリスは軽く頬を叩いた。
「おい。戻れ」
ぱん、ぱん、と乾いた音がする。
エリシアの目が、ようやくわずかに動いた。
「……私は」
「戻ったか」
「私、どうかしていましたか?」
「少しな」
「少し、ですか」
「かなりだ」
エリシアは口元を引き結んだ。
「申し訳ありません。職務中に」
「怖いなら帰れ」
「怖くありません」
「それしか言ってないな、お前」
「私は騎士です」
「それも聞いた」
「職務中です」
「それも聞いた」
エリシアは、まだ青い顔のまま剣の柄を握り直した。
「行けます」
クリスは少しだけエリシアを見る。
そして、それ以上は言わなかった。
「分かった。だが、無理はするな」
「はい」
ライは少し驚いた。
クリスが、そこでからかわなかったからである。
普段なら、もっと雑に言いそうなものだった。
だが今は、エリシアが怖がっていることを分かっていながら、そこには踏み込まない。
ライは、少しだけクリスを見る目を変えた。
しかし、その直後、クリスが言った。
「じゃあ、進むぞ」
ライはすぐに見方を戻した。
「やっぱり進むんですか」
「進む」
「今の流れなら帰るところでは」
「違う」
四人は、慎重に廊下を進んだ。
さっきの音は、それきり止まっている。
どこかへ消えたように、何も聞こえない。
結局、二階の奥を確認しても、何も見つからなかった。
ただ、床の一部に、細い砂の跡のようなものがあった。
ライはそれを見て、すぐに目をそらした。
気づかなかったことにしたかった。
「三階へ行くぞ」
クリスが言った。
「やめませんか?」
「ここまで来てやめる方が気持ち悪いだろ」
「僕は最初からずっと気持ち悪いです」
「それはお前の問題だ」
階段を上がる。
二階から三階へ向かう階段は、まだ完全には仕上がっていなかった。
手すりは仮のもの。
壁も一部が覆われている。
足元には、木の粉と石の欠片が残っていた。
松明の明かりが揺れるたびに、階段の影も揺れた。
そして、三階へ上がりきる少し手前で。
また、音がした。
コツン。
今度は、一つではなかった。
コツン。
コツン。
複数の足音のように聞こえた。
しかも、近づいてくる。
ライは声を失った。
シエラがクリスの背中にしがみつく。
エリシアは何も言わなかった。
だが、顔は真っ青だった。
肩が小さく震えている。
クリスは、低く言った。
「踊り場に隠れるぞ」
四人は階段途中の踊り場へ身を寄せた。
壁の影に入る。
クリスは松明を見た。
「見つかると面倒だ。一旦、火を消す」
「嫌です」
ライが即答した。
「嫌です。暗闇は嫌です」
シエラも震えた声で言う。
「消さないでください。見えない方が怖いです」
「見えても怖いだろ」
「見えない方がもっと怖いです」
「でも火があると向こうからも見える」
「向こうとは何ですか?」
「白い影だろ」
「言わないでください」
シエラの手に力が入る。
エリシアは何も言わなかった。
ただ、青い顔のまま、松明を見つめていた。
その表情だけで、反対していることは分かった。
だが、声は出ないらしい。
クリスは小さく息を吐いた。
「悪いが、消すぞ」
「本当に嫌です」
「我慢しろ」
クリスは松明の火を消した。
暗闇が落ちた。
完全な暗闇ではない。
外からわずかに月明かりが入っている。
だが、さっきまで松明の明かりに慣れていた目には、何も見えないに等しかった。
ライは息を止める。
シエラがクリスにしがみつく音がした。
エリシアの呼吸も、浅くなっている。
そして。
コツン。
足音が近づく。
コツン。
もう一つ。
コツン。
複数。
階段の上。
三階の廊下。
踊り場の影から、かろうじてその先が見えた。
白いものが、横切った。
一つ。
その後ろに、もう一つ。
さらに、三つ目のような影も見えた。
人の形に見える。
だが、顔は分からない。
鎧なのか、布なのか、何なのかも分からない。
ただ、白い何かが、三階の階段前を静かに横切っていった。
ライは声を出せなかった。
シエラも動けなかった。
エリシアは、完全に固まっていた。
クリスだけが、目を細める。
「……やっぱりいるな」
白い影は、こちらに気づいていない。
そのまま、廊下の奥へ消えていく。
クリスは松明に火をつけようとした。
「追うぞ」
その瞬間、動けなかったはずの三人が動いた。
