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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第2章 総騎士団副長編

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第2章40話 完成していない副長府

――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――


 ■総騎士団副長府庁舎・第一執務室


 第一執務室の窓が、小さく揺れた。


 書類の端も、わずかに震える。


 レオンハルト・ヴァイスは、机の上の書類に目を落としたまま、しばらく黙っていた。


 だが、次の瞬間、また窓が揺れた。


 今度は遠くから、石を叩く音が聞こえてくる。


 木材を運ぶ音。


 誰かの怒鳴り声。


 台車の車輪が石畳をこする音。


 それらが混ざって、第一執務室の中にまで届いていた。


 レオンは、ゆっくりと顔を上げた。


「まだ終わらないのか?」


 その声は低かった。


 机の向かいで書類を確認していたイリスが、顔を上げる。


「何がでしょうか?」


「工事だ」


 レオンは窓の方を見た。


「毎日、叩いている。毎日、運んでいる。毎日、誰かが叫んでいる。なのに、終わらない」


「副長府庁舎の建設は、まだ途中ですから」


「途中なのは分かっている」


 レオンは書類を一枚めくった。


「だが、いつまで途中なんだ」


 イリスは手元の資料を確認した。


「予定では、まだしばらくかかります」


「全て壊してしまうか?」


「余計に工事が増えます」


「そうか」


 レオンは残念そうに言った。


 メリーが、隣で小さく瞬きをする。


 その横で、リリアが少し困ったように笑った。


 少しブラウンが混じった長い金髪が、肩のあたりで柔らかく揺れている。


 髪に結ばれた青いリボンも、彼女が首を傾げるたびに小さく動いた。


 涼しげな目元には、いつものように拒絶感がない。


 むしろ、困っている兄を本気で心配しているような、柔らかな温かさがあった。


「お兄様。全部壊してはいけません」


「分かっている」


「本当に分かっていますか?」


「あまり分かりたくはない」


「困ります」


 リリアは小さく首を傾げた。


「それに、ここがなくなったら、お兄様のお茶も出せません」


 レオンは黙った。


「……それは困るな」


「はい」


「では、壊すのはやめる」


「よかったです」


 リリアはほっとしたように笑った。


 メリーは、その兄妹のやり取りを見て、少しだけ目を細めた。


「……やはり、この兄妹は少しずれていますね」


「何か言ったか」


 レオンが見る。


「いいえ。副長が壊さない判断をされたなら、何よりです」


「今、何か別のことを言っていただろう」


「気のせいです」


 メリーは真面目な顔で答えた。


 リリアだけが、不思議そうに首を傾げている。


 窓の外では、また何かが運ばれていく音がした。


 総騎士団副長府庁舎は、すでに稼働している。


 第一執務室もある。


 書記官たちの部屋もある。


 仮眠室もある。


 各大隊や関係部署からの書類を受け取る場所も、ひとまず整えられている。


 だが、それはあくまで、使える部分を先に使っているだけだった。


 総騎士団副長府庁舎という建物全体で見れば、まだ完成しているとは言い難い。


「イリス」


「はい」


「今、どの程度できている?」


「全体で見れば、半分から六割ほどです」


「そんなにできていないのか」


「機能的には動いています」


「機能しているから、余計に困る」


 レオンはため息をついた。


「完成していないなら、まだ使わなければいい。完成しているなら、工事は終わる。だが、今は使えているのに工事が続いている」


「はい」


「最悪だな」


「副長府としては、必要な過程です」


「俺としては、迷惑だ」


 イリスは特に表情を変えずに続けた。


「本来、この副長府は、複数の騎士団をまとめて扱えるようにするための施設です。六つの騎士団分を収容する前提で、執務区画、連絡区画、保管区画、会議室、待機室、倉庫などが設計されています」


