第2章34話 リリアの凄さ
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・談話室
副長府の談話室は、昼過ぎになると少しだけ空気が緩む。
第一執務室ほど張りつめておらず、廊下ほど人の流れもない。
温かい茶が置かれ、簡単な菓子が皿に残り、誰かが使った書類の端が机の隅へ寄せられている。
そんな場所で、マリは湯気の立つ茶杯を両手で包みながら、向かいに座る二人を見ていた。
フィアナとココである。
二人とも、仕事中より少しだけ表情が柔らかい。
だが、マリには、以前から分からないことが一つあった。
「前から思っていたんですけど」
マリが口を開くと、フィアナとココがそろって顔を上げた。
「はい」
「何でしょうか、マリさん?」
二人の返事は素直だった。
マリは少しだけ言葉を選ぶ。
いきなり聞くには、少し変な話題かもしれない。
だが、ここに来てからずっと気になっていたことでもあった。
「リリアって、どうしてみんなに姫様って呼ばれているんですか?」
その瞬間、フィアナとココの表情が、ふわりと明るくなった。
マリはそれを見て、少し嫌な予感がした。
質問の方向が、すでに間違った方へ進み始めている気がしたからである。
「それは、姫様だからです」
フィアナが真顔で言った。
ココも迷わず頷く。
「はい。姫様ですから」
「いえ、そういうことではなくてですね」
マリは茶杯を置いた。
「実際に皇族のお姫様という意味ではないですよね。もちろん、ヴァイス家のお嬢様ではありますけど」
「はい」
「そうではなくて、どうして騎士団の人たちが、あんなに自然に姫様と呼ぶのかという話です」
「可愛いからではないでしょうか?」
ココが言った。
マリは沈黙した。
フィアナがすぐに続ける。
「とても可愛いですからね。リリアさんは」
「はい。優しいですし」
「抱きしめると柔らかいです」
「髪もふわふわしています」
「笑うと、こちらまで嬉しくなります」
「声も優しいですよね」
「手を振っていただくと、その日一日頑張れます」
「分かります」
二人は深く頷き合った。
マリは、二人の顔を交互に見た。
真剣だった。
とても真剣だった。
だが、マリが聞きたいのはそこではない。
「あの、すみません。そういう外見とか雰囲気だけではなくてですね」
「大事です」
フィアナが言った。
「とても大事です」
ココも言った。
「朝にリリアさんとすれ違って、少し笑っていただけるだけで、午前中の仕事がかなり違います」
「分かります。今日はいい日だと思えます」
「抱きしめさせていただいた日は、もっと頑張れます」
「分かります。あれは癒やしです」
二人はまた、深く頷き合った。
マリは、ゆっくりと息を吸った。
この二人と話していても、リリアの凄さは分からない。
いや、二人がリリアを好きなことは分かる。
可愛がっていることも分かる。
姫様と呼びたくなる気持ちも、まったく理解できないわけではない。
だが、それだけではないはずだった。
副長府に来てから、マリは何度も見ている。
リリアが廊下を歩くだけで、空気が変わる。
硬い顔をしていた騎士が、少しだけ表情を緩める。
苛立っていた文官が、何かを思い出したように姿勢を正す。
疲れ切った者が、もう少しだけ働けそうな顔になる。
あれは、ただ可愛いというだけでは説明できない。
そう思うのだが、目の前の二人は、完全に可愛いという理由だけで説明を終わらせようとしていた。
「つまり」
マリは少し考えてから言った。
「お二人にとっては、可愛いことや優しいことが、かなり重要なんですね」
「はい」
フィアナが即答した。
「とても重要です」
ココも即答した。
「それで一日頑張れます」
「毎日です」
「毎日……」
マリは額に手を当てた。
駄目だ。
この二人は、すでにかなり近い場所にいる。
リリアの影響を受ける側というより、リリアの存在を当然のものとして受け入れてしまっている側だ。
