第2章33話 第四大隊長は副長の顔色を見ました
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・談話室
クリス・ラングレーは、談話室で茶を飲んでいた。
今日は珍しく、誰にも追われていない。
マルクにも捕まっていない。
ノーラにも見つかっていない。
シエラにも、今のところ見つかっていない。
つまり、かなり平和だった。
そう思っていた。
扉が開くまでは。
「クリス」
低い声がした。
クリスは茶器を持ったまま、顔を上げた。
レオンハルト・ヴァイスが立っている。
顔色が悪い。
かなり悪い。
目元は重く、姿勢こそ普段どおりだったが、全体的にひどく疲れていた。
「……お前、何だその顔」
「相談がある」
「先に寝ろ」
「寝る時間がない」
「もう答えが出てるだろ」
レオンは向かいの席へ座った。
その動きにも、わずかに疲れが見える。
クリスは茶器を置いた。
「何があった」
「最近、前より仕事がきつくなってきた」
「いつものことだろ」
「違う」
「何が違う」
「リリアとメリーの処分が一部解除された」
「ああ。そういえば、そうだったな」
「二人とも張り切っている」
「いいことじゃないか」
「いいことではある」
「なら、何が問題なんだ」
「処理できる仕事が増えた」
レオンは静かに答えた。
「リリアは書状を扱えるようになった。メリーも、制限されていた処理と調整へ戻った」
「それで仕事が進むようになったのか」
「ああ」
「やっぱり、いいことじゃないか」
「進んだ仕事は、最後に俺のところへ来る」
クリスは少し黙った。
「なるほど」
「特にリリアは、書状を扱えるようになったことが本当に嬉しいらしい」
「それもいいことだろ」
「嬉しそうに働いている」
「なら、少し抑えてくれと言えばいい」
レオンは、信じられないものを見るような顔をした。
「そんなことをリリアに言えるか」
「言えないのか」
「言えるわけがない」
「じゃあ、メリーに言え」
「メリーにも言えない」
「何でだ」
「あいつも真面目に仕事をしている」
「言う相手を間違えたな」
「だから相談している」
「俺にもどうしようもないぞ」
レオンは少し黙った。
それから、遠い目をして話し始める。
「一昨日は、少し希望があった」
「希望?」
「ああ。いつもより一時間ほど早く、書類が片づきそうだった」
「それは珍しいな」
「だから、久しぶりに昼を食堂で食べられると思った」
「普段はどうしてるんだ」
「歩きながら食べている」
「それは食事じゃない」
「俺もそう思う」
レオンは淡々と言った。
「その日は、あと少しで昼に行けるはずだった」
「だった?」
「ああ」
「何が来た」
「イリスが、追加の書類を持ってきた」
「どのくらい」
「最初は五枚だった」
「五枚なら、まだ何とかなるだろ」
「俺もそう思った」
リリアが書状取扱いへ戻ったことで、新たに処理された書類だった。
当然、リリアが直接レオンへ持ってきたわけではない。
第一執務室で整理され、イリスの確認を経て、最終判断が必要なものだけがレオンへ回された。
「五枚は昼までに終わった」
「よかったじゃないか」
「そのあと、フィアナが来た」
「イリスは?」
「別の用事で出ていた」
イリスが不在の時は、フィアナが書類をまとめてレオンへ回してくる。
「フィアナは何を持っていた」
「束だ」
レオンは両手で厚みを示した。
クリスが顔をしかめる。
「それは昼に行けないな」
「まだ諦めてはいなかった」
「諦めろ」
「少し遅い昼には間に合うと思った」
「前向きだな」
「空腹だったからな」
レオンは、その束も片づけた。
だが、終えた頃には昼を大きく過ぎていた。
「それでも、食堂には行けると思った」
「思わない方がよかったな」
「そうだな」
レオンは深く息を吐く。
「顔を上げると、イリスが戻ってきていた」
「何を持っていた」
「リリアとメリーが処理した分を、まとめて持っていた」