「多すぎる」


「必要だからです」


「必要にならない方がよかった」


「それはもう遅いです」


 イリスは淡々と言った。


「現在、まともに動かせるのは三騎士団分ほどです。残りの区画は、まだ工事中です」


「つまり、完成したらさらに人が増える」


「はい」


「書類も増える」


「はい」


「会議も増える」


「おそらく」


「やはり壊すか」


「壊さないでください」


 イリスの声は穏やかだったが、少しだけ強かった。


 レオンは窓の外を見た。


 副長府庁舎の向こう側には、まだ足場の組まれた建物が見える。


 布で覆われた壁。


 途中まで組み上がった廊下。


 仮の通路。


 出入りする職人たち。


 それらが、完成していない副長府庁舎の姿をはっきりと示していた。


「第十三騎士団と第十四騎士団の件もあるのだろう」


「はい。将来的には、そちらもこちらへ移る予定です」


「今はどこを使っている」


「旧第七騎士団、旧第十騎士団、旧第十二騎士団の建物を仮に使っている部分があります。空いている建物をそのまま使っている形ですね」


「そのままずっと使えばいい」


「副長府の管轄に入れるなら、いずれは移転が必要です」


「必要か」


「必要です」


「そうか」


 レオンは、また残念そうに言った。


 その時、リリアの横にいたココが、リリアの腕に抱きついたまま、小さく手を上げた。


「あの」


 レオンが目を向ける。


「何だ」


「工事中の副長府といえば、最近、変な噂があります」


 その言葉に、メリーの手が止まった。


 リリアも、少しだけ首を傾げる。


「変な噂、ですか?」


「はい」


 ココはリリアに抱きついたまま、真面目な顔で頷いた。


「夜中に、建設中の副長府で白い影が見えるそうです」


 室内が、少しだけ静かになった。


 レオンは眉を寄せる。


「白い影?」


「はい。夜中に、白いものが行ったり来たりしていると」


「布ではないのか」


「最初はそう言われていたそうです。でも、見た人が何人もいるらしくて」


 ココは少し声を落とした。


「しかも、歩いているらしいです」


 メリーが、ゆっくりと顔を上げた。


「歩いている、白い影ですか」


「はい」


「……それは、あまり聞きたくない報告ですね」


 メリーの声が、いつもより少しだけ小さかった。


 その時、扉が開いた。


「何だ、随分と面白そうな話をしてるじゃないか」


 第四大隊長クリス・ラングレーが、軽い足取りで第一執務室へ入ってきた。


 手には報告書を持っている。


 レオンは、半眼でそちらを見た。


「仕事か」


「一応な」


「一応で来るな」


「報告書は持ってきた。だから仕事だ」


 クリスはそう言って、近くの机に報告書を置いた。


 そして、室内の空気を見て、にやりと笑う。


「で、何の話だ。幽霊か?」


 リリアが少し目を見開いた。


「クリスさんも、ご存じなのですか?」


「ああ。聞いたことはある」


 クリスは腕を組んだ。


「夜中に、建設中の副長府の方で白い影が出るって噂だろ」


 メリーの肩が、わずかに跳ねた。


 ココはリリアに抱きついたまま、少し得意そうな顔になる。


「やっぱり、噂になっているんですね」


「なってるな。しかも、一体じゃないって話もある」


「一体じゃない?」


 リリアが聞き返す。


 クリスは楽しそうに頷いた。


「何体かいるらしいぞ。白いものが、一つじゃなくて、いくつも。夜中に、建設中の区画をぐるぐる歩いてるって話だ」


 メリーが、無言でココの服をつかんだ。


 ココが驚いてメリーを見る。


「メリーさん?」


「……少しだけ、つかまらせてください」


「はい」


 ココは、ぱっと顔を明るくした。


「もちろんです」


 メリーは真面目な顔のまま、ココの服をつかんでいる。


 その横で、フィアナが一瞬だけ目を細めた。


 そして、すぐにリリアの腕にそっとしがみつく。


「リリアさん」


「フィアナさん?」


「私も、少し怖いです」


「えっ」


 リリアは驚いたが、フィアナは真剣な顔をしていた。


「白い影が何体も歩いているというのは、怖いです」


「そう、なのですね」


「はい」


 フィアナはリリアにしがみついたまま、ココの方をちらりと見た。


 ココはメリーに服をつかまれて、少し嬉しそうにしている。


 フィアナは、さらにリリアに身を寄せた。


 レオンは、その光景を見て、何とも言えない顔をした。


