第21話 二つの距離
――帝国暦三二〇年・春中頃 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――
業務は終わっていた。
書類も片付いている。
人の気配も、ほとんどない。
久しぶりに、執務室は静かだった。
「……リリアさん」
エリシアが呼ぶ。
「はい」
リリアが振り向いた。
いつも通りの柔らかい表情。
警戒はない。
「少し、よろしいでしょうか」
「はい」
リリアは迷いなく頷く。
エリシアは、一歩だけ距離を取った。
意識して。
「業務に関する話です」
「はい」
リリアは素直に聞く姿勢を取る。
「最近、執務室への出入りが増えています」
「はい」
「理由は理解していますか」
「……私、でしょうか」
「そうです」
リリアは少しだけ考えた。
「お手伝いできているから、だと思います」
間違ってはいない。実際、リリアが入ってから、書類の流れは良くなっている。
伝言の行き違いも減り、騎士たちの士気も上がっていた。
「それもあります」
エリシアは否定しなかった。
「ですが、それだけではありません」
リリアは静かに待つ。
「あなたの対応が原因です」
「……対応、ですか」
「はい」
エリシアは淡々と続ける。
「距離が近い」
短く、言い切った。
リリアのまつげが、わずかに揺れる。
「……業務上、必要な範囲かと」
「必要以上です」
即座に否定する。
空気が、少しだけ張った。
けれど、リリアは逃げない。
「具体的には?」
「個別対応が多すぎます」
「一人ひとりの理解度に差がありますので」
「承知しています」
エリシアは重ねるように言った。
「ですが、あなたは相手に合わせすぎています」
リリアは、少しだけ首を傾げる。
「それは、問題でしょうか?」
純粋な疑問だった。
責める色はない。
「問題です」
エリシアは言い切った。
「誤解を招きます」
リリアの表情が、わずかに変わる。
「……誤解、とは」
「距離です」
エリシアは言葉を選ばなかった。
「業務以上の距離に見える」
リリアは、少しだけ視線を落とす。
考える、ゆっくりと。
「……そのつもりはありません」
「でしょうね」
エリシアはあっさり返した。
「だから問題なのです」
静かな声だった。
「意図していないからこそ」
リリアは顔を上げる。
目が合った、初めて、少しだけ緊張が走る。
「では」
リリアが言う。
「どうすればよろしいでしょうか?」
素直な問いだった。
逃げるのではなく、指示を求めている。
その姿勢に、エリシアは一瞬だけ言葉に詰まった。
(……命令として受け取っている)
リリアは反発していない。
感情で返してもいない。
ただ、必要な対処を求めている。
それが、かえって難しかった。
「……距離を取ってください」
エリシアが選んだのは、それだった。
「必要最低限に」
リリアは静かに頷く。
「承知しました」
迷いはない。
だが、そのあと、少しだけ間があいた。
「……エリシアさん」
「なんでしょう」
「それは、“騎士団で補助をする者として”の距離でしょうか」
エリシアの思考が止まる。
「それとも」
リリアは続けた。
「“お兄様の側にいる者として”の距離でしょうか」
静かな問いだった。
けれど、確実に踏み込んでいる。
空気が変わった。
エリシアの視線が、わずかに揺れる。
(……そこを見るのですね)
予想していなかった。
リリアは、感情の機微に疎い。
そう思っていた。
だが、何も見えていないわけではない。
自分に向けられた線引きだけは、まっすぐ見ている。
「両方です」
エリシアは迷わず答えた。
揺れを消して。
「あなたは騎士団の補助に入っている存在です」
そして。
「団長の側にいる存在でもある」
言い切った。
リリアは、それを受け止める。
否定しない。
反論もしない。
「……そうですね」
小さく頷いた。
けれど、その目は少しだけ違っていた。
理解している。
だが、納得しているかは別だった。
「気をつけます」
それだけ言う。
穏やかに。
いつも通りの声で。
エリシアは、それ以上言わなかった。
言えなかった。
これ以上は、業務の範囲を越える。
「以上です」
業務のように締める。
「はい」
リリアは一礼した。
そのまま、部屋を出ていく。
足音が遠ざかる。
静寂が残った。
エリシアは、その場に立ったまま動かない。
(……正しい)
自分の判断は正しい。
リリアの距離は近すぎる。
騎士団内の均衡を保つには、線を引く必要がある。
そう思う。
そう判断した。
けれど。
(……それだけでしょうか)
ほんのわずかに、何かが引っかかる。
騎士団で補助をする者としての距離。
団長の側にいる者としての距離。
リリアの問いは、まだ胸の奥に残っている。
エリシアは静かに息を吐いた。
正しい距離を求めたはずだった。
だが今、自分の立っている距離だけが、少し分からなくなっていた。