ライがクリスの腕にしがみついた。
シエラが背中にしがみついた。
エリシアは、立ったまま白目を向いていた。
クリスは動こうとして、動けなかった。
「おい」
返事はない。
「動けないだろうが」
シエラは背中にしがみついたまま、涙目で言った。
「帰りましょう」
ライも必死だった。
「帰りましょう。もう十分です。見ました。見ましたよね。確かに見ました。成果はありました」
「追えば正体が分かるだろ」
「分からなくていいです」
「よくない」
「今日でなくていいです」
「いまなら追える」
「追わなくていいです」
シエラも頷く。
「一人にしないでください」
「一人にしないと言っただろ」
「なら帰りましょう」
「なぜそうなる」
「帰れば一人になりません」
「理屈がおかしい」
「幽霊の前では理屈は無力です」
クリスは、背中にしがみつくシエラと、腕にしがみつくライを見た。
そして、エリシアを見る。
エリシアは立っていた。
立ってはいた。
だが、目は白くなっている。
意識はなかった。
「……エリシア?」
反応はない。
「立ったまま気絶してるのか」
ライが震えながら言う。
「すごいですね」
「感心している場合か」
「いえ、でも、すごいです」
「そうだな。ある意味すごいな」
クリスは追跡を諦めた。
まず、松明に火をつけ直す。
明かりが戻ると、ライが少しだけ息を吹き返した。
シエラはまだクリスの背中にしがみついている。
エリシアは変わらず立っていた。
クリスはエリシアの肩に手を置き、ゆっくりと床へ座らせる。
そのまま横にして、頬を軽く叩いた。
「おい。戻れ」
エリシアはすぐには戻らなかった。
少しして、ようやくまぶたが動く。
「……私は」
「また少し止まってた」
「少し、ですか」
「すまん、かなりの時間だ」
「申し訳ありません」
「もういい。今日は帰る」
その言葉に、ライとシエラが同時に顔を上げた。
「本当ですか?」
「本当ですね?」
「二人で同じ顔をするな」
クリスはため息をついた。
「白い影は見た。二つか三つかは分からないが、確かにいた。今日はそれで十分だ」
「十分すぎます」
ライが即答する。
「記録は取れたのか?」
クリスがシエラを見る。
シエラは、記録用の板を抱えたまま固まった。
「……取れました」
「本当か」
「心に」
「また心か」
「今はそれで許してください」
「まあ、いい」
クリスはエリシアを立たせた。
エリシアはまだ顔色が悪い。
だが、自分の足で立った。
「歩けるか」
「歩けます」
「本当にか」
「私は騎士です」
「それはもういい」
四人は、来た道を戻り始めた。
白い影を追うことはできなかった。
正体も分からなかった。
だが、見間違いではない。
少なくとも、何かがいた。
白いものが、三階の廊下を横切った。
それだけは、四人全員が見た。
建物の外へ出ると、夜の空気がやけに冷たく感じた。
ライは、ようやく息を吐いた。
「生きて出られました」
「大げさだな」
「僕にとっては重要なことです」
シエラも、クリスの服からようやく手を離した。
「記録は、明日まとめます」
「心の記録をか」
「はい」
「紙にも残せ」
「努力します」
エリシアは、未完成の建物を振り返った。
顔色はまだ戻っていない。
それでも、視線だけは逃げていなかった。
「……確かに、いました」
「ああ」
クリスも建物を見る。
暗い三階の窓。
その奥には、もう何も見えない。
白い影もない。
足音もない。
ただ、未完成の副長府が、夜の中に沈んでいるだけだった。
「本当にいることは分かった」
クリスは静かに言った。
「今日は、それだけでも成果だな」
「もう二度と来たくありません」
ライが言った。
「それは無理だろうな」
「なぜですか」
「報告したら、次はもっとちゃんと調べろと言われる」
「報告しないという選択肢は……」
「ない」
「では、心の中にしまっておくというのは」
「お前はシエラか」
シエラが少しだけ顔を上げる。
「心の記録も大切です」
「紙に書け」
クリスはそう言って、未完成区画に背を向けた。
白い影の正体は、まだ分からない。
だが、噂は噂では終わらなかった。
総騎士団副長府の夜に、白いものが歩いている。
そのことだけは、確かなものになってしまった。




