第2章38話 副長の本当の家
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 ヴァイス家屋敷――
翌朝。
レオンは、いつもより早く目を覚ました。
実家にいるからか、なぜか副長府へ遅れる気がして落ち着かなかった。
身支度を済ませ、客室を出る。
廊下には、朝の空気が流れていた。
屋敷の中に、焼きたてのパンの香りが広がっている。
その香りを嗅いだ瞬間、レオンは少しだけ懐かしい気持ちになった。
昔は、これが当たり前だった。
屋敷で目を覚まし、食事を取り、仕事へ向かう。
だが今では、それが珍しいことになっている。
廊下を歩いていると、向こうから父が来た。
レオンは足を止める。
「父上」
父も足を止めた。
「レオンか」
「はい」
「久しぶりだな」
「……はい」
「もう行くのか」
「副長府へ向かいます」
「そうか。忙しいだろうが、体には気をつけろ」
「はい」
父は短く頷き、そのまま歩いていった。
あまりにも普通だった。
二ヶ月ぶりに屋敷で顔を合わせた息子への言葉が、久しぶりだな、もう行くのか、体には気をつけろ。
それだけだった。
怒られるよりはいい。
大騒ぎされるよりもいい。
だが、感動も驚きもない。
レオンは少しだけ廊下に立ち止まり、父の背中を見送った。
気を取り直して、食堂の方へ向かう。
すると、今度は母と鉢合わせた。
母、セレナはレオンを見て、穏やかに微笑んだ。
「あら、レオン」
「母上」
「久しぶりね」
「……はい」
「もう出るの?」
「はい。副長府へ」
「朝食は?」
「時間がありません」
「そう。では、無理はしないのよ」
「はい」
セレナはいつも通りの柔らかな声でそう言い、そのまま食堂へ入っていった。
レオンは廊下に残された。
母も、普通だった。
あまりにも普通だった。
二ヶ月ぶりに息子が屋敷で朝を迎えたことに、特別な驚きも、感慨もない。
久しぶり。
もう出るの。
無理はしないのよ。
それだけである。
レオンは小さく息を吐き、玄関へ向かった。
その途中で、リリアに会った。
朝の光が差し込む廊下に、リリアは静かに立っていた。
少しブラウンの混じった長い金髪が、柔らかく肩へ流れている。
制服姿でも、硬さより温かさが先に立つ。
手には小さな書類挟みを抱えていたが、なぜかその横に細い修理用のレンチまで持っている。
リリアらしい。
そう思ってしまう自分がいた。
「お兄様?」
リリアが目を瞬かせた。
次の瞬間、少し慌てたようにこちらへ歩み寄ってくる。
「お兄様、昨夜お戻りになっていたのですか?」
「ああ」
「申し訳ありません。気づきませんでした」
「いや、いい」
「お迎えにも伺えず、お部屋のことも……あの、何か緊急のご用件だったのですか?」
レオンは黙った。
リリアの声は、本気で心配していた。
悪気など、まったくない。
昨夜急に戻ってきた兄を見て、何かあったのではないかと慌てているだけである。
だからこそ、余計に刺さった。
「……用件がなければ、帰ってきてはいけないのか?」
「え?」
リリアが目を瞬かせる。
「あ、いえ、そういう意味ではありません。ただ、お兄様はずっとお忙しそうでしたので、急にお戻りになるなら、何かあったのかと……」
「何もない」
「そうなのですね」
リリアは胸元に手を当て、ほっと息を吐いた。
「よかったです」
その安心の仕方も、レオンには少し刺さった。
自分が実家へ戻ることは、妹にとって緊急事態を疑うほど珍しいことになっていたらしい。
「お兄様、朝食は召し上がりますか?」
「副長府で食べる」
「そうですか。では、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ああ」
リリアが小さく手を振る。
それを見て、近くにいた使用人がなぜか少し嬉しそうな顔をした。
レオンは何も見なかったことにして、屋敷を出た。
帰った。
確かに、実家に帰った。
だが、玄関では不審者扱いをされた。
自分の部屋は物置になっていた。
客室で一晩を過ごし、翌朝には父と母にあまりにも普通に見送られた。
妹には、緊急の用件かと心配された。
レオンは馬車の中で、額に手を当てた。
あれを帰宅と呼んでいいのかは、まだ分からなかった。
――同日朝 ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・談話室
副長府へ着くと、レオンはすぐには第一執務室へ入らなかった。
朝の空気が、まだ庁舎の中に残っている。
廊下を歩く足音も、書類を運ぶ音も、いつもより少しだけ遠く聞こえた。
レオンは談話室へ入り、置かれていた茶を一杯もらった。
