表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第2章 総騎士団副長編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
235/264

第2章41話 夜の未完成区画

――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――


 ■総騎士団副長府庁舎・未完成区画


 その日の深夜。


 総騎士団副長府庁舎の未完成区画は、昼間とはまるで違う顔をしていた。


 昼間は職人たちの声が響き、台車が行き来し、木材や石材が運ばれている。


 だが、夜になると、それらはすべて止まる。


 足場だけが残る。


 布で覆われた壁だけが残る。


 まだ扉のついていない入口。


 途中までしか仕上がっていない廊下。


 ところどころに積まれた資材。


 風が吹くたびに、仮留めされた布が小さく揺れる。


 そこに立っているだけで、昼間の副長府庁舎とは別の場所に来たような気がした。


 その入口近くで、ライは一人、松明を持って立っていた。


 できれば来たくなかった。


 本当に来たくなかった。


 そもそも、幽霊は得意ではない。


 だが、前日に第一執務室であれだけ話が進んでしまった以上、今さら逃げるわけにもいかなかった。


 正確には、逃げようとはした。


 しかし、逃げ道はなかった。


 コウには逃げられた。


 親衛隊は来なかった。


 リリアが来ない以上、親衛隊が来る理由もなかった。


 そして、レオンは当然のように来ない。


 副長は仮眠室で寝るか、第一執務室で書類を処理している。


 夜中に白い影を見に行くために出てくるような人ではない。


「……帰りたい」


 ライは小さく呟いた。


 その時、足音が聞こえた。


 仮通路の奥から、クリス・ラングレーが歩いてくる。


 いつものように軽い足取りだった。


「待たせたな」


「待っていません。できればこのまま帰りたかったです」


「来てる時点で同じだろ」


「同じではありません」


 ライはそう言いながら、クリスの後ろを見た。


 人影が二つある。


 一人はシエラだった。


 もう一人はエリシアである。


 ライは、目を瞬かせた。


「クリスさん」


「何だ」


「どういうことですか?」


「どういうこととは」


「連れてきたの、女性だけじゃないですか!」


 ライの声は真剣だった。


 クリスは肩をすくめる。


「悪いな。何人か声はかけたんだが、来たのはこの二人だけだった」


 ライは、クリスを見た。


 少しだけ、言ってはいけないことを言いそうな顔だった。


 クリスが眉を寄せる。


「何だ、その目は?」


「いえ」


「言いたいことがあるなら言え」


「もしかして、クリスさん、友人が少ないのですか?」


「お前に言われたくない」


 クリスは即答した。


「お前も同僚に断られただろ」


「断られていません」


「コウに逃げられたんだろ」


「コウは具合が悪くなって帰っただけです。断られたわけではありません」


「都合よく具合が悪くなったな」


「体調不良は誰にでもあります」


「お前、本当にそう思ってるのか?」


「思うことにしています」


 ライは真顔だった。


 シエラが、二人のやり取りを見ながら小さく首を傾げる。


「それで、具体的にはどういう話なのですか」


 クリスは、ようやく本題に入るように未完成区画の方を見た。


「この建物だ」


 彼が示したのは、まだ仕上がっていない三階建ての建物だった。


 副長府庁舎の一角に作られている、新しい執務区画である。


 外壁はある程度できているが、内装はまだ途中だった。


 昼間なら職人たちが行き来している。


 だが、夜になると人の気配は消える。


 そのはずだった。


「白い影は、この建物でよく見られるらしい」


 クリスは続けた。


「一階から三階まで、行ったり来たりしている。廊下を歩いているように見えたという話もあるし、階段を上がっていったという話もある」


「一階から三階まで、ですか」


 シエラの目が、少しだけ輝いた。


「良い記録が取れそうです」


「記録が目的だったな、お前は」


「はい。噂がどのように広がり、実際に何が確認されるのか。記録しておく価値があります」


 シエラは淡々と言った。


 その声だけを聞けば、いつも通りだった。


 だが、ライは見ていた。


 シエラの手が、クリスの服の裾をしっかりと握っていることを。


 ライは、無言でそれを見た。


 シエラは、視線に気づいたのか、少しだけ顔をそらした。


