第2章36話 最近イリスが怖い
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・小休憩室
最近、レオンには一つ、どうしても気になっていることがあった。
仕事が多い。
逃げ場がない。
副長府の仮眠室が、ほとんど自分の寝床になりかけている。
それだけでも十分問題だった。
だが、今のレオンにとって、何より切実な問題は別にある。
最近、イリスが怖い。
レオンは小休憩室の椅子に座り、深く息を吐いた。
向かいには、クリス・ラングレーがいる。
正確には、レオンが呼んだ。
「それで」
クリスは腕を組み、半分呆れた顔で言った。
「俺を呼び出してまで、何の相談だ」
「クリス、話を聞いてくれ」
「何だ」
「最近、イリスが怖い」
クリスは一瞬だけ黙った。
それから、少し怪訝そうに眉を寄せる。
「……イリス殿下が?」
「ああ」
「いや、優しいだろう」
「優しい?」
「少なくとも、俺はイリス殿下が誰かを怒鳴っているところなんか見たことないぞ。職員にも丁寧だし、リリアにも優しいし、書記官たちにも普通に穏やかだ」
「それはそうかもしれない」
「そうだろ。イリス殿下が怖いっていうのは、あまり聞かない」
「俺には怖い」
「お前には、だろ」
クリスはそこだけはすぐに言った。
「イリス殿下が怖いんじゃなくて、お前に対するイリス殿下が怖いんだろ」
レオンは黙った。
否定できなかった。
「他の人には普通に優しい。だが、お前が仕事から逃げようとした時だけ、妙に静かになる」
「そうだ」
「予定表を見る」
「見る」
「護衛に何か耳打ちする」
「する」
「それでお前が逃げられなくなる」
「そうだ」
「なら、怖いのはイリス殿下じゃなくて、お前への逃走対策だな」
「俺から見れば同じだ」
「大げさだろ」
「大げさではない」
レオンは真剣だった。
かなり真剣だった。
「エリシアは分かる。あいつは昔から圧がある。正面から来る。言葉で来る。逃げ道を塞いでくる」
「ひどい説明だが、間違ってはいないな」
「だが、イリスは違う」
レオンは少しだけ声を落とした。
「無言で圧をかけてくる」
「それは、お前にだけだろ」
「そこが怖いんだ」
レオンは椅子の背にもたれた。
「昔は違った」
「昔?」
「最初に会った頃のイリスは、もっと普通だった。帝都の話とか、地方の話とか、旅の話とか、見たことのない街の話とか、外の話をよくしてくれた」
「ああ」
「話していて楽だった。俺が知らないことも多かったし、聞いていて面白かった。イリスは話し相手としても、かなり楽しい相手だった」
「それは分かる。イリス殿下は話が上手いし、相手に合わせるのも上手い」
「だろう」
「だから、俺も思ってたぞ。お前ら二人、結構お似合いだなって」
レオンは顔をしかめた。
「何を言っている」
「いや、本当に。お前は人と話すのを面倒くさがるのに、イリス殿下相手だと普通に話していただろ」
「外の話をしていただけだ」
「それが普通にできる相手は、そんなに多くない」
レオンは少し黙った。
そして、低い声で言った。
「その相手が、最近は俺にだけ厳しい」
「それは、お前が逃げるからだろ」
「逃げたくもなる」
「何でだよ」
「精神的に監禁されている気分になる」
クリスは目を細めた。
「大げさだろ」
「大げさではない。庁舎の中でどこへ行くにも、予定表と護衛とイリスの視線がある」
「それを監禁とは言わない」
「精神的には近い」
「近くない」
「近い」
レオンは机に手を置いた。
「俺には常に護衛が二人ついている。それは分かっている。副長だからな」
「そこは理解しているんだな」
「理解はしている。問題は、その二人にイリスが毎回何か耳打ちすることだ」
「耳打ちか」
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「笑いそうな顔をしている」
レオンは嫌そうに眉を寄せた。
「第一執務室を出ようとするたびに、イリスが護衛に近づいて何か小声で言う。護衛は何も聞き返さずにうなずく。しかも、俺には内容を教えない」
「聞いたのか」
「聞いた」
「何て言われた」
「職務上の確認です、と言われた」
クリスはとうとう笑った。
「それは完全に教える気がないな」
「おかしいだろ」
「まあ、少しおかしいな」
「少しじゃない。あの二人は第十大隊の選抜騎士だぞ。第十大隊長は俺だ。つまり、あいつらは俺の部下だ」
「そうだな」
「なのに、イリスに耳打ちされると、何も言わずに従う。俺よりイリスの指示を重く見ているように見える」
クリスは肩をすくめた。
「見えるだけか?」
「クリス」
「実際そうなってるだろ。お前、逃げるから」
「逃げていない。手洗いに行くと言って、少し遠回りしただけだ」
「それを逃げていると言う」
その時だった。
廊下の向こうから、騎士の声が聞こえた。
「副長閣下は、こちらには?」
