第2章39話 副長府の意味
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
メリーが、机の上に一枚の書類を置いた。
表題には、短くこう書かれている。
複数部隊運用教育案。
レオンハルト・ヴァイスは、その文字を見ただけで嫌な顔をした。
「また教育か」
「はい」
「今度は何だ」
「各大隊長へ通達するための資料です」
「通達?」
「はい。現時点では、全体訓練を始める段階ではありません」
メリーは、さらに数枚の書類を机に置いた。
「まずは各大隊長に、この考え方を読ませます」
「読ませるだけか」
「はい」
「それなら楽だな」
「楽ではありません」
メリーは即答した。
レオンの顔が、さらに嫌そうになる。
「なぜだ?」
「読んで理解させるのが、一番大変だからです」
「そういう言い方をするな」
「事実です」
メリーは表情を変えなかった。
「お兄様」
「何だ」
「現在、お兄様の下にあるのは、騎士団そのものではありません」
「大隊だな」
「はい。大隊です」
メリーは頷いた。
「騎士団単位で独立して完結しているわけではありません」
「各大隊を組み合わせ、必要に応じて動かす」
「つまり、部隊同士が連動しなければなりません」
レオンは、机の上の書類を見る。
複数部隊運用教育案。
嫌な名前だった。
「連動なら、現場でやっているだろう」
「していません」
メリーは即答した。
第一執務室の空気が、少しだけ止まった。
リリアが小さく瞬きをする。
イリスは黙っていた。
レオンだけが、ゆっくりと顔を上げる。
「今、何と言った」
「できていません、と申し上げました」
メリーは、少しも怯まなかった。
「現在の各大隊は、強い個人と、強い小集団の集まりです」
「それで十分だ」
「十分ではありません」
「騎士への侮辱か?」
「違います」
メリーは、そこで一度だけ書類に目を落とした。
「その考え方が、古いのです」
さらに空気が止まった。
リリアが、今度は少しだけ目を大きくする。
イリスは何も言わない。
レオンは、静かにメリーを見ていた。
「メリー」
「はい」
「もう一度言ってみろ」
「その考え方が、古いのです」
メリーは、もう一度はっきりと言った。
「騎士が強ければ勝てる」
「隊長が前へ出れば兵が続く」
「敵を見たら突っ込めばいい」
「そういう戦い方で通用する場面もあります」
「ですが、副長府がこれから扱うのは、そういう規模ではありません」
レオンは黙る。
メリーは続けた。
「前へ出る部隊があるなら、それを支える部隊が必要です」
「傷ついた部隊があれば、交代する部隊が必要です」
「交代した部隊が下がったなら、すぐに前へ出る部隊が必要です」
「戦いながらも、補給を続ける部隊が必要です」
「負傷者を下げる部隊も、伝令も、予備も必要です」
メリーは、机の上の書類に指を置いた。
「それらが別々に動いていては駄目です」
「一つの生き物のように動かなければなりません」
「前が動けば、後ろが支える」
「後ろが支えれば、前が踏み込む」
「傷つけば下がる」
「下がれば、別の部隊が前に出る」
「下がった部隊は補給を受け、整え直し、また戻る」
「それを全ての大隊が同じ考え方で行えるようにする」
「そのための教育です」
レオンは、少しだけ目を細めた。
「つまり、各部隊に退き方を教えるのか」
「はい」
「騎士に退けと教えるのか」
「負けるためではありません」
メリーの声は静かだった。
「勝つためです」
レオンの目が、わずかに動いた。
「勝つために退くのか」
「はい」
「古い騎士なら、嫌がるな」
「嫌がると思います」
「俺も嫌だ」
「お兄様は、そういうところが古いのです」
「お前、今日かなり言うな」
「必要なので申し上げています」
メリーは淡々としていた。
レオンは少しだけ苦笑した。
「痛いところを突いてくるな」
「痛いところだからこそ、申し上げています」
「本当に容赦がない」
「必要ですので」
レオンは、机の上の書類を指で軽く叩いた。
「だが、そういうところは助かる」
メリーが、わずかに瞬きをした。
「助かる、ですか?」
「ああ」
「俺に真正面から、古いだの間違っているだのと言える奴は、あまりいない」
イリスは静かに目を伏せた。
「私には、軍事に関する現場経験がありません」
レオンは頷いた。
「だから、お前が言ってくれるのは助かる」
「ありがとうございます、お兄様」
「ただし、腹は立つ」
「必要ですので」
「最近、イリスに似てきたな」
メリーの表情が、ほんの少しだけ動いた。
「お姉さまに、ですか」
「ああ」
「光栄です」
メリーは、明らかに少しだけ嬉しそうだった。
「お姉さまにできないところは、私がやります」
イリスが静かにメリーを見る。
