第2章幕間8 姫様の肖像画/続リリア誘拐事件
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・親衛隊室
姫様が誘拐された。
そう叫ばれた騒動は、最終的にリリア本人ではなく、親衛隊室に飾られていた肖像画が持ち出された事件だったと判明した。
しかも、その肖像画を抱えて見つかったのは、親衛隊員古参の一人、ランドである。
親衛隊長のエゼル。
副隊長のマフガラン。
数人の親衛隊員。
ライ書記官。
そして、なぜかクリス。
その前で、ランドは深く頭を下げていた。
「どういうことだ」
エゼルが静かに問う。
ランドはうつむいたまま、小さな声で答えた。
「申し訳ありません。私が、肖像画を持ち出しました」
「なぜだ」
「……今日、梱包される予定だったからです」
「梱包?」
クリスが思わず聞いた。
ランドは答えられない。
代わりに、ライ書記官が少し身を乗り出した。
「持ち出されたのは、『春の女神』です」
「題名があるのか?」
「当然です」
「もうその当然が分からない」
「姫様会報にも、販売予定として出ていました。今号の目玉でした」
「会報の目玉が肖像画なのか?」
「はい。礼拝堂から下げられた肖像画が個人向けに出る機会は、まずありませんので」
ライ書記官は真面目だった。
かなり真面目だった。
「僕も本当は欲しかったんですけど」
クリスはライ書記官を見た。
「お前も欲しかったのか」
「当然でしょう」
「あれがあれば、姫様に話しかけることができます。それに、いつ見ても微笑んでくださっているように見えます」
「……あれは絵だ」
クリスは低く言った。
「いい加減、本人と話せ……」
「ですが、金貨三十五枚は僕にも無理でした。よほど余裕のある方でなければ買えません」
「そこだけ冷静だな」
「欲しいことと、買えることは別です」
「急にまともなことを言うな」
クリスは頭を押さえた。
そこで、エゼルが補足する。
「礼拝堂の肖像画は、時期によって掛け替えています。季節や行事に合わせ、いくつかの絵を入れ替えるのです」
「何枚あるんだ」
「それほど数はありません」
「だろうな、あの値段では」
「『春の女神』は、その中の一枚でした。二十号ほどで、個人で飾るには十分ですが、礼拝堂で皆が見るには少し小さい」
「皆で見る前提なのか」
「当然です。礼拝堂に飾るものですから」
「やっぱり分からない」
「そのため、今回は個人向けにこの一枚だけ販売へ回すことになりました」
「一枚だけか」
「はい。本来なら、その一枚も手放したくはありません」
マフガランが低い声で続ける。
「ですが、資金が必要です」
「活動資金か」
「はい。町での支援活動、貧しい方々への援助、通学路の見守り、危険箇所の確認などです」
「途中までは普通に立派なんだよな」
「すべて必要な活動です」
マフガランは真面目だった。
「姫様は、困っている方を助ける活動をとてもお喜びになります。ならば、我々はその活動を続けなければなりません」
「それで肖像画を売るのか」
「苦渋の判断です」
「金貨三十五枚で?」
「価値を考えると値段には不満ですが」
「いや、十分高い苦渋だ」
「高くありません。姫様の肖像画です」
「そこに戻るな」
クリスは、もう一度頭を押さえた。
「それで、買い手はついていたんだな」
「はい」
エゼルが頷く。
「そろそろ梱包し、引き渡しの準備に入る予定でした」
「そこをランドが持ち出したわけか」
「その通りです」
エゼルの声が少し低くなる。
「販売前の品を勝手に持ち出しただけではありません。姫様の名で行う支援活動の資金を妨げたことにもなります」
親衛隊室の空気が、少し重くなった。
ランドはうつむいたまま、肩を震わせている。
クリスは、ちらりとランドを見た。
「それは、普通にまずいな」
「はい」
マフガランは厳しい声で言った。
「姫様への想いを理由に、姫様がお喜びになる活動を妨げる。それは本末転倒です」
「そこは正しい」
クリスは小さく頷いた。
「親衛隊なのに、たまに正しいことを言うな」
「常に正しいつもりです」
「そこは自信を持つな」
その時、ライ書記官が礼拝堂の奥へ視線を向けた。
「ですが、クリスさんも分かるはずです」
「何がだ」
「姫様の肖像画には、人を惹きつける力があります」
「急に大きな話にするな」
「クリスさんだって、『青き風の姫君』に魅せられていましたよね」
クリスは黙った。
礼拝堂の中心には、以前にも見たことのある一枚が飾られている。
風の中に立つリリアの肖像画。
題は『青き風の姫君』。
少しブラウンが混じった長い金髪が、光を受けて柔らかく輝いている。
髪は風に流され、肩のあたりで淡く揺れていた。
青いリボンが風にたなびき、金色の髪の中で小さく揺れている。
以前見た時も思った。
確かに、絵としてはよくできている。
構図もいい。
光の使い方もいい。
リリア本人の雰囲気も、腹立たしいほど出ている。
人気が出るのも分かる。
分かってしまうのが、少し嫌だった。
「黙りましたね」