「何をしている」


「怖いので」


 フィアナが即答した。


 レオンはそれ以上追及しなかった。


 マリニーファが、少し考えるように首を傾げる。


「見間違いではないのですか?」


 その言葉に、クリスが肩をすくめた。


「一人や二人なら、見間違いで済むかもしれないな」


「違うのですか?」


「夜遅くまで残っていた職員や、たまたま未完成区画の近くを通った者が、何人か見てるらしい。全員が同じものを見間違えるかと言われると、なかなか難しいだろう」


 マリニーファは、少しだけ表情を曇らせた。


「では、本当に何かがいるということですか?」


「さあな」


 クリスは笑った。


「だから面白いんじゃないか」


「面白くありません」


 メリーが低い声で言った。


「そうか?」


「はい」


「まあ、怖がるメリーは珍しいな」


「怖がっていません」


「ココの服をつかんでるぞ」


「これは確認のためです」


「何の確認だ」


「安全確認です」


 メリーは真顔で答えた。


 ココは嬉しそうだった。


 レオンは額に手を当てた。


「イリス」


「はい」


「その噂は、どこまで広がっている」


「私のところにも、断片的には届いています」


「届いていたのか」


「はい。ただ、正式な報告として扱うには情報が曖昧でしたので、保留にしていました」


「保留にしていたものが、なぜ第一執務室で怪談になっている」


「クリスさんが来たからではないでしょうか」


「俺のせいか?」


 クリスがわざとらしく驚いた顔をする。


 イリスは淡々と答えた。


「はい」


「即答だな」


「はい」


 その時、第一執務室の隅で資料を持っていた若い文官が、恐る恐る手を上げた。


 ライである。


「あの……」


 レオンが目を向ける。


「何だ」


「僕も、その噂は聞いたことがあります」


「お前もか」


「はい。夜遅くまで残っていた者や、たまたま未完成区画の近くを通った者の間で、少し話題になっています」


 ライは、言いにくそうに続けた。


「ただ、僕は幽霊は、あまり得意ではありません」


 クリスがすぐに笑った。


「安心しろ、ライ」


「はい」


「今度、俺とお前で見に行くぞ」


「安心できる要素が一つもありません」


「俺がいるだろ」


「クリスさんは、頼りにしていいのですか?」


「当然だ。頼りにしていい」


 クリスは胸を張った。


「仮に女性陣が来ることになっても、俺が必ず守ってやる」


「自分は?」


「お前の身は、お前で守れ」


「冷たくありませんか?」


「男だろ」


「恐怖に性別は関係ありません」


「ある」


「ありません」


「ある」


 その瞬間、室内の女性陣の視線が、静かにクリスへ向いた。


 リリア。


 メリー。


 イリス。


 マリニーファ。


 フィアナ。


 ココ。


 誰も声を荒げてはいない。


 だが、視線は冷たかった。


 クリスは一歩下がる。


「……今のは、軽い冗談だ」


「そうですか」


 イリスの声は穏やかだった。


 だが、穏やかすぎた。


 フィアナも、リリアにしがみついたまま、静かにクリスを見る。


「クリスさん」


「何だ、フィアナ」


「そういうところです」


「どういうところだ」


「そういうところです」


「説明になってないぞ」


「説明しなくても分かってください」


 クリスは少しだけ困った顔をした。


 レオンは、面倒そうに書類へ視線を戻そうとする。


 だが、クリスはすぐに咳払いをして、話題を戻した。


「とにかく、今度俺が正体を見定めてやる。幽霊なのか、人なのか、それともただの見間違いなのか」


 その横で、リリアが少しだけ手を上げた。


「あの」


 レオンが目を向ける。


「何だ」


「私も、少し行ってみたいです」


 メリーが、ココの服をつかんだままリリアを見る。


「リリアさん、怖くないのですか?」


「怖いです」


 リリアは素直に頷いた。


「でも、少し興味があります」


「興味」


「はい。白い影が何なのか、少しだけ気になります」


 クリスは面白そうに笑った。


「リリアが来るなら、親衛隊の連中もついてくるだろうな」


 ライの顔が、ぱっと明るくなった。


「それなら大丈夫ですね」


「急に元気になったな」


「親衛隊の方々が来てくださるなら、かなり安全です」


「お前も親衛隊員じゃなかったか?」


 クリスが言った。


 ライは、少しだけ視線を逸らした。