これでは、外から見た凄さが分からない。
マリが困っていると、談話室の前を一人の女性が通りかかった。
エリシアだった。
書類を片手に持ち、いつものように背筋を伸ばして歩いている。
その姿を見た瞬間、マリは思わず立ち上がった。
「エリシアさん」
呼ばれたエリシアが足を止める。
「はい。何かありましたか?」
「少しだけ、お時間をいただいてもいいですか?」
「急ぎですか?」
「急ぎではありません。ただ、少し教えていただきたいことがあって」
エリシアはマリの顔を見てから、フィアナとココにも視線を向けた。
二人は、なぜか少し期待した顔をしている。
「何の話ですか?」
エリシアが談話室へ入ってくる。
マリは座り直しながら言った。
「リリアの話です」
エリシアの眉が、ほんの少し動いた。
「リリアさんの?」
「はい。リリアは、どうしてあんなに人を惹きつけるんですか。どうして、みんなからあんなに可愛がられているんですか?」
エリシアは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ首を傾げる。
「マリさんも、そうされたいんですか?」
「されたくないと言ったら、嘘になるかもしれません」
マリは正直に答えた。
可愛がられたい。
大事にされたい。
周囲から自然に受け入れられたい。
それは、誰だって少しは思うことだ。
だが、リリアの場合はそれだけではない。
「でも、私が知りたいのは、そういうことではありません」
エリシアは何も言わず、マリの続きを待った。
「優しいのは分かります。可愛いのも分かります。皆さんが大切に思っているのも分かります」
「はい」
「でも、それだけでは説明できないくらい、人が集まるじゃないですか」
マリは言葉を続ける。
「姫様と呼ばれて、親衛隊までいて、周りが自然に動く。あれは何なんだろうと思って」
マリの言葉を聞き、フィアナとココも静かになった。
先ほどまでの、可愛い、ふわふわしているという空気とは少し違う。
エリシアは、しばらく考えた。
「マリさんは、ずっと第七騎士団にいたわけではありませんからね」
「はい」
「ここに来てから見ているだけでは、分からない部分もあると思います」
エリシアは、フィアナとココにも視線を向けた。
「ココさんやフィアナさんも、まだ深いところまでは知らないでしょう」
二人が、少しだけ背筋を伸ばした。
「やっぱり、すごいんですか」
マリが尋ねる。
エリシアは即答しなかった。
代わりに、少しだけ苦い顔をする。
「まず、言っておきます」
「はい」
「リリアさんのことを、軽い気持ちで呼び捨てにするのは、あまりおすすめしません」
マリは瞬きをした。
「え?」
「もちろん、マリさんとリリアさんが同じ年で、本人も嫌がっていないのなら、二人の間では問題ないと思います」
「はい」
「ですが、人前では少し気をつけた方がいいです」
「そんなにですか?」
「そんなにです」
エリシアは真面目な顔で頷いた。
フィアナとココも、思わず顔を見合わせる。
「軽い呼び方や、冗談のつもりの一言でも、聞かれ方によっては大変なことになります」
「大変なこと」
「はい」
エリシアは淡々と話し始めた。
「以前、私と同じ場所で働いていた騎士がいました。元は第二騎士団の副官だったダリオさんです」
「副官の方ですか?」
「はい。今も普通に強い騎士の方です」
エリシアは少し間を置いた。
「そのダリオさんが、一度だけ、リリアさんへ軽口を言ったことがありました」
「軽口、ですか」
「はい。『家に遊びに来ない?』と」
マリは一瞬、意味が分からなかった。
「……軽口、ですよね?」
「軽口です」
「それだけですか?」
「それだけです」
エリシアはきっぱりと言った。
「もちろん、本気でリリアさんをどうこうしようとしたわけではありません。本人も笑って流すつもりだったと思います」
