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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第2章 総騎士団副長編

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第2章37話 実家に帰れない副長

――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――


■総騎士団副長府庁舎・第一執務室


 レオンは、書類を読んでいた。


 読んでいるつもりだった。


 だが、視線は何度も同じ行をなぞり、内容が頭に入ってこない。


 冬初めの夕方。


 第一執務室には、いつものように紙の音が響いている。


 机の上には、まだ処理すべき書類が残っていた。


 残っている。


 なら、帰れない。


 そう思って、レオンは次の一枚へ手を伸ばした。


 その時、イリスが静かに近づいてきた。


「副長」


「何だ」


「本日は、ここまでにしてください」


「まだ残っている」


「残っています」


「なら」


「ですが、本日はここまでです」


 イリスは表情を変えなかった。


 レオンは顔を上げる。


「イリス」


「はい」


「理由を聞いてもいいか?」


「クリスさんから聞きました」


「クリスから?」


「はい。副長が、二ヶ月ほどお屋敷へ戻っていないと」


「二ヶ月ではない」


「では、どのくらいですか?」


「……二ヶ月弱だ」


「ほぼ二ヶ月です」


 イリスは静かに言った。


「それに、この前は第一執務室で寝ていましたよね」


「寝てはいない」


「寝ていました」


「少し目を閉じていただけだ」


「そのまま朝になっていましたが?」


 レオンは黙った。


 確かに、その日は椅子に座ったまま少しだけ目を閉じた。


 少しだけのつもりだった。


 だが、目を開けた時には朝だった。


 机の上には書類があり、肩には誰かが掛けた毛布があった。


 あれを寝ていないと言い張るのは、少し無理がある。


「それと、副長府の仮眠室は、住居ではありません」


「分かっている」


「第一執務室も、寝室ではありません」


「それも分かっている」


「分かっている方は、どちらも寝床にしません」


 レオンは反論できなかった。


 イリスは少しだけ声を落とす。


「そのような状態では、本当に体を壊してしまいます」


「仕事は残っている」


「残っています」


「お前たちの仕事も増える」


「増えます」


「なら」


「それでも、今日は帰ってください」


 イリスは、まっすぐにレオンを見た。


「これはお願いです」


 レオンは黙った。


「今日くらいは、私が見ます」


「イリス」


「ですから、副長はお屋敷へ戻って、ゆっくり休んでください」


「ゆっくり休めるほど、仕事は少なくない」


「それでも、今日は休んでください」


 イリスの声は、いつものように冷静だった。


 だが、ただ仕事を止めようとしている声ではなかった。


 本当に心配している。


 そう分かる声だった。


 レオンは、少しだけ目を伏せた。


 この前、クリスに、イリスが最近怖いというようなことを言った気がする。


 間違っていたわけではない。


 イリスは怖い。


 実際、今も書類を取り上げる気配がある。


 だが、それだけではなかった。


 こういうところを見ると、イリスにも優しいところはあるのだと思う。


 少しだけ、悪かったかもしれない。


「……分かった」


 レオンは、ようやく椅子から立ち上がった。


「今日は戻る」


「ありがとうございます」


 イリスは淡々と頭を下げた。


「明朝は、通常どおり副長府へお越しください」


「結局、明朝は通常どおりなのか?」


「はい」


「休ませる気があるのか?」


「今日は、お屋敷でお休みください」


 イリスは表情を変えずに言った。


 レオンは何も言い返せなかった。


 結局、上着を手に取り、第一執務室を出ることになった。


 二ヶ月ぶりの実家。


 それが、こんなふうに誰かに頼まれて戻るものだっただろうか。


 そう思いながら、レオンは副長府庁舎を後にした。


――同日夜 ヴァイス家屋敷――