「記録のためです」


「まだ何も言っていません」


「これは、離れないための措置です」


「何からですか?」


「記録対象からです」


「そうですか」


 ライは深く追及しなかった。


 追及したところで、自分もあまり人のことは言えない。


 エリシアは、クリスの横で建物を見上げていた。


 いつも通り、姿勢はまっすぐだった。


 背筋も伸びている。


 剣も持っている。


 ただ、顔色が少し青い。


「エリシア」


 クリスが声をかける。


「お前は、どうして来たんだ?」


「副長が参加できませんので」


 エリシアは答えた。


 声は落ち着いている。


 落ち着いているように聞こえる。


 だが、わずかに震えていた。


「現状を確認しておく必要があります。荒事があった場合、私が役に立ちます」


「そうか」


「はい」


 エリシアは小さく頷いた。


「私は騎士ですから。幽霊など、こ、怖いわけがありません」


 そこで一度、言葉が詰まった。


 ライは思わずエリシアを見る。


 エリシアはすぐに口元を引き締めた。


「今は職務中です。ですから、問題ありません」


「……はい」


 ライは小さく返事をした。


 問題ないようには見えなかった。


 いつものエリシアは、厳しい。


 冷たいと言ってもいい。


 レオンのそばに立っている時も、第一執務室にいる時も、必要なことだけを淡々とこなす。


 近寄りがたい雰囲気がある。


 氷のような人だと、ライは少し思っていた。


 だが今のエリシアは、青い顔で未完成の建物を見上げている。


 声も震えている。


 それでも、逃げようとはしない。


 この人も、こんなふうになるのか。


 ライは、少し意外に思った。


 同時に、心配にもなった。


 怖がっているのに、職務だから来ている。


 そう考えると、ただ怖がっているだけの自分より、ずっと立派に見えた。


 クリスは、エリシアの顔色には触れなかった。


 からかうこともなかった。


 ただ、建物の方を見て言う。


「まあ、荒事になったらエリシアがいれば助かる。シエラは記録。ライは……」


「僕は何ですか?」


「予備だな」


「何の予備ですか」


「人手の予備だ」


「一番雑ではありませんか?」


「事実だ」


 クリスは悪びれなかった。


 ライは、改めて三人を見る。


 クリスは軽い。


 シエラは記録目的と言いながら、すでにクリスの服を握っている。


 エリシアは騎士として来ているが、どう見ても平常ではない。


 そして自分は、幽霊が苦手な文官である。


 駄目ではないだろうか。


 この組み合わせは、最初から駄目ではないだろうか。


 ライは心の中でそう思った。


「大丈夫だ」


 クリスが言った。


 ライの顔を見て、何を考えているのか分かったらしい。


「俺は騎士だ。お前たちくらい、ちゃんと守ってやる」


「本当ですか?」


「シエラは俺が何とかする」


 クリスは、自分の服の裾を握るシエラを見た。


 シエラは何も言わず、少しだけ裾を握る力を強めた。


「エリシアは、自分で何とかできるだろう」


「……頑張ります」


 エリシアの声は、やはり少し震えていた。


 ライは不安になった。


「では、僕は?」


「自分で何とかしろ」


「おかしくありませんか?」


「おかしくない」


「僕が一番何とかできないと思います」


「そこは自信を持つところじゃない」


「自信ではなく、自己分析です」


 ライは真剣に言った。


 シエラが、クリスの服の裾を握ったまま、小さく息を吐く。


「それで、どうするのですか?」


「まずは中を見る」


 クリスは建物の入口を見た。


「一階から三階まで歩く。白い影が本当に出るなら、何か痕跡くらいあるだろう」


「四人で、ですか」


「最初はな」


「最初は?」


 ライが不穏な言葉を聞き逃さなかった。


 クリスは左右を指差す。


「この建物は左右に入口がある。廊下も途中で分かれている。効率を考えるなら、二組に分かれた方が早い」


「やめてください」


 ライの返事は即答だった。


 クリスが笑う。


「まだ何も言ってないぞ」


「言う前から分かります。絶対にやめてください」


「何でだ?」


「この状況で二手に分かれる理由がありません」


「効率がいい」


「効率を求めてはいけない状況です」


 ライは必死だった。


「エリシアさんが騎士なのは分かります。分かりますけど、顔が普通ではありません。シエラさんも、記録したいと言いながら、どう見ても怖がっています」


「怖がっていません」


 シエラが即座に言った。


 しかし、クリスの服の裾は離さない。