「また束か」
「一つではなかった」
「全体的に地獄だな」
「そこで悟った」
「何を」
「今日はもう駄目だ、と」
クリスは笑いかけたが、レオンの顔色を見てやめた。
「昼は?」
「食べていない」
「食べろ」
「時間がなかった」
「それで、夜まで働いたのか」
「夜八時まで、第三執務室で通常の仕事をした」
「通常の仕事とは」
「残業前の仕事のことだ」
「嫌な言葉だな」
「そのあと、夜中まで残業した」
「一昨日は、それで終わったのか」
「一昨日はな」
クリスは、すでに続きがあると分かった。
「昨日は?」
「もっとひどかった」
「聞きたくないが、聞く」
「昨日も書類が増えた」
「昼は」
「食べられなかった」
「夜も?」
「残業した」
夜中になり、ようやく最後の一枚まで終えた。
レオンは、そこで終わったと思った。
だが、最後の書類には一枚のメモが挟まっていた。
「何て書いてあった?」
レオンは少し黙った。
「後ろにも、確認していただきたい書類があります」
クリスも黙った。
「振り返ったのか」
「振り返るしかなかった」
「何があった」
「台車だ」
「台車?」
「書類の束が積まれていた」
「どのくらい」
「高かった」
「高かったか」
「高かった」
レオンは静かに言った。
「俺は、ここで寝ろという意味なのだと思った」
「笑えないな」
「俺も笑えなかった」
「それで、仮眠室へ行ったのか」
「行っていない」
「なぜだ」
「行く時間がなかった」
クリスは、完全に茶を飲む手を止めた。
「お前、それで今日も仕事をしてるのか」
「ああ」
「するな」
「しなければ増える」
「しても増えてるだろ」
レオンは黙った。
いつもなら、もう少し何か言い返す。
だが今日は、その力も残っていないようだった。
クリスは、改めてレオンの顔を見る。
目の下は重い。
声も少しかすれている。
姿勢だけは崩していないが、限界が近いことは明らかだった。
「お前、最近屋敷へ帰ってるのか?」
レオンは少し考えた。
その反応だけで、クリスは嫌な予感を覚えた。
「……帰っていないな」
「どのくらい」
「二か月ほど」
「二か月?」
「ああ」
「二か月も屋敷へ帰ってないのか」
「そうなる」
「そうなる、じゃない」
クリスは身を乗り出した。
「仮眠室で寝てるんだろ」
「最近は、仮眠室にもあまり行けていない」
「もっとまずい」
「そうか」
「反応が薄いのもまずい」
「自覚はある」
「自覚があるなら寝ろ」
「寝る時間がない」
「だから、まずいと言ってるんだ」
最初は、いつもの仕事の愚痴だと思っていた。
書類が多い。
帰れない。
面倒だ。
レオンがいつも口にしている話の延長だと。
だが、今回は少し違う。
昼を食べられない。
夜中まで残業する。
仮眠室へ行く時間すらない。
二か月も屋敷へ帰っていない。
さすがに、笑って流せる状態ではなかった。
「レオン」
「何だ」
「このままだと、本当に倒れるぞ」
「倒れる時間もない」
「そういう返しが出る時点で危ない」
クリスは真面目な顔で言った。
「お前、今かなりまずいぞ」
レオンは答えなかった。
ただ、少しだけ目を伏せる。
談話室の外からは、副長府で働く者たちの声が聞こえていた。
書類を運ぶ足音。
誰かを呼ぶ声。
今日も、副長府は忙しい。
そして、その忙しさの最後には、レオンの机がある。
「どうすればいい?」
レオンが、低い声で尋ねた。
クリスはすぐには答えられなかった。
リリアは悪くない。
メリーも悪くない。
フィアナも、イリスも、決められた手順で仕事を回しているだけだ。
皆が真面目に働いた結果、最終確認だけがレオンへ積み上がっている。
誰にも悪意がない。
だからこそ、止め方が分からない。
「今すぐ答えは出ない」
クリスは言った。
「だが、このまま続けるのは駄目だ」
「そうか」
「かなり駄目だ」
レオンは、しばらく黙っていた。
やがて、弱々しく頷く。
「……そうだな」
その返事は、いつもよりずっと小さかった。




