第2章25話 第四大隊長は親衛隊員室に入りました
――帝国暦三二一年・冬終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・廊下
クリス・ラングレーは、青と金の徽章をつけた騎士に案内されて、副長府庁舎の廊下を歩いていた。
向かう先は、親衛隊室である。
姫様親衛隊のための部屋。
徽章がないと入れない部屋。
姫様会報を買う資格と、正規親衛隊員の証が結びついている部屋。
考えれば考えるほど、意味が分からない。
だが、分からないまま放置する方が怖かった。
副長府庁舎は、まだ完全にはできあがっていない。
外から見れば立派な庁舎に見える。
だが、実際に使われているのは全体の半分ほどで、奥の区画にはまだ工事中の部屋もある。
役割が決まっていない部屋。
仮の資材置き場になっている部屋。
完成はしているが、正式な運用が始まっていない部屋。
役割だけはあるのに、レオン本人がまったく使っていない部屋。
そういうものが、まだあちこちに残っていた。
つまり、使おうと思えば使える隙間がある。
その一角を、親衛隊が勝手に使っているかもしれない。
クリスは、案内役の背中を見ながら思った。
もしそうだったら、不法占拠ではないのか。
いや、まだ建設途中の庁舎で、未使用区画を勝手に部屋扱いしているのだから、むしろもっとたちが悪いかもしれない。
やがて、案内役の騎士が一つの扉の前で止まった。
扉には、小さな札が掛けられている。
そこには、金色の文字でこう書かれていた。
LWSS室。
クリスは、その札を見たまま黙った。
「……何だ、これは」
「正式名称です」
「知っている。そういう意味で聞いてない」
「親衛隊員室というのは通称です」
「それも知っている。勝手に部屋を占拠するなと言っている」
「はい」
「はい、じゃない」
クリスは扉を見た。
未使用区画の一室に札をかけ、親衛隊員室と呼び、徽章がない者を入れない。
思った以上に組織化している。
案内役の騎士が扉を叩いた。
「開けます」
中から返事があった。
扉が開く。
しかし、クリスが中に入ろうとした瞬間、内側にいた若い騎士が一歩前に出た。
「お待ちください」
「何だ」
「親衛隊室には、徽章をつけていない方を入れるわけにはいきません」
クリスは黙った。
案内役も少し気まずそうにする。
内側の騎士は真面目な顔だった。
本気で止めている。
「俺は第四大隊長だぞ」
「はい、それは関係ありません」
「それでも駄目なのか」
「親衛隊規則では、徽章所持者のみです」
「その規則は誰が決めた」
「親衛隊です」
「だろうな」
クリスは深く息を吐いた。
「エゼルを呼べ」
「親衛隊長を、ですか?」
案内役が親衛隊室の中を覗いて一言。
「今、不在みたいですね」
「では、マフガランを呼べ」
「親衛副隊長を、ですか?」
「ああ。今すぐだ」
「少々お待ちください」
扉が一度閉まりかけた。
クリスは廊下に立ったまま、額を押さえる。
第四大隊長が、謎の親衛隊規則で部屋の前に止められている。
誰かに見られたら面倒だ。
いや、もう十分面倒である。
少しして、扉が再び開いた。
マフガランが顔を出した。
「クリスか」
「ああ」
「どうされました」
「話を聞きたい。中に入るぞ」
マフガランは一瞬だけ室内を振り返った。
それから、クリスへ向き直る。
「第四大隊長なら、特別に構いません」
「特別に、か」
「はい。顔見知りですし、姫様の周囲にも関わる方ですので」
「俺が入れてもらう側なのか」
「親衛隊室ですので」
「その理屈で全部通すな」
マフガランは扉を開いた。
「どうぞ」
クリスは、かなり嫌な予感を抱えたまま中へ入った。
■総騎士団副長府庁舎・親衛隊室
中は、思ったより広かった。
元は会議室か、資料室として使う予定だったのだろう。
長卓がいくつか並べられ、壁際には椅子が置かれている。