「それで、どうなったんですか?」
「親衛隊に連れていかれました」
「連れていかれた?」
「はい」
エリシアは頷いた。
「縛られて、吊るされて、説教されていました」
談話室が静まり返った。
マリだけではない。
フィアナもココも固まっている。
「……吊るされたんですか?」
「はい」
「本当に?」
「本当にです」
エリシアは表情を変えずに続けた。
「説教と言いましたが、実際には、周囲を囲まれて、ほとんど裁判でした」
「裁判」
「はい」
「リリア様への不敬」
「リリア様を軽々しく私邸へ誘おうとした罪」
「リリア様の平穏を乱そうとした罪」
「そういった罪状が、次々と読み上げられていました」
「罪状……」
マリが思わず復唱する。
フィアナとココも、言葉を失っている。
「最終的には、死刑判決に近い内容の反省文まで用意されていました」
「死刑判決!?」
マリは思わず声を上げた。
エリシアがすぐに指を立てる。
「声が大きいです」
「あ、すみません」
マリは慌てて口を押さえた。
そして、声を落とす。
「でも、死刑判決って、本当に死刑ですか?」
「親衛隊の中では、です」
「それは、本当に死ぬところだったんですか?」
「私が助けに行かなければ、少なくともかなり危なかったと思います」
「危なかったんですか?」
「危なかったです」
エリシアは当然のように言った。
「私が助けに行った時、ダリオさんは男たち二十人ほどに囲まれていました」
「二十人……」
「全員、真剣でした」
マリは、茶杯に伸ばしかけた手を止めた。
フィアナは口元を押さえ、ココは目を丸くしている。
「ダリオさんも当然騎士です。しかも第二騎士団の副官でした。ただの文官や新人ではありません」
「はい」
「剣も使える方です。それでも、助けに行った時には完全に涙目でした」
「それは……すごいですね」
フィアナが小さく呟いた。
ココも頷く。
「その人たちも、みんな親衛隊なんですか?」
マリが聞くと、エリシアは頷いた。
「そうです。リリアさんの親衛隊です」
「親衛隊って、そんなにいるんですか?」
「今は、三百人を超えていると言われています」
「三百人!?」
今度は、三人の声がそろった。
エリシアが、また指を立てる。
「声が大きいです」
「あ、すみません」
マリが慌てて声を落とす。
フィアナとココも、同じように口元を押さえた。
「三百人を超えているんですか……」
「はい。もちろん、常に全員が近くにいるわけではありません」
「ですが、親衛隊と呼ばれる人たちは、それくらいまで増えているようです」
フィアナとココが、少しだけ顔を見合わせた。
「そういえば」
フィアナが小さく言った。
「朝の挨拶の時、並んでいる人が増えたような気はしていました」
ココも頷く。
「私もです。リリアさんと一緒に来る時、前より人数が多いとは思っていました」
「思っていたんですか?」
マリが聞くと、二人は素直に頷いた。
「はい」
「でも、姫様ですから」
「姫様ですから、で流していたんですか」
「はい」
二人は、ほとんど同じ調子で答えた。
マリは少し頭が痛くなった。
「全員が、そんな感じなんですか?」
「全員が同じとは言いません」
エリシアは答えた。
「ただ、吊るされていたダリオさん本人は、彼らを狂信者の集団だと言っていました」
「狂信者……」
マリが思わず復唱する。
「リリアさんのためなら、命を投げ出すような人たちだと」
「……」
「普段は、リリアさんが周囲へ迷惑をかけないよう言っているので、表には出ません」
「大人しくしていますし、礼儀も守ります」
「リリアさんが嫌がることもしません」
「はい」
「ですが、もしリリアさんに危害を加えるような人がいれば、たちどころに排除しに行きます」
その言葉が、談話室の空気を少しだけ冷やした。
冗談ではない。
エリシアの声には、そう分かる重さがあった。