「親衛隊員だからこそ、そういうものには敏感なんです」


「そういうもの?」


「幽霊とか、怪異とか、よく分からないものです」


「つまり怖いだけだろ」


「違います。敏感なんです」


「言い方を変えただけじゃないか」


「クリスさんが鈍感すぎるだけです」


「俺が鈍感?」


「はい」


「俺は冷静なだけだ」


「幽霊かもしれないものを見に行こうとしている時点で、冷静ではありません」


「俺がいるだろ」


「幽霊相手に頼りになるかは、まだ分かりません」


 ライは真剣だった。


 その横で、ココがリリアの右手にしがみついた。


「リリアさんが行くなら、私も行きます」


 続いて、フィアナがリリアの左手にしがみつく。


「では、私も行きます」


 リリアが左右を見た。


「ココさん、フィアナさん」


「リリアさんのそばにいます」


「私もです」


 さらに、メリーはココの服をつかんだままだった。


 結果として、リリアの右にココ、左にフィアナ、ココの服にメリーがしがみつくという、よく分からない塊が第一執務室にできた。


 レオンは、その光景を見て、深く息を吐いた。


「お前たちは行くな」


「お兄様」


「駄目だ」


「でも、面白そうです」


 リリアが小さく言う。


 その瞬間、レオンの目が細くなった。


 いつもの面倒そうな目ではない。


 はっきりと怒っている時の目だった。


「リリア」


「……はい」


「深夜だ。しかも建設中の区画だ。足場もある。資材もある。明かりも少ない。危ない」


「はい」


「それに、クリスと一緒に行かせるのもよくない」


「俺の扱いがひどくないか」


「ひどくない」


 レオンは即答した。


 クリスが何か言おうとしたが、イリスの視線を受けて黙った。


 リリアは少し残念そうにしながらも、頷いた。


「分かりました。やめます」


「そうしろ」


 ココとフィアナも、リリアにしがみついたまま小さく頷いた。


 メリーも、ようやくココの服から少しだけ手を離す。


 ライは、そこで気づいたように顔を上げた。


「あの、では親衛隊の方々は」


「リリアが行かないなら来るわけがないだろ」


 レオンが言った。


 ライの顔から、さっき戻った血の気がまた引いた。


「……そうですね」


 クリスがライの肩を叩く。


「じゃあ、俺とライの二人だな」


「嫌です」


「早いな」


「幽霊が得意ではないと、何度も言っています」


「まだ幽霊と決まったわけじゃない」


「幽霊かもしれないものを見に行く時点で、十分嫌です」


 ライは真剣だった。


 その時、第一執務室の隅にいた別の若い文官が、静かに書類をまとめ始めた。


 コウである。


 ライがそちらを見る。


「コウ」


「何だ」


「お前も行かないか」


「行かない」


 返事は早かった。


「まだ詳しく説明していない」


「説明されても行かない」


「友人だろう」


「友人だからこそ、止める。行かない方がいい」


「だったら一緒に止めに来てくれ」


「俺は、そういうのにはあまり興味がない」


 コウは書類を抱えた。


「それに、今日は少し体調が悪い気がするので、早退します」


「今、作っただろう」


「失礼します」


 コウは丁寧に頭を下げると、そのまま第一執務室から出ていった。


 ライは、見捨てられた顔で扉を見る。


 クリスは笑った。


「安心しろ。代わりに何人か呼んでやる」


「本当に頼れる人をお願いします」


「任せろ」


「今の返事が、一番不安です」


「失礼な奴だな」


 クリスはそう言って笑った。


 レオンは、すでに書類へ視線を戻している。


 イリスは、静かにため息をついた。


 窓の外では、また工事の音が響いた。


 完成していない副長府。


 昼は工事の音が鳴り、夜は白い影が歩くという噂がある。


 その噂の正体は、まだ誰にも分からない。


 少なくとも、この第一執務室にいる者たちには、まだ分からなかった。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 クリス・ラングレーが、余計な好奇心を出した。


 そして、ライが巻き込まれた。


 それだけで、何かが起きる条件としては十分だった。


 この時、レオンたちはまだ知らない。


 この軽い思いつきが、また別の騒ぎを呼ぶことになるとは。

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