「記録のためです」


「その記録のために、なぜクリスさんの服を握る必要があるのですか」


「離れると記録が乱れます」


「乱れるのは記録ではなく、心ではありませんか」


 シエラは答えなかった。


 エリシアが、青い顔のまま口を開く。


「私は問題ありません」


「声が震えています」


「震えていません」


「震えています」


「震えていません」


「震えています」


「……職務中です」


「答えになっていません」


 ライは本気で心配していた。


 クリスは、そのやり取りを見て、少し笑いをこらえているようだった。


「じゃあ、こうするか?」


「嫌な予感しかしません」


「俺たち三人と、お前一人に分かれる」


「ふざけないでください!!」


 ライは本気で怒った。


「僕は最初から、こういうものが苦手だと言っています。僕を一人にする案が出ること自体、おかしいです」


「冗談だ」


「冗談に聞こえませんでした」


「じゃあ、二人と二人ならどうだ」


「誰と誰ですか?」


「俺とシエラ。エリシアとライ」


「駄目です」


「早いな」


「エリシアさんが今の状態です」


「お前、エリシアに失礼だぞ」


「失礼でも何でも、今のエリシアさんを一人分の戦力として数えるのは危険です」


 エリシアが少しだけ目を伏せた。


「……申し訳ありません」


「謝らないでください。余計に不安になります」


 ライは頭を抱えた。


 そして、決意したようにクリスを見た。


「僕は、クリスさんから絶対に離れません」


「言い方が気持ち悪い」


「そういう意味ではありません」


「もう少し別の表現はなかったのか」


「ありません。僕は絶対に離れません」


「やめろ。さらに気持ち悪くなった」


 ライは、念のためクリスの服の裾をつかもうとした。


 その手を、クリスが軽く叩く。


「痛いです」


「お前にその資格はない」


「資格制なのですか?」


「少なくとも、シエラは怖がっている女性だから許す」


「僕も怖がっています」


「お前は親衛隊員だろ」


「親衛隊員だからこそ、そういうものには敏感なんです」


「またそれか」


「大事なことです」


「つまり怖いだけだろ」


「違います。敏感なんです」


「便利な敏感さだな」


「クリスさんが鈍感すぎるだけです」


「俺は冷静なだけだ」


「幽霊かもしれないものを見に行こうとしている時点で、冷静ではありません」


 ライは本気で抗議したが、クリスは取り合わなかった。


 シエラはクリスの服を握ったまま、少しだけ視線をそらしている。


 エリシアは、青い顔のまま剣の柄に手を置いていた。


 それでも、逃げようとはしない。


 ライは、また少しだけエリシアを見た。


 怖がっている。


 けれど、立っている。


 職務だから。


 その姿を見ていると、自分だけ逃げるわけにもいかない気がしてくる。


 嫌だった。


 とても嫌だった。


 だが、逃げられない空気ができていた。


 クリスは松明を掲げる。


「分かった。二手に分かれるのはやめだ。四人で行く」


「最初からそうしてください」


「松明はこれを使う。予備はライが持て」


「なぜ僕ですか?」


「一番落としそうだからだ」


「落としそうな人間に予備を持たせるのは間違っていませんか」


「落とすなという意味だ」


「理不尽です」


 クリスは笑って、予備の松明をライに押しつけた。


 ライはそれを受け取るしかなかった。


 シエラは記録用の板を抱え直す。


 だが、もう片方の手はクリスの服の裾から離れていない。


 エリシアは一度だけ深呼吸をした。


「私は騎士です」


 小さく呟く。


「職務中です」


 その声は、まだわずかに震えていた。


 クリスは、やはりそこには触れなかった。


 ただ、入口へ向かって歩き出す。


「行くぞ」


 未完成の副長府庁舎の建物。


 昼間は工事の音が響く場所。


 夜になると、白い影が一階から三階まで歩くと言われている場所。


 四人は、松明の明かりを頼りに、その中へ足を踏み入れた。


 中は、外よりもずっと暗かった。


 風に揺れた布が、奥で白く動いた。


 ライは、思わず足を止めそうになった。


 だが、クリスは止まらない。


 シエラはクリスの服を握ったままついていく。


 エリシアは青い顔で、剣の柄に手を置きながら進む。


 ライは予備の松明を抱え、最後尾だけは絶対に嫌だと思いながら、慌ててクリスの後を追った。


 夜の未完成区画に、四人分の足音が響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