 ヴァイス家の屋敷へ向かう道は、すっかり暗くなっていた。


 冬初めの夜気は冷たい。


 馬車の窓から見える屋敷の灯りは、昔から見慣れたものだった。


 だが、二ヶ月ぶりに見ると、どこか遠く感じる。


 実家である。


 自分の家である。


 そう言い聞かせるように、レオンは心晴れやかに屋敷の門をくぐった。


 玄関広間には、見慣れない若いメイドがいた。レオンが入ると、そのメイドは一瞬だけ顔を上げた。


 そして、すぐに表情を硬くした。


「どなたですか?」


 レオンは足を止めた。


「……どなた?」


「はい。ご用件をお伺いいたします」


 メイドは丁寧だった。


 だが、明らかに警戒している。


 夜に突然入ってきた知らない男。


 そのように見られていることが、レオンにも分かった。


「俺は、この家の者だ」


「この家の者、ですか」


 メイドは疑わしそうにレオンを見る。


 視線が、顔から外套へ、外套から靴へと移った。


 不審者を見る目だった。


「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「レオンハルト・ヴァイスだ」


 メイドは、ぴたりと動きを止めた。


 それから、慌てて背筋を伸ばす。


「も、申し訳ございません!」


 その声に、奥から別のメイドが顔を出した。こちらは、少し前に屋敷へ入った者だったはずだ。


 レオンは顔だけなら覚えていた。


 そのメイドは状況を見るなり、新人メイドの肩を軽く叩いた。


「何をしているのですか。この方は、ヴァイス家のご長男です」


「ご、ご長男……!」


「副長府にお勤めの、レオナルド坊ちゃまです」


 レオンは沈黙した。


 新人メイドも沈黙した。


 名前を間違えたメイドだけが、妙に堂々とした顔でレオンへ向き直る。


「お帰りなさいませ、レオナルド坊ちゃま」


「……レオンハルトだ」


 メイドの顔が、今度こそ青くなった。


「も、申し訳ございません、レオンハルト坊ちゃま!」


「いい」


 よくはなかった。


 実家に帰って最初に不審者扱いされ、次に名前を間違えられた。


 二ヶ月という時間は、思ったより長かったらしい。


 そこへ、さらに奥から年上のメイドがやってきた。


 先ほどの二人よりは、明らかに慣れている。


 彼女は二人を少し厳しい目で見た。


「お二人とも、何をしているのですか?」


「申し訳ございません」


「申し訳ございません」


 二人のメイドが頭を下げる。


 年上のメイドはレオンへ向き直り、きちんと礼をした。


「レオンハルト坊ちゃま。大変失礼いたしました」


 名前は合っていた。


 レオンは少しだけ安心した。


 そんな自分が、少し嫌だった。


「お部屋までご案内いたします」


「いや、いい。自分で行く」


「いえ、ここは私が」


 年上のメイドは、今度こそ失敗を取り返すという顔をしていた。


 レオンは断るのも面倒になり、頷いた。


「分かった」


「こちらでございます」


 メイドは廊下を進み始めた。


 レオンはその後ろを歩く。


 屋敷の廊下は見慣れている。


 見慣れているはずだった。


 だが、二ヶ月ぶりに歩くと、ところどころに知らない花瓶が置かれ、見覚えのない飾り棚が増えていた。


 ほんの少しだけ、他人の家のように見える。


 その感覚が、妙に嫌だった。


 メイドは廊下の角を曲がった。


 そして、途中で足を止めた。


「……」


 レオンも足を止める。


「どうした?」


「いえ」


 メイドは、廊下の奥と手前を見比べた。


 それから、少しだけ困った顔で振り返る。


「坊ちゃまのお部屋は、どちらでしたでしょうか?」


 レオンは黙った。


 メイドも黙った。


 後ろの新人メイドと、名前を間違えたメイドも黙った。


「俺に聞くのか?」


「申し訳ございません」


 年上のメイドは深く頭を下げた。


「しばらくお戻りになっていなかったため、私の記憶が曖昧でして」


「俺の部屋だぞ」


「はい。申し訳ございません」


 レオンは、ゆっくり息を吐いた。


「もういい。自分で行く」


「ですが」


「自分の部屋くらい覚えている」


 そう言うと、メイドはそれ以上止められなかった。


 レオンは一人で廊下を進んだ。


 子どもの頃から使っていた部屋である。


 場所を忘れるはずがない。


