第2章幕間6 上級調査員への道
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第三執務室前廊下
親衛隊徽章の件から、数日が過ぎた。
親衛隊は、たしかに徽章を作り、販売していた。だが、売上のほとんどは材料費や活動費に回されており、悪質な金儲けではなかった。
空いている部屋を親衛隊室として使っていたことも含め、許可の取り方には怪しい部分があった。
それでも、大きな問題として扱われるほどのものではない。
クリスは、今回シエラに増えた借りを少しでも減らすため、自分から調査をした。
親衛隊員から話を聞き、親衛隊室へ入り、徽章の販売方法や部屋の使用状況を直接確認した。借りは大して減らなかった。
ただ、余計に疲れたことだけは確かだった。
「今日は、早く帰るか」
クリス・ラングレーは、廊下で小さく呟いた。
第四大隊の仕事は終わっている。
副長府庁舎での用事も済ませた。
今なら、誰にも捕まらずに帰れる。
そう思った。
「クリスさん」
静かな声がした。
クリスは足を止めた。
聞き覚えのある声だった。
そして、逃げにくい声でもあった。
「……何だ」
振り返ると、シエラが立っていた。
いつもと変わらない淡い表情だったが、少しだけ機嫌がよさそうに見える。
「報告があります」
「俺にか?」
「はい」
「今から帰るから、明日では駄目か?」
「駄目です」
「明後日は」
「もっと駄目です」
クリスは息を吐いた。
「……分かった。手短に頼む」
「ありがとうございます」
シエラは、わずかに笑った。
その顔を見て、クリスは思った。
おそらく、手短には終わらない。
■総騎士団副長府庁舎・第三執務室奥資料室
第三執務室の奥にある資料室へ入ると、中央の卓に紙束が置かれていた。
前回よりは薄い。
だが、手短に終わる量には見えなかった。
「また資料か?」
「はい」
「前にもかなり見ただろ」
「助かりました」
「なら、もういいだろ」
「いいえ」
シエラは静かに首を横へ振った。
「前回まとめた報告書について、オリオン社から返答が来ました」
「早いな」
「父が、すぐに確認しましたので」
「社長が直接見たのか」
「はい。母と兄も見ています」
「そこまで大した内容だったか?」
「オリオン社にとっては、とても有益な内容でした」
シエラは紙を一枚取り、クリスの前へ置いた。
クリスが直接確認した内容を、シエラが報告書として整理したものだった。
徽章の販売方法。
売上の使い道。
親衛隊室として使われていた部屋。
外へ出してよい情報と、騎士団内部に留めるべき情報。
それらは明確に分けられていた。
「出してよい情報と、出してはいけない情報が、きちんと分けられていた点も高く評価されています」
「そこは当然だろ」
「その当然の判断ができる調査員は貴重です」
「……褒められているのか?」
「はい」
「なら、悪い話ではないな」
「悪い話ではありません」
シエラは少しだけ嬉しそうに頷いた。
クリスは報告書へ目を落とした。
そして、少しだけ表情を改める。
「念のために聞くが?」
「はい」
「重要な情報まで、勝手に売っていないだろうな」
「売っていません」
シエラは即答した。
「騎士団の機密もか?」
「許可なく扱うことはありません」
「他国の商人や組織へ流すことも?」
「ありません」
シエラは落ち着いた声で答えた。
「オリオン社も、この帝国に本拠を置く会社です」
「帝国へ不利益を与えるような取引は行いません」
「売る相手は?」
「基本的には、帝国内の商家や組織です」
「基本的には、か」
「他国に関わる依頼そのものがないわけではありません」
シエラは正確に答えた。
「ですが、帝国の安全や騎士団の機密に触れる情報は扱いません」
「判断に迷う場合は?」
「総長府へ確認を取ります」
「一件ずつか?」
「はい」
「どうしても重要な情報を扱う必要がある場合は、取引の可否や、どこまで外へ出してよいのかを確認しています」
「勝手に売ることはないんだな」
「ありません」
「ならいい」
クリスは小さく頷いた。
オリオン社は、情報を扱う会社である。
だからこそ、扱ってよい情報と、扱ってはいけない情報の区別が必要になる。
騎士団内部の機密を、利益のために外へ流すような会社であれば、クリスも協力するつもりはなかった。
「その点についても、クリスさんは高く評価されています」
「俺が?」
「はい」
シエラは、別の紙へ目を落とした。
「情報を持っていることだけではありません」
「外へ出してよいものと、出してはいけないものを判断できること」
「判断に迷うものを、勝手に外へ出さないこと」
「それが、調査員として重要だと父は考えています」
「普通のことじゃないのか?」
「普通ではあります」