メリーは、少しだけ背筋を伸ばした。
「お兄様が古い考え方をされた時も、私が申し上げます」
「それは助かるな」
「はい」
「助かるが、やはり腹は立つ」
「必要ですので」
「お前たちは本当に似てきたな」
イリスは否定しなかった。
メリーも、少しだけ嬉しそうにしていた。
レオンは、もう一度書類へ視線を落とした。
メリーは淡々と説明を続ける。
「お兄様は強いです」
「急に何だ」
「ですが、全員がお兄様のように強いわけではありません」
レオンは黙った。
「本当に強い騎士は、前へ出られます」
「多少無理をしても通せます」
「孤立しても、敵を崩せます」
「ですが、そのような騎士は全体のほんの一部です」
「ほとんどの騎士は、それなりに強く、それなりに疲れ、それなりに傷つきます」
レオンは何も言わない。
メリーは、言葉を続けた。
「その騎士たちを、戦えるまま維持する仕組みが必要です」
「一部の強い者だけで戦場を支えるのではありません」
「全体で相互に支え、戦えるようにするのです」
「ですから、本当に強い者ほど、自分が前へ出ることだけではなく、全体をどう動かすかを考えなければなりません」
「それが、総騎士団副長兼統括統合管理官として必要な考え方です」
レオンは、深く息を吐いた。
「俺に言っているのか」
「はい」
「各大隊長への通達ではなかったのか」
「まずお兄様に理解していただく必要があります」
「俺が理解していない前提で話すな」
「先ほど、騎士への侮辱かと仰いました」
「……」
「ですので、理解していただく必要があります」
レオンは額に手を当てた。
メリーは、さらに書類を差し出した。
「こちらが各大隊長へ渡す通達文です」
「まだあるのか?」
「はい」
「多い」
「大隊長には、この程度は知っておいていただかないと困ります」
「困るのか?」
「困ります」
メリーははっきりと言った。
「総騎士団副長府の下で部隊を預かる大隊長として」
「そして、今後、複数部隊を連動させて動かす立場として」
「最低限、この考え方は共有していただく必要があります」
レオンは書類を受け取らなかった。
だが、目は逸らさなかった。
「通達だけで済むのか?」
「最初は」
「最初は、か」
「はい。まず読ませます」
「次は」
「理解したか確認します」
「その次は」
「実地訓練に移します」
「結局増えるじゃないか」
「必要な過程です」
イリスが静かに言った。
レオンはイリスを見る。
「お前まで言うな」
「必要ですので」
リリアが少し困ったように笑う。
「お兄様、頑張ってください」
「リリア」
「はい」
「今、味方がいない」
「お茶はお出しします」
「……それだけが救いだな」
メリーは、その兄妹のやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
だが、今は何も言わなかった。
代わりに、話を戻す。
「副長府は、現場の上に乗る重しではありません」
「書類を増やすだけの場所でもありません」
「複数の大隊を、一つの戦力として組み直す場所です」
「大隊同士が連動して動く」
「その大隊を束ね、必要な場所へ動かす」
「いくつもの部隊が一つのまとまりとして動いた時、初めて現場にも分かります」
「副長府が、何のために作られたのか」
レオンはしばらく黙っていた。
第一執務室に、外の工事の音だけが響く。
石を叩く音。
木材を運ぶ音。
まだ完成していない副長府庁舎の音。
レオンは、深く息を吐いた。
「……通達だけだな」
「はい。今回は」
「今回は、という言葉が嫌だ」
「正確に申し上げています」
「出せ」
レオンは低く言った。
「各大隊長に通達する」
メリーは静かに礼をした。
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「承知しています」
そこで、メリーは少し厚めの書類束を机に置いた。
音が重かった。
レオンの目が、その書類束に向く。
「何だ、それは」
「こちらも、覚えておいてください」
「何をだ?」
「今後、必要になる考え方です」
「今、通達を許可したばかりだろう」
「はい」
「増やすな」
「増えます」
メリーは淡々と言った。
「次は、騎士団長候補を育てるための新しい仕組みについてもご相談します」
レオンは、完全に動きを止めた。
「……騎士団長候補」
「はい」
「候補を育てる仕組み」
「はい」
「後日でいいな?」
「はい。本日は概要だけです」
「概要も置くな」
「置きます」
メリーは、厚めの書類束を机の端へきちんと揃えた。
レオンは、両手で頭を抱えた。
「副長府を作った奴を呼べ!」
「お祖父様です」
メリーが少し笑いながら答える。
「あのクソじじいが……」
レオンはしばらく頭を抱えたまま、動かなかった。