室内には、騎士や書記官らしき者が二十名ほどいた。ほとんどが男性である。
全員ではないが、多くの者が胸元に青と金の徽章をつけていた。
そして、クリスは壁を見た。
思わず、足が止まる。
壁には、リリアの姿絵がいくつも飾られていた。
小さなもの。
額に入れられたもの。
未完成の下絵。
軽い線だけで描かれたデッサン。
リリアが本を持っている絵。
廊下を歩いている絵。
第一執務室の机の近くで微笑んでいる絵。
その中でも、一枚だけ妙に目を引くものがあった。
風の中に立つリリアの姿絵だった。
少しブラウンが混じった長い金髪が、光を受けて柔らかく輝いている。
髪は風に流され、肩のあたりで淡く揺れていた。
その髪に結ばれているのは、青いリボンである。
派手な飾りではない。
だが、不思議とよく似合っていた。
青いリボンが風にたなびき、金色の髪の中で小さく揺れている。
光の当たり方のせいか、髪そのものが淡く光っているようにも見えた。
クリスは、思わず少しだけ黙った。
確かに、絵としてはよくできている。
腹立たしいほどに、似合っていた。
ほかの絵も、どれもかなり丁寧に描かれている。
「……何だ、これは」
「姫様の肖像画です」
マフガランが答えた。
「それは見れば分かる。姿絵じゃないのか」
「親衛隊では、公式の姿絵を肖像画と呼んでいます」
「勝手に格式を上げるな」
「はい」
「はい、じゃない」
部屋の中にいた親衛隊員たちは、真面目な顔をしている。
笑っている者はいない。
ふざけている者もいない。
だから余計に怖かった。
これは、まずい集団ではないのか。
クリスは内心でそう思った。
だが、口には出さなかった。
出すと、余計にややこしくなる気がした。
「何でこんなにある?」
「親衛隊員の士気維持のためです」
「士気維持」
「はい」
「壁に貼って、毎日見ているのか」
「はい」
「拝んでるのか」
「祈りを捧げる者もいます」
クリスは黙った。
「この絵は、誰が描いた」
「親衛隊内で下絵を描ける者が描き、それを絵師に清書してもらっています」
「絵師まで使ってるのか」
「はい」
「金はどこから」
「徽章と会報の収益、あとは有志の積み立てです」
「やっぱりそこか」
クリスは壁の絵を見た。
リリア本人を勝手に描いているのかと思ったが、絵の中には正面から描かれているものもある。
完全な想像だけではなさそうだった。
「本人は知っているのか」
「はい」
「知ってるのか」
「すべてではありませんが、肖像画のモデルになっていただくことはあります」
「モデルに?」
「はい」
「誰が頼んだ」
「親衛隊の者が、贈り物のお礼として何か返したいと姫様がおっしゃった時に、無理のない範囲でお願いしました」
クリスは少しだけ眉を寄せた。
「リリアが、何か返したいと言ったのか」
「はい」
「プレゼントをもらったからか」
「はい。姫様は、贈り物をいただくと、いつも申し訳なさそうにされます。そして、自分も何かを返したいとおっしゃいます」
「ああ……言いそうだな」
クリスは思わず納得した。
リリアなら言う。
もらいっぱなしでは申し訳ない。
自分にもできることがあるなら返したい。
そう考える。
そして、誰かに頼まれれば、絵のモデルくらいならと応じるかもしれない。
その優しさが、また親衛隊の熱量に燃料を足している。
「嫌がったらやめるんだな」
「もちろんです」
マフガランはすぐに答えた。
「姫様が嫌がることはしません」
「本当に?」
「はい。お疲れの時や、お忙しい時にはお願いしません」
「金は全部、そういう絵や贈り物に使っているのか」
「はい。徽章の材料費、会報の印刷費、姿絵の清書代、節目ごとの贈り物代です」
「誰かが懐に入れてるわけじゃないんだな」
「ありません」
「帳簿は」
「あります」
「見せられるか」
「必要であれば」
即答だった。