「ですが、守れる方が多いとは限りません」
「嫌な話だな」
「はい」
シエラは、父から届いた評価書を手に取った。
「こちらが、クリスさんについての評価です」
紙に目を落とし、そのまま読み上げる。
「クリス・ラングレー調査員は、現場判断、情報選別、機密への配慮に優れている」
「これまでの実績も含め、上級調査員への昇格候補として検討する価値がある」
「上級調査員?」
「はい」
「いきなりだな」
「今回の報告書だけで決まったわけではありません」
シエラは答えた。
「これまでクリスさんが、オリオン社へ提供した情報も含めての評価です」
「俺は、そこまで大したことをした覚えはないぞ」
「クリスさんにとって大したことがなくても、外部からは手に入りにくい情報があります」
「そういうものか?」
「そういうものです」
クリスは評価書へ目を落とした。
上級調査員。
名前だけでは、今までと何が違うのか分からない。
「それになると、何が変わるんだ?」
「報酬が上がります」
「悪くないな」
「閲覧できる情報も増えます」
「それはかなりいいな」
「オリオン社へ調査を依頼する際も、優先して扱われます」
「便利だな」
「はい」
今のところ、悪い部分は見当たらない。
オリオン社の持つ情報は役に立つ。
それを今まで以上に使いやすくなるのなら、クリスにとっても都合がよかった。
「試験でもあるのか?」
「父との面談があります」
「社長と?」
「はい」
「これまでの調査内容と、情報の扱い方について、いくつか確認があります」
「面倒ではありそうだな」
「ですが、クリスさんなら問題ないと思います」
「受ける価値はありそうだ」
「はい」
シエラは、そこで一度言葉を切った。
「それで、上級調査員の昇格審査を受けるということで、よろしいですか?」
「今ここで返事が必要なのか?」
「父へ返答しなければなりませんので」
クリスは、もう一度評価書を見る。
報酬が上がる。
閲覧できる情報が増える。
オリオン社への調査依頼も優先される。
面談は面倒そうだった。
だが、得られるものは大きい。
「分かった。受ける」
「ありがとうございます」
シエラの表情が、わずかに明るくなった。
「では、父へ返答しておきます」
「ああ」
シエラは評価書をまとめ、今度は候補日の書かれた紙を取り出した。
「面談は、以前決めたオリオン社へ行く日に行いたいそうです」
「本当に行くんだな」
「はい」
前回、二人でオリオン社へ向かうことは、すでに決まっている。
シエラにとっては、デートでもあるらしい。
クリスは仕事のついでだと思っている。
その認識は、今も変わっていなかった。
「やっぱり、兄も同席するのか?」
「はい」
「父親と母親もいる」
「はい」
「そこへ、上級調査員の面談まで加わるのか」
「そうなります」
「前より面倒になっていないか?」
「クリスさんにとっては、得るものも増えました」
「そう言われると、否定しづらいな」
シエラは、候補日の紙を差し出した。
「以前お伝えした日で、問題ありませんか?」
「予定は空いているんだよな」
「確認済みです」
「誰に確認した?」
「マルクさんです」
「あいつ、また勝手に教えたのか」
「大隊長を一日連れ出しても構わないと言っていました」
「むしろ、喜んで送り出しそうだな」
「はい」
候補日は、たしかに予定が空いていた。
上級調査員の面談を受ける。
シエラの両親や兄と、仕事の話をする。
以前に決めたとおり、二人でオリオン社へ向かう。
多少は面倒だが、断るほどの理由はなかった。
「分かった。この日でいい」
「ありがとうございます」
「ただし、上級調査員の面談と、仕事の話が中心だからな」
「はい」
「本当に分かっているのか?」
「分かっています」
「妙に素直だな」
「いつも素直です」
「そうだったか?」
「はい」
シエラは、迷いなく頷いた。
クリスは、それ以上追及しなかった。
上級調査員になれば、オリオン社の情報を今まで以上に利用できる。
報酬も増える。
シエラや、その家族との関係を保っておくことも、今後の調査には役立つだろう。
ただ、一つだけ気になることがあった。
以前から決まっている、シエラと二人でオリオン社へ向かうという約束である。
仕事のために行く。
上級調査員の面談も受ける。
それでもシエラは、デートだと言って譲らない。
「……本当に、仕事をしに行くだけだからな」
「はい」
シエラは素直に頷いた。
その返事があまりにも素直だったため、クリスは少しだけ不安になった。
だが、詳しく尋ねても話が長くなるだけだろう。
クリスは、それ以上考えないことにした。
シエラは、受け取った評価書と候補日の紙を、丁寧にまとめていた。
その表情が、いつもよりわずかに明るかったことにも、クリスは特に気づかなかった。




