第2章23話 第四大隊長は親衛隊徽章を見つけました
――帝国暦三二一年・冬終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
翌日。クリス・ラングレーは、第一執務室に入ってすぐ、足を止めた。
いつも通り、第一執務室は忙しい。
書記官たちが書類を運び、伝達係が出入りし、机の上には予定表と報告書が積まれている。
リリアの周囲だけは、相変わらず少し空気が違う。
そこだけ柔らかい。
そこだけ明るい。
そして、そこだけ妙に人の視線が集まる。
クリスは内心でため息をついた。昨日、シエラに見せられた情報資料の文字が頭から離れない。
リリア親衛隊。
正式名称、LWSS。
リリア・ヴァイス親衛支援会。
推定人数、二百名超。
現在、三百名に接近中。
独自徽章。
高値販売。
目的不明。
資金用途不明。
そこが一番気持ち悪かった。
リリアを慕うだけなら、まだいい。
いや、人数の時点でよくはない。
だが、金が絡むと話は変わる。
誰かが利益を得ているのか。
リリアの名前を勝手に使っているのか。
親衛隊の中で妙な上下関係ができているのか。
それによって、レオンの仕事が増えるのか。
考えれば考えるほど、調べない方が危ない気がした。
そして、もう一つ。
シエラに情報を持っていけば、彼女への借りが減るかもしれない。
九つある借りのうち、内容次第では三つ。
そこまで減るなら、まあまあだ。
クリスは、それを少しだけ期待していた。
少しだけであるが。
「第四大隊長」
近くの書記官が会釈した。
ライだった。
若い書記官で、第一執務室ではよく走り回っている。
クリスは軽く返そうとして、その胸元で目を止めた。
小さな円形の徽章がついている。
金色の縁取り。
内側には、深い青の光沢。
中央には、金の文字で「LWSS」と刻まれている。
正式な騎士団徽章ではない。
だが、安物にも見えなかった。
青と金の組み合わせは妙に目を引き、記念品のような高級感がある。
クリスは、その徽章をじっと見た。
「……それか?」
「はい?」
ライが不思議そうに首を傾げる。
クリスは胸元を指した。
「その徽章だ。どうした?」
「ああ、これですか」
ライは少し誇らしそうに胸元へ手を添えた。
「買いました」
「買ったのか」
「はい」
「誰から」
「親衛隊の方からです」
「親衛隊って、あの親衛隊か?」
「はい、姫様親衛隊です」
「堂々と言うな」
ライは、なぜ注意されたのか分からない顔をした。
そういえば、こいつはリリアの朝の登庁に並んでいるのを見たことがある。
クリスは額を押さえながら思い出した。
「それ、誰でも買えるのか?」
「いえ」
「違うのか?」
「以前は、親衛隊の中でも認められた者だけが買えました」
「以前は?」
「はい。毎朝の整列に参加している者や、親衛隊の活動にきちんと加わっている者です」
「活動って何だ」
「姫様のご登庁を見守ることなどです」
「見守るだけでも活動になるのか」
「なります」
「なるのか……」
「ですが、今は認められても買えない人が多いです」
「何でだ」
「物がありません」
「物がない」
「はい。徽章の数が足りないんです」
ライは、胸元の徽章を少しだけ持ち上げた。
「それに、これは番号入りなんです」
「番号?」
「はい。裏側にシリアル番号があります」
「シリアル番号」
クリスは嫌そうに眉を寄せた。
「徽章にそんなものを入れてるのか」
「はい」
ライは誇らしそうに徽章を外し、裏側を見せた。
そこには、小さく数字が刻まれている。
一五〇。
「百五十番です」
「百五十番」
「はい。たぶん、最後の番号だと思います」
「最後?」
「最初に出た徽章は、百五十個だけなんです」
「百五十個しかないのか」
「はい」
クリスは第一執務室を見回した。
リリア親衛隊は、すでに三百名に近づいている。
その中で、徽章が百五十個。
数が合わない。
まったく合わない。
「親衛隊員の数に対して、足りないだろ」
「足りません」
「足りないのか」
「はい。ですから、認められていても買えない人がかなりいます」
「……それで高値になってるのか」
「そうだと思います」
ライは、少しだけ徽章に手を添えた。
「この前も、同じ親衛隊員の方から、倍の値段で譲ってほしいと言われました」
「倍?」
「はい」
「それでも、売らなかったのか?」
「はい、売りません」
ライは即答した。
「これは私の大切な徽章ですので」
「そうか」
「はい。最後の方だったので、ぎりぎり買えました。私はかなり運がよかったです」
「それで、いくらした」
「銀貨二枚です」
「高いな」
「これは一番安い型です」
「一番安い?」
「はい。鉄製です」
「鉄製で銀貨二枚か」
「はい。でも、手に入っただけ幸運です」
ライは真面目な顔で頷いた。
「高い型になると、純銀製のものや、縁に金を使ったものもあります」
「あるのか」
「はい。とても綺麗です」