隠す気配はない。
クリスは少しだけ力を抜いた。
不正ではない。
少なくとも、金銭的な意味での悪質さはなさそうだ。
ただし、別の意味ではかなり危うい。
「姫様会報の話も聞いた」
「はい」
「趣味、好きな本、よくいる場所、休みの日の行き先、住んでいる場所」
「はい」
「はい、じゃない」
クリスは声を低くした。
「それは危ない」
「親衛隊員向けの情報です」
「親衛隊員向けなら安全というわけじゃない」
「外部には出していません」
「紙は外に出る」
「厳重に管理しています」
「厳重に管理していても、人が読む。人が覚える。人が話す」
マフガランはそこで黙った。
部屋の中の空気も少し変わる。
クリスは続けた。
「リリアがどこにいるか、休みの日にどこへ行くか、どこに住んでいるか。そういう情報は、親衛隊員にとってありがたいかもしれない。だが、ありがたいから危ないんだ」
「……承知しました」
「今後は会報に載せる内容を絞れ。勤務中に誰でも見える範囲、本人が広めても困らない範囲だけにしろ」
「はい」
「本人に聞いたことでも、全部載せるな」
「はい」
「リリアはたぶん、聞かれたら答える」
「はい。姫様はとてもお優しいので」
「そこが危ないんだ」
クリスは、壁の姿絵を見た。
リリアは優しい。
距離が近い。
悪意を向けられていなければ、疑うことも少ない。
だからこそ、周囲が止めなければならない。
親衛隊が守ると言うのなら、なおさらだ。
「お前たちは、リリアを慕っているんだな」
「はい」
室内の何人かが、静かに頷いた。
「なら、リリアが困ることをするな」
「はい」
「喜ばせたいなら、困らせるな」
「承知しました」
マフガランは深く頭を下げた。
それに合わせて、室内の者たちも頭を下げる。
クリスは、また少しだけ疲れた。
怒鳴る相手ではない。
悪人でもない。
ただ、熱量が高すぎる。
善意が集まりすぎて、制度になり、部屋になり、会報になり、姿絵になっている。
それが一番面倒だった。
クリスは、壁際の机に置かれていた紙束に目を留めた。
そこには、親衛隊員の名前らしきものが並んでいる。
「これは何だ?」
「部隊表です」
マフガランが答えた。
「部隊表?」
「はい。親衛隊内の役割を整理したものです」
「親衛隊内の役割……」
クリスは嫌な予感を覚えながら、紙面を見た。
そこには、いくつかの小部隊名が書かれている。
登庁見守り班。
治安維持班。
会報管理班。
姿絵管理班。
贈り物積立班。
街路美化班。
危険箇所報告班。
外部協力者連絡欄。
そして、その中に妙に物々しい名前があった。
「第一執務室所属親衛隊」
「はい」
「何だ、これは」
「非常時の中核部隊です」
「中核部隊」
「はい。非常時には、まず第一執務室へ急行し、姫様をお守りします」
マフガランは、当然のように言った。
「精鋭部隊です」
部屋の中にいた親衛隊員たちが、静かに頷く。
クリスは紙から顔を上げた。
「何でそんな部隊があるんだ?」
マフガランは、不思議そうな顔をした。
「何をおっしゃっているのですか?」
「俺が変なことを聞いたみたいに言うな」
「我々の存在は、姫様をお守りするためにあります」
「……そうか」
「姫様あっての我々です」
「そうか」
クリスは一度頷いた。
頷いてから、少し考えた。
そして、すぐに首を振った。
「いや、おかしいだろ」
「何がでしょうか?」
「お前たちは、この国を守るために雇われた騎士団員だろう」
その瞬間、室内の空気が少し変わった。
マフガランだけではない。
周囲にいた親衛隊員たちも、ほぼ同時に首を振った。
「違います!」
「違います!!」
「姫様あっての我々です!」
「この国は二の次です!」
「姫様の無事が第一です!」
「第一執務室が落ちれば、我々も終わりです!」
「いや、国が落ちたら終わりだろ」
クリスは思わず言った。