「いない。手洗いに向かわれたはずだ」
「手洗いにはいらっしゃいませんでした」
レオンとクリスは、同時に黙った。
声はさらに近づいてくる。
「イリス殿下がおっしゃっていた通りだ」
「やはり、まっすぐ戻られなかったか」
「絶対に見失わないようにと言われている」
「第一執務室の予定が遅れる。早くお連れしないと」
「それに、イリス殿下が静かだった」
「静かな時ほど危ない」
レオンは眉間を押さえた。
「……聞こえているぞ」
「完全にイリス殿下側だな」
クリスは小声で言った。
「俺の護衛だぞ」
「護衛対象がお前で、実質的な管理者がイリス殿下なんだろ」
「おかしいだろ」
「おかしくはない。お前が逃げるからだ」
小休憩室の扉の前で、足音が止まった。
「副長閣下」
扉の向こうから、丁寧な声が届く。
「こちらにいらっしゃいますか」
レオンは答えなかった。
クリスがじっと見る。
「副長閣下」
もう一度、声がした。
「イリス殿下より、第一執務室へお戻りいただくようにとのことです」
レオンは小さく息を吐いた。
「……聞こえないふりは無理か」
「無理だな」
「俺は、少し相談していただけだ」
「手洗いを口実にここへ来た時点で、厳しいな」
レオンは黙った。
扉の向こうでは、護衛騎士たちが待っている。
第一執務室では、イリスが予定表を見ているはずだ。
おそらく無言で。
かなり静かに。
そして、レオンにだけ怖く。
「クリス」
「何だ」
「これから、変わると思うか」
「何が」
「イリスだ」
レオンは真剣な顔で言った。
「昔みたいに、外の話をして、普通に話せる相手に戻ると思うか」
クリスはすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
「イリス殿下が変わったというより、お前の立場が変わったんじゃないか」
「俺の立場?」
「今のお前は、もう第七騎士団長じゃない。総騎士団副長だ。副長府の中心だ。お前が逃げると、周りが困る」
「昔も困っていただろ?」
「今は規模が違う」
レオンは言葉に詰まった。
クリスは続ける。
「イリス殿下も、昔みたいに外の話をしたくないわけじゃないと思う。だが、今のお前が仕事中に外の話を始めると、そのまま逃げ道を探し始めるのが分かっているんだろ」
「探していない」
「少しは探してるだろ」
「……少しだけだ」
「ほらな」
レオンは黙った。
「本当に、これから変わると思うか」
レオンがもう一度聞くと、クリスは困ったように頭をかいた。
「まあ、変わるだろ」
「本当か?」
「ただし、たぶんお前が思っている方向には変わらない」
レオンは固まった。
「……どういう意味だ」
「言葉通りだ」
「クリス」
「戻れ、副長」
クリスは立ち上がり、扉の方を顎で示した。
「イリス殿下をこれ以上静かにさせるな」
「それは脅しか」
「忠告だ」
レオンは深く息を吐いた。
相談しに来たはずだった。
少しは味方を得られると思っていた。
だが、結局、味方は誰もいなかった。
レオンは椅子から立ち上がる。
「……最近、本当に怖い」
「だから、戻れ」
「分かっている」
レオンは小休憩室の扉へ向かった。
扉を開けると、護衛騎士が二人、きっちりと姿勢を正して立っていた。
「副長閣下」
「……いたのか」
「お迎えに上がりました」
「探していただろ?」
「確認しておりました」
「言い方を整えるな」
護衛騎士たちは、丁寧に頭を下げた。
「第一執務室へお戻りください」
「分かっている」
レオンは廊下へ出た。
護衛騎士に挟まれるようにして、第一執務室へ戻っていく。
その途中で、レオンは隣の護衛騎士を見た。
「さっき、イリスに何を言われた」
護衛騎士は、わずかに視線を泳がせた。
「職務上の確認です」
「またそれか。内容は」
「副長閣下を安全に第一執務室へお戻しするように、との確認です」
「安全に、か」
「はい」
「逃がさずに、ではないのか?」
二人は答えなかった。
答えなかった。
それが、答えだった。
レオンは深く息を吐いた。
「……俺の部下だよな」
「はい」
「第十大隊だよな」
「はい」
「第十大隊長は誰だ」
「副長閣下です」
「なら、俺の質問には答えろ」
護衛騎士二人は、きっちりと姿勢を正した。
「申し訳ありません。イリス殿下より、詳細は副長閣下へ申し上げないようにとの確認を受けております」
「それを今、言ったな」
「はい」
「完全に言ったな」
「失礼しました」
レオンは額を押さえた。
自分の部下であるはずの護衛騎士たちは、実に真面目だった。
真面目で、忠実で、職務熱心だった。
ただし、その忠実さの向いている先が、自分だけではない気がしてならなかった。
小休憩室の中で、クリスがこらえきれずに笑う声がした。
「笑うな、クリス!」
レオンの声が廊下に響いた。
護衛騎士たちは何も言わず、ただ丁寧に第一執務室へ向かう。
第一執務室へ続く廊下は、やけに静かだった。




