一線の手前
帝国暦三二〇年 春中頃
東ロンバルディア帝国騎士団領
第七騎士団 本庁 執務室前夕刻。
業務はほぼ終わっている。だが、執務室の前にはまだ数人の騎士が残っていた。
「姫様、少しよろしいでしょうか」
「はい」
リリアが応じる。
自然に。
いつも通り。
「この書類なのですが――」
若い騎士が差し出す。
だが、それは急ぎの案件ではない。
(……またか)
少し離れた位置で、クリスが見ている。
エリシアも同じだ。
リリアは書類を受け取る。
目を通し、すぐに理解する。
「こちらは、明日でも問題ありませんね」
柔らかく言う。
「……あ、はい」
騎士が少しだけ戸惑う。
だが、そこで終わらない。
「ですが」
リリアが続ける。
「気になるようでしたら、今確認してしまいましょうか」
少しだけ、距離が近づく。
自然に意識もせずに。
騎士の表情が変わる。
わずかに、緩む。
「……お願いします」
声が少し低くなる。
(……近い)
クリスの眉がわずかに動く。
エリシアは何も言わない。
ただ、見ている。
リリアはそのまま説明を始める。
丁寧に、落ち着いて。
相手の目線に合わせて。
言葉を選ぶ。
距離は、そのまま。
(……無意識か)
クリスは息を吐く。
止める理由はない。
業務の範囲だ。
問題もない。
(……これは)
違う。
説明しにくいが。
確実に、違う。
エリシアも見ている。
視線は動かない。
(……近い)
同じ結論に至る。
やがて。
「ありがとうございました」
騎士が頭を下げる。
だが、すぐには離れない。
少しだけ間がある。
「……あの」
言葉が続く。
リリアは首を傾げる。
「はい?」
無防備な返し。
一歩、踏み出しかける騎士が。
「――リリア」
低い声。
空気が止まる。
レオンだった。
いつの間にか、扉の前に立っている。
「仕事は終わりだ」
短く言う。
騎士が固まる。
「あ……」
「用があるなら、明日にしろ」
視線は動かさない。
圧がある。
「……失礼しました」
騎士は一礼し、すぐに下がる。
足早に去る。
残るのは、静寂。
リリアは少しだけ瞬きをする。
「……お兄さま?」
不思議そうに。
「終わりだ」
繰り返す、それだけ。
「はい」
素直に頷く。
それ以上は何も言わない。
エリシアは視線を外す。
クリスは小さく息を吐く。
(……今の)
誰も口にはしない。
だが、理解している。
さっきの一瞬。
ほんの少しだけ。
何かが、ずれかけた。
リリアは何も知らない。
いつも通り。
ただ、目の前の相手に向き合っていただけだ。
それでも。
(……あれは)
クリスは思う。
(線の外だ)
レオンは何も言わない。
ただ、リリアを一度だけ見る。
確認するように。
そして。
何もなかったかのように、執務室へ戻る。
リリアもついていく、いつも通りに。
何も変わらない。
だか、その場に残った二人は知っている。
変わりかけたことを。
(……遅いな)
クリスは目を細める。
(気づくのが)
エリシアは何も言わない。
ただ一つ。
(……管理するべきか)
初めて、そう考える。
夕刻の空気は静かだった。
しかし、その下で確実に何かが動き始めていた。