だが、親衛隊員たちは真面目な顔で首を振る。
「姫様がご無事なら、立て直せます」
「姫様が笑ってくだされば、士気は戻ります」
「姫様の存在が副長府を支えています」
「姫様は光です」
「やめろ。増えるな」
クリスは両手で頭を抱えた。
まずい。
こいつらはかなりまずい。
思想が偏っている。
いや、リリアを慕う気持ちは分かる。
分かるが、騎士団員としての優先順位が明らかにおかしい。
しかも、本人たちは真剣である。
「……分かった」
「ご理解いただけましたか」
「理解はしてない。分かっただけだ」
「同じでは?」
「違う!」
クリスは、これ以上突っ込むのをやめた。
ここで説得を始めると、たぶん終わらない。
そして、終わらない割に、たいして改善しない気がした。
「一つ確認する」
「はい」
「強制はしていないんだな」
「していません」
「徽章を買わないと親衛隊にいられないとか、そういうことは」
「ありません」
「会報を買わないと不利になるとか」
「ありません」
「高い型を買えと迫ることは」
「ありません」
「本当だな」
「はい」
「なら、そこは徹底しろ。善意でも、人数が増えると圧力になる」
「圧力」
「周りが全員買ってるから自分も買わなきゃいけない。上の型を持っている者が偉く見える。そういう空気ができる」
「そのような意図はありません」
「意図がなくてもできる」
マフガランは真面目に頷いた。
「注意します」
「頼む」
クリスはそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。
思ったより問題はなかった。
いや、問題はある。
かなりある。
だが、思っていた方向とは違った。
不正な金集めではない。
リリアを利用して儲けているわけでもない。
むしろ、リリアへの贈り物や姿絵、会報、親衛隊員同士の連絡のために金を回している。
本人が嫌がればやめるという意識もある。
危ないところはあるが、直せる。
そう考えると、シエラへの報告としてはどうなのか。
重要情報。
そう言えなくもない。
だが、決定的な不正を暴いたわけではない。
借りが三つも四つも減るほどのものではない気がする。
クリスは内心で、少し落ち込んだ。
せいぜい一つ。
よくて二つ。
そんなところだろう。
「第四大隊長」
マフガランが改めて口を開いた。
「何だ」
「本日は、ご確認ありがとうございました」
「ああ」
「ところで」
「まだ何かあるのか」
「第四大隊長も、親衛隊に入りたいのでしょうか?」
室内が、わずかに静まった。
何人かの視線がクリスに集まる。
クリスは、一瞬だけ言葉を失った。
「……何でそうなる」
「親衛隊室へ来られましたので」
「調査だ」
「姫様に近い方ですし、資格は十分にあるかと」
「入らない」
「そうですか」
「残念そうにするな」
「いえ」
「俺は入らない」
「承知しました」
「本当に承知したか」
「はい」
マフガランは真面目に頷いた。
だが、室内の空気は少しだけ惜しそうだった。
クリスは、これ以上ここにいると本当に入隊させられかねないと思った。
「用件は終わりだ。俺は戻る」
「お見送りします」
「いい。ここでいい」
「はい」
クリスは出口へ向かった。
扉の前で、もう一度だけ振り返る。
壁には、リリアの姿絵。
机には、姫様会報。
胸元には、青と金の徽章。
そして、真面目な顔をした親衛隊員たち。
悪人はいない。
だからこそ、余計に面倒だった。
「会報の内容は、本当に見直せ」
「はい」
「それと、部屋の使用許可も確認しろ」
「使用許可、ですか」
「ここは副長府の部屋だ」
「空いていましたので」
「空いているから使っていいわけじゃない」
「……承知しました」
「頼むぞ」
クリスはそう言って、親衛隊室を出た。
これなら、良い報告をシエラにできる。
この時のクリスは、そう思っていた。