ライは満足そうに微笑む。
「黙っていない」
「何も言っていません」
「言う必要がないだけだ」
「では、魅せられていないのですか?」
「……話を戻すぞ」
クリスは強引に視線を外した。
「あの『青き風の姫君』は売らないのか」
「売りません」
マフガランが即答した。
「即答だな」
「あれは礼拝堂の中心に飾るための肖像画です。買いたいと言う者はいますが、販売しません」
「金貨百枚でもか」
「売りません」
「二百枚でも?」
「売りません」
「お前ら、そこだけは金で動かないんだな」
「姫様への敬意は、金銭で測るものではありません」
マフガランは厳かに言った。
クリスは黙った。
その直前まで、金貨三十五枚で『春の女神』を売ろうとしていた組織の言葉とは思えなかった。
「つまり、『青き風の姫君』は売らないが、『春の女神』は売るのか」
「はい」
「基準が分からん」
「格が違います」
ライ書記官が真面目に言った。
「何の格だ」
「姫様の肖像画としての格です」
「ますます分からん」
クリスは、もう考えるのをやめた。
エゼルは、改めてランドへ視線を戻す。
「ランド」
「はい」
「説明を続けろ」
ランドは震える声で答えた。
「……私は、『春の女神』と離れたくありませんでした」
室内が、少し静かになる。
「この肖像画は、私にとって特別でした」
「特別」
ライ書記官が小さく繰り返す。
ランドは顔を上げないまま続けた。
「毎朝、出勤するとまず、この肖像画に挨拶をしていました。仕事へ向かう前にも、無事に務めを果たせるよう祈っていました。失敗した日も、嬉しいことがあった日も、悲しいことがあった日も、私はこの肖像画へ報告していました」
親衛隊員たちが、わずかに顔を見合わせた。
クリスは眉をひそめる。
「……報告?」
「はい」
ランドは真剣だった。
「今日、書類運びで失敗しました、とか」
「報告するな」
「姫様のために廊下のごみを拾いました、とか」
「それも報告するな」
「朝食の豆が少し硬かったですが、午後も頑張ります、とか」
「それはもう関係ないだろ」
クリスが突っ込む。
だが、ランドは止まらなかった。
「私は、この肖像画に何度も救われました。苦しい時、ここへ来て祈ると、まだ頑張れると思えました。悲しい時、ここで話しかけると、少しだけ心が軽くなりました。嬉しい時も、まず報告したくなるのはこの肖像画でした」
親衛隊員たちが、一歩下がった。
ライ書記官も少しだけ後ろへ下がった。
マフガランでさえ、わずかに眉を動かす。
「ランド」
エゼルが静かに言う。
「続けろ」
「続けさせるのか」
クリスが言ったが、エゼルは真剣だった。
ランドは、さらに深く頭を下げた。
「この肖像画は、私にとって一番の友人でした」
親衛隊室の空気が、少し変わった。
「友人」
ライ書記官が小さく呟く。
「はい。私の言葉を、いつも黙って聞いてくださいました」
「絵だからな」
クリスが言った。
誰も反応しなかった。
「どんなに情けないことを言っても、責めることなく、ただそこにいてくださいました」
「絵だからな」
クリスはもう一度言った。
やはり、誰も反応しなかった。
ランドは、さらに声を震わせる。
「そして、私にとって一番の理解者でもありました」
親衛隊員たちが、さらに一歩下がった。
「理解者」
「はい」
「絵だぞ」
クリスが言う。
ランドは聞いていなかった。
「私の喜びも、悲しみも、迷いも、全部受け止めてくれたのは、この肖像画だけでした」
「ランド」
マフガランが低い声で言った。
「少し待て」
「いえ、言わせてください」
「待てと言っている」
ランドは止まらなかった。
「この肖像画は、私にとって一番の友人で、一番の理解者で」
そこで一度、息を呑む。
「一番の恋人のような存在でした」
室内が凍った。
親衛隊員たちは、揃って二歩下がった。
ライ書記官も完全に下がった。
マフガランは眉間に深い皺を寄せた。
エゼルでさえ、少しだけ沈黙した。
クリスは、心底嫌そうな顔をする。
「お前らに引かれるって、相当だぞ」
誰も否定しなかった。
ランドは、自分だけがまだ真剣だった。
「この肖像画がなくなると聞いた時、私は耐えられませんでした」
「金貨三十五枚は払えなかったのか」
「払えませんでした」
「だから盗んだのか」
「はい」
ランドの声は震えていた。
「この肖像画がなければ、私は生きていけないと思ったんです」
親衛隊室の空気が、さらに重くなる。
重いというより、少し引いていた。
いつもなら同調しそうなライ書記官でさえ、完全に口を閉じている。
マフガランも、ゆっくり口を開いた。
「ランド」
「はい」
「姫様への敬意は分かる」
「はい」
「だが、それは重い」
親衛隊室に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
クリスは小さく頷いた。
「今のは正しい」
「それに」
マフガランは厳しい声で続けた。
「姫様への敬意を、自分の欲に変えてはならない」
ランドの肩が震える。