「それに、その時はもう少しで、ダリオさんが各騎士団を回って反省文を朗読させられるところでした」
「朗読?」
「はい」
「自分は、リリア様へこのようなことをしました、とても反省していますと、自分の罪状を読み上げる形です」
「それは……」
フィアナが、顔を引きつらせる。
「もう外を歩けませんね」
ココも小さく頷いた。
「私もそう思いました」
エリシアは淡々と答えた。
「でも、そうはならなかったんですよね?」
マリが恐る恐る尋ねる。
「はい。私も止めましたし、リリアさんもそれを聞いて、あまりよい顔をしなかったようです」
「リリアが?」
「はい」
エリシアは、少しだけ表情を和らげた。
「リリアさんは、そういうことを望む方ではありませんから」
その言葉に、三人は少しだけ息を吐いた。
リリア本人は穏やかで、優しい。
それは分かっている。
だが、その周囲が穏やかとは限らない。
マリは、今の話でそれを嫌というほど理解した。
「ですから、リリアさんのことを軽く言う時は気をつけてください」
「悪意がなくても、聞かれ方によっては面倒なことになります」
「はい……」
マリは素直に頷いた。
同じ年だから。
本人が普通に話してくれるから。
それで、ついリリアと呼んでいた。
だが、その呼び方一つでも、場所を間違えれば何が起きるか分からない。
「そのダリオさんは、元の部署へ戻るまで、しばらく監視されていました」
「マリさんも、そういうのは嫌でしょう?」
「嫌です」
マリは即答した。
フィアナとココも、少し青い顔で頷いている。
「聞かれていないですよね」
マリは思わず周囲を見回した。
談話室の入り口。
廊下。
窓際。
机の下。
もちろん、誰もいない。
だが、何となく、どこかに誰かがいるような気がしてしまう。
エリシアはそれを見て、淡々と言った。
「その確認は大切です」
「怖いです」
「怖がるくらいで、ちょうどいいです」
エリシアは、そこで一度話を切った。
マリは、まだ少し落ち着かないまま尋ねる。
「それが、リリアさんの凄さなんですか?」
「違います」
エリシアは即答した。
「今の話は、リリアさんの凄さではありません」
「リリアさんの周辺へ近づく時の注意点です」
「注意点……」
「はい」
マリは、先ほどよりさらに分からなくなった。
リリア本人の凄さを聞いたはずなのに、出てきたのは親衛隊の恐ろしさである。
「ここまでの話が、リリアさんの凄さではなかったんですか?」
「違います」
エリシアは静かに首を振る。
「ここまでは、注意点です」
「注意点……」
マリは、同じ言葉を繰り返すしかなかった。
軽口で吊るされる。
ほとんど裁判になる。
死刑判決に近い反省文を用意される。
各騎士団を回って朗読させられかける。
親衛隊は、三百人を超えている。
それだけ聞かされたあとで、エリシアは平然と注意点だと言った。
マリは、思わず茶杯を両手で握り直した。
手元に温かいものがないと、少し落ち着かなかった。
「では、本当の凄さは何なんですか?」
マリが尋ねると、エリシアは少しだけ考えた。
「それを話すには、いくつか例を出した方がいいですね」
「例、ですか」
「はい。リリアさんの凄さは、一言では伝わりません」
エリシアは、フィアナとココにも視線を向けた。
「あなたたちも、聞いておいた方がいいかもしれません」
「私たちもですか?」
「はい。あなたたちも、もうかなり近い場所にいますから」
フィアナとココは顔を見合わせた。
それから、少し緊張したように頷く。
マリも、黙って姿勢を正した。
リリアの凄さを知りたい。
そう思って聞き始めたはずだった。
だが、最初に教えられたのは、近づく前の注意点だった。
そして、その注意点だけですでに十分おかしかった。
ここから本題に入る。
そう考えると、マリは少しだけ怖くなった。
エリシアは、そんな三人を見て、静かに口を開いた。
「では、まずノインさんの話からしましょう」