実家で朝食を取る気に、あまりなれなかった。
茶杯を手にしたまま、椅子に腰を下ろす。
そこで、入口からクリスが顔を出した。
「レオン」
「クリス」
「昨日は屋敷に戻ったんだろう?」
「ああ」
「なら、少しは休めたのか?」
レオンは茶杯を見下ろした。
湯気が、ゆっくりと揺れている。
「お前のおかげで、屋敷には帰れた」
「そうか」
クリスは少しだけ安心したように頷いた。
「イリス殿下に話しておいてよかったな」
「そこは、まあ、感謝している」
「なら、よかったじゃないか」
「そう思うか?」
レオンの声が少し沈んだ。
クリスは椅子を引き、向かいに座る。
「何があった?」
「玄関で、不審者扱いされた」
「……屋敷でか?」
「屋敷でだ」
クリスは黙った。
レオンは茶を一口飲む。
「新しいメイドが、俺を知らなかった」
「それは、まあ仕方ない部分もあるだろう」
「少し前からいるメイドが助けに入った」
「なら、よかったじゃないか」
「そのメイドが、俺の名前を間違えた」
クリスは目を閉じた。
「……それは」
「別のメイドが、部屋まで案内しようとしてくれた」
「今度こそ、よかったんじゃないか?」
「俺の部屋の場所を忘れていた」
「……屋敷でか?」
「屋敷でだ」
「続けろ」
「自分で行ったら、部屋の前に荷物が積まれていた」
「荷物?」
「木箱、椅子、敷物、燭台」
「なぜ?」
「別の使用人に、そこは物置だと言われた」
クリスは、今度こそ何も言わなかった。
少しして、ゆっくりと息を吐く。
「お前の部屋が、物置になっていたのか?」
「ああ」
「二ヶ月で?」
「二ヶ月で」
「早いな」
「俺もそう思う」
「それで、どうした」
「メイド長が来て、客室を用意された」
「客室」
「ああ」
「屋敷で?」
「屋敷で」
「自分の部屋ではなく?」
「昨日は結局、客室で寝た」
クリスは、何とも言えない顔をした。
笑っていいのか、心配すべきなのか、判断に迷っている顔だった。
「朝は?」
「父上と母上に会った」
「二ヶ月ぶりだろう。さすがに心配されただろう」
「久しぶりだな、と一言」
「普通だな」
「普通だった」
「それだけか」
「もう行くのか、体には気をつけろ、と」
「……普通だな」
「普通だった」
レオンは、茶杯を机に置いた。
「母上にも、久しぶりね、もう出るの、と言われた」
「それも普通だな」
「普通だった」
「二ヶ月ぶりなのにな」
「ああ」
淡白すぎた。
怒られるよりはいい。
大騒ぎされるよりもいい。
だが、何もなさすぎるのも、それはそれで刺さる。
クリスもそれを察したのか、少しだけ視線を落とした。
「リリアは?」
「緊急の用件だったのですか、と聞かれた」
「驚かせてしまったようだな」
「ああ」
レオンは茶杯を見下ろした。
「それが一番刺さった」
「リリアに悪気はないだろう」
「分かっている」
「だから刺さるんだな」
「ああ」
二人はしばらく黙った。
談話室の外では、朝の副長府が動き始めている。
廊下を歩く足音。
誰かの挨拶。
遠くで扉が開く音。
レオンにとっては、もう聞き慣れた音だった。
副長府の音。
仮眠室のすぐ近くで、毎朝聞いている音。
クリスが、静かに言った。
「それは、帰省ではないな」
「何だ?」
「ただの宿泊だ」
レオンは否定しなかった。
否定できなかった。
屋敷へ帰ったはずなのに、客室に泊まった。
自分の部屋は物置になっていた。
家族には、淡々と久しぶりと言われた。
リリアには、用件があって来たのだと思われた。
「クリス」
「何だ?」
「俺の実家は、屋敷のはずだった」
「ああ」
「俺の部屋は、屋敷にあるはずだった」
「ああ」
「だが、俺の部屋は物置になっていた」
「そうだな」
レオンは、茶杯を手に取った。
温かい茶を一口飲む。
副長府の談話室の茶だった。
いつもの味だった。
妙に落ち着いた。
「どうやら今の俺の本当の家は、副長府の仮眠室だったらしい」
クリスはすぐには答えなかった。
やがて、深く息を吐く。
「……それを納得するな」
「納得したくはない」
「なら、部屋を取り戻せ」
「まず荷物をどけるところからだな」
「本当に実家の話か?」
レオンは茶杯を置いた。
「俺が一番聞きたい」
しばらくして、廊下の向こうから人の動きが増えてきた。
第一執務室も、そろそろ本格的に動き出す時間である。
レオンは茶杯を戻し、ゆっくりと立ち上がった。
「行くか」
「仕事か」
「ああ」
「屋敷より落ち着いた顔をしているぞ」
「言うな」
レオンは談話室を出た。
二ヶ月ぶりに実家へ帰った翌朝。
レオンは、自分の家がどこなのか、少し分からなくなっていた。