「会報も肖像画も、姫様への敬意を失わぬために管理されている。まして『春の女神』は、姫様がお喜びになる支援活動のため、苦渋の判断で販売に回した一枚だ」
「はい」
「それを、自分だけのものにしようとするのは間違っている」
「はい」
「姫様への想いを理由に、姫様がお喜びになる活動を妨げるなど、親衛隊員としてあってはならない」
「はい」
エゼルはしばらく黙った。
そして、静かに言った。
「ランド。お前の徽章を預かる」
ランドの顔が青ざめた。
「徽章を……」
「没収ではない。預かる」
エゼルの声は厳しかった。
「反省の色が見えれば返す。だが、それまでは親衛隊員としての行動を停止する」
「登録も抹消ですか」
「抹消はしない」
マフガランが言った。
「ただし、しばらく活動停止だ。会合への参加、会報の優先購入、徽章保持者としての特典利用も止める」
ランドは、その場で膝をつきそうになった。
「会報の優先購入も……」
「当然だ」
「肖像画の抽選参加も、ですか」
「当然だ」
「礼拝堂への入室は」
「一定期間、禁止だ」
ランドは、今度こそ崩れ落ちそうになった。
「礼拝堂にも……」
「反省しろ」
「分かりました」
ランドは震える手で徽章を外した。
それをエゼルに差し出す。
エゼルは、厳粛な手つきで受け取った。
クリスは、その様子を見ながら、心底疲れた顔をしていた。
「肖像画を盗んで、徽章預かりか」
「重い処分です」
ライ書記官が言った。
「重いのか」
「重いです。徽章がないと、かなり困ります」
「まあ、会報が高くなるからな」
「それだけではありません」
ライ書記官は真面目に言った。
「徽章があれば、会報の優先購入、一部資料の閲覧、会合への参加、限定販売の案内など、さまざまな特典があります」
「やっぱり何の組織なんだ」
クリスは呟いた。
ランドは連れていかれた。
『春の女神』は回収され、改めて引き渡し前の確認をされることになった。
親衛隊員たちは、ほっと息を吐く。
だが、クリスだけはまだ納得していなかった。
「そもそも、肖像画一枚で金貨三十五枚も集められるなら、支援活動の資金としてはかなり大きいんじゃないのか」
「大きいです」
エゼルが答える。
「貧しい方々への援助、町の危険箇所の補修、通学路の見守りに必要な備品など、しばらくは安定して動けます」
「そこだけ聞くと本当にまともなんだよな」
「まともです」
「礼拝堂と会報と徽章特典がなければな」
「すべて必要です」
「全部必要なのか」
「必要です」
クリスは、もう何も言わなかった。
礼拝堂の奥では、『青き風の姫君』が静かに飾られている。
その前で、数人の親衛隊員が手を合わせていた。
「お前ら、いつも祈っているのか」
「祈る者もいます」
ライ書記官が答える。
「だから、ああいう人が出てくるんじゃないのか」
「ランドさんですか」
「そうだよ」
「否定はできません」
「できないのか」
「姫様の肖像画は、それほど強いので」
「何が強いんだ」
ライ書記官は真顔で答えた。
「姫様です」
「もういい」
クリスは考えるのをやめた。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
その頃。
レオンは第一執務室に戻っていた。
机に向かっているが、仕事はあまり進んでいない。
ライ書記官の叫び声。
姫様がさらわれたという言葉。
リリアの無事。
イリスの無事。
第一執務室の女性陣を少し敵に回したクリス。
姿絵の盗難。
それらが、頭の中で順番に並んでいる。
そして、最初に自分が取ろうとした行動も。
衛兵隊を使おうとして、できなかった。
なぜなら、解散させたからである。
近衛を動かそうとして、できなかった。
なぜなら、自分が全員を夜勤に回したからである。
自分で行こうとして、少し迷った。
なぜなら、イリスに昼までに終わらせるよう言われていた書類があったからである。
レオンは、重く息を吐いた。
「……昼間の警備体制は、必要だな」
自分でそうしておいて、今さらそう思うのはどうかとも思う。
だが、誘拐という言葉を聞いた時、すぐ動かせる者がいないのは問題だった。
もちろん、今回は姿絵だった。
姿絵である。
だが、本当に何かが起きた時、すぐ動ける仕組みは必要だ。
レオンは、机の上の書類を一枚取った。
庁舎内緊急対応体制。
新しい見出しを、紙の上に書く。
そこまで書いて、手が止まった。
廊下の向こうから、クリスの疲れ切った声が聞こえた。
「レオン!」
「何だ」
「親衛隊は分からん!」
「今さらだ」
「姿絵一枚で金貨三十五枚だぞ!」
「何の話だ」
「俺にも分からん!」
レオンは、紙の上に置いたペンを見た。
緊急対応体制。
衛兵隊。
近衛。
親衛隊。
姿絵。
金貨三十五枚。
イリス。
どれから考えればいいのか分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
その日、レオンハルト・ヴァイスは理解した。
昼間の警備体制は、やはり必要かもしれない。
少なくとも、親衛隊に任せるよりは。




