いつもの距離
帝国暦三二〇年 春中頃
東ロンバルディア帝国騎士団領
ヴァイス邸 離れの部屋、夜。
屋敷は静かだった。
灯りも落ちている。
廊下に人の気配はない。
リリアは、自室の窓辺に立っていた。
今日のことを、思い出す。
(……距離)
エリシアの言葉。
静かで、揺れのない声。
「距離が近い」
短く、はっきりと。
(……近い、でしょうか)
自分の手を見る、細くて、小さい。
誰かを支えるとき、自然に伸びる手。
考えたことはなかった。
そうするのが、普通だったから。
(お兄さまにも、同じように)
ふと浮かぶ。
幼い頃、手を引いてもらった記憶。
そのまま、今も隣にいる。
(……変わっていませんね)
小さく息を吐く。
距離、それを意識したことはない。
必要なときに近づいて、
終われば離れる。
ただ、それだけ。
(……誤解)
言われた言葉。
少しだけ、引っかかる。
(……でもそうでしょうか)
思い当たらない。
誰に対しても、同じように接している。
特別なことはしていない。
(……お兄さまは、別ですが)
そこだけは、迷いがない。
考えるまでもなく。
自然に、視線が扉へ向く。
今はいない。
だが、そこにいるのが当たり前のように思える。
(……当然です)
小さく、頷く。
理由はない。
説明もできない。
(いつも側にいるのは、私ですから)
それだけは、揺れない。
静かな確信。
言葉にするほどでもない。
当たり前のこと。
だから。
(……距離を取る必要は、ありませんね)
結論は、すぐに出る。
迷いもない。
ただ一つ。
(……少しだけ、気をつけましょうか)
思い出す、今日の騎士。
少しだけ、言葉が続きかけた瞬間。
あれは、確かに。
(……ああいうこと、でしょうか)
理解はできる。
(それでも)
窓の外を見る。
静かな夜。
(変えるほどのことではありません)
そう思う。
リリアは、いつも通り微笑む。
誰もいない部屋で。
ほんの少しだけ。
柔らかく。
(明日も、お手伝いしましょう)
それだけを考える。
変わらない日常。
変わらない距離。
その中で、気づかないまま何かが少しだけ進んでいることには――
まだ、気付いていなかった。