 この廊下を曲がり、奥から二つ目。


 そこが、自分の部屋だった。


 そう思って歩いていったレオンは、扉の前で足を止めた。


 扉の前に、荷物が積まれていた。


 木箱。


 布袋。


 使っていない椅子。


 季節外れの敷物。


 誰のものか分からない古い燭台。


 かなりの量だった。


 扉が半分ほど隠れている。


 レオンは、しばらくそれを見ていた。


 見間違いではない。


 自分の部屋の前に、荷物が積まれている。


 しかも雑に置かれているのではない。


 きちんと積まれている。


 つまり、一時的に置いたというより、しばらくここに置くつもりだったということだ。


「そこは物置ですよ」


 背後から声がした。


 振り返ると、別の使用人が布を抱えて立っていた。


「物置?!」


「はい。しばらく使わない物を置いております」


「……ここが?」


「はい」


 使用人は、何の疑問もない顔で頷いた。


「この部屋は、使われていなかったので」


 レオンは扉を見た。


 荷物を見た。


 もう一度、使用人を見た。


「ここは、俺の部屋だ」


 使用人の顔が止まった。


「え」


「俺の部屋だ」


「……申し訳ございません!」


 使用人が勢いよく頭を下げた。


 その声に、廊下の向こうからさらに数人が顔を出す。


 何事かと人が集まり始めた。


 レオンは、ただ自分の部屋に戻りたかっただけである。それなのに、屋敷の中では軽い騒ぎになりつつあった。


 少しして、メイド長が急いで現れた。


 年配の女性で、昔から屋敷を取り仕切っている。


 レオンの顔を見るなり、深く頭を下げた。


「レオンハルト坊ちゃま。お帰りなさいませ」


「ただいま、メイド長」


 ようやく何の間違いもない挨拶が返ってきた。


 そのことに安心してしまうのが、ますます嫌だった。


 メイド長は、扉の前に積まれた荷物を見る。


 それから、もう一度レオンへ頭を下げた。


「大変申し訳ございません。ただいま、お部屋の掃除中でございます」


「掃除中には見えないが」


「はい」


「物置に見える」


「……しばらくお戻りにならないものと思い、一時的に物を置かせていただいておりました」


「一時的に」


「はい。一時的にでございます」


 レオンは、積まれた木箱を見た。


 埃をかぶっているものもある。


 どう見ても、一時的ではなかった。


「今夜、使えるのか?」


 メイド長は、わずかに目を伏せた。


「申し訳ございません。すぐに整えるには、少しお時間をいただきます」


「どれくらいだ」


「明日以降であれば、必ず」


「今夜は」


「本日は、客室でお願いいたします」


 レオンは黙った。


 屋敷の廊下が、妙に静かになった。


 使用人たちは全員、視線を伏せている。


 誰も悪気があったわけではない。


 それは分かる。


 レオンが帰ってこなかった。


 部屋が空いていた。


 物を置いた。


 それだけの話である。


 それだけの話なのだが。


「……俺は、実家に帰ってきたはずなんだが」


 誰も答えなかった。


 メイド長が、丁寧に頭を下げる。


「本日は、客室でお休みくださいませ」


 レオンは、自分の部屋の前に積まれた荷物をもう一度見た。


 それから、静かに頷いた。


「分かった」


 二ヶ月ぶりに実家へ帰った夜。


 レオンは、自分の部屋ではなく、客室で眠ることになった。


 寝台は清潔だった。


 布団も柔らかい。


 部屋も整っている。


 悪くはない。


 悪くはないのだが。


 ここは、客の部屋だった。


 レオンは天井を見上げながら、しばらく黙っていた。


 副長府の仮眠室は狭い。


 寝台も簡素で、壁も飾り気がない。


 近くには、いつも書類の気配がある。


 それでも、あそこには自分の毛布があり、自分が倒れ込む場所があった。


 少なくとも、誰かに客室へ案内されることはない。


 イリスに、今日は屋敷でゆっくり休んでくださいと言われた。


 確かに屋敷へは戻った。


 だが、ゆっくり休めたかどうかは、かなり怪しかった。


「……考えるのはやめよう」


 レオンは目を閉じた。


 考えると、少し悲しくなりそうだった。

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