「いくらするんだ」
「詳しくは知りませんが、かなり高いそうです」
「だろうな」
「そういう徽章は、だいたいシリアル番号が若いです。一桁や二桁のものが多いと聞きました」
「つまり、早く手に入れた連中ほど、高いやつを持ってるのか」
「そうだと思います」
「嫌な仕組みだな」
「そうでしょうか?」
「そうだ」
クリスは額を押さえた。
百五十個だけ発行された徽章。
鉄製。
純銀製。
金を使った高級型。
シリアル番号。
一桁、二桁の若い番号。
そして、倍額で欲しがる親衛隊員。
聞けば聞くほど、ただの親衛隊グッズではなかった。
「それ、つけてると何かいいことがあるのか」
「あります」
「あるのか」
「はい。いろいろあります」
「いろいろって何だ」
「まず、朝の整列に必ず入れます」
クリスは黙った。
「……朝の整列?」
「はい。姫様のご登庁をお迎えする整列です」
「それに必ず入れるのか?」
「はい」
「徽章があると?」
「はい。徽章所持者は優先です」
ライは当然のように説明した。
「今、朝の整列に入れる人数は、両側を合わせても二百人くらいが限界なんです」
「二百人」
「はい。通路の幅もありますし、あまり増えると姫様のご通行の妨げになりますので」
「そこは気にするのか」
「もちろんです。姫様の妨げになることはしてはいけません」
「そうか」
「ですから、徽章所持者の百五十人は必ず入れます」
「残りは?」
「残り五十人は抽選です」
「抽選」
「はい。抽選で当たった者だけが、その日の整列に参加できます」
クリスは、しばらく何も言えなかった。
姫様の登庁を迎えるための朝の整列。
参加枠は約二百人。
そのうち百五十人は、徽章所持者の固定枠。
残り五十人は抽選。
親衛隊員は三百名に近づいている。
つまり、徽章を持っていない者たちは、五十枠を争っている。
意味が分からない。
だが、仕組みとしては成立している。
成立しているのが怖い。
「他には」
「LWSS室に入れます」
「LWSS室?」
「はい。親衛隊員室とも呼ばれている、休憩と連絡用の部屋です」
「はい。休憩と連絡用の部屋です」
「いつの間にそんなものができた」
「最近です」
「最近、が怖いんだよ」
「それから、徽章所持者だけが安く購入できるものがあります」
「購入?」
「姫様会報です!」
「……会報?」
「はい」
クリスは嫌そうに眉を寄せた。
会報。
リリア関連の会報。
初めて聞く言葉だったが、聞いた瞬間から嫌な予感しかしなかった。
そして、その嫌な予感は、だいたい当たる。
「それは、徽章がないと買えないのか?」
「買えます」
「買えるのか」
「はい。ただし、値段が違います」
「値段」
「徽章所持者は、銅貨一枚です」
「安いな」
「はい。できるだけ多くの正規親衛隊員に読んでいただくためです」
「正規親衛隊員?」
「はい」
ライは当然のように頷いた。
「徽章所持者は、正規親衛隊員として認められています」
「徽章がない奴は?」
「準隊員扱いです」
「親衛隊の中でも分かれてるのか」
「はい。ですから、皆さん徽章を欲しがります」
「……なるほどな」
クリスは、かなり嫌そうな顔をした。
「じゃあ、徽章を持っていない奴は会報をいくらで買うんだ」
「数倍します」
「急に高くなったな」
「徽章所持者は、正規親衛隊員ですので」
「それ、騎士団内で勝手に作っていい言葉なのか」
「親衛隊内の言葉です」
「だから怖いんだよ」
クリスは額を押さえた。
姫様会報。
徽章所持者なら銅貨一枚。
徽章がなければ数倍。
買えないわけではない。
だが、値段で明確に差がある。
さらに、徽章所持者だけが親衛隊員室に入れる。
朝の整列にも優先して入れる。
つまり、この小さな青と金の徽章は、ただの飾りではない。
資格であり、通行証であり、割引証であり、優先権でもある。
そして、親衛隊の中で正規隊員と準隊員を分ける印でもあった。
「最近は、さらに隊員が増えていますので」
「増えるな」
「希望者も多いです」
「希望者?」
「はい。この前は、第二騎士団の方が入りたいとおっしゃっていました」
「第二騎士団?」
「はい。今のところは断っているそうです」
「断っているのか」
「はい。まずは副長府内と関係部署を優先する方針だそうです」
「方針って言うな」
「親衛隊の方針です」
「だから怖いんだよ」
クリスは深く息を吐いた。
「他にも、買えなかった奴はいるのか?」
「かなりいます」
「かなりか」
「はい。以前、第十一騎士団のかなり偉い方が、買おうとして寸前で買えなかったそうです」
「第十一騎士団?」
「はい。詳しくは知りませんが、親衛隊長とかなり掛け合っていたとか」
クリスは嫌な予感がした。
「……その人、どんな様子だった」
「金貨の入った袋を片手に持って、これで売ってくれ、とおっしゃっていたそうです」
「金貨」
「はい」
「徽章一つにか」
「はい」
「親衛隊長は?」
「断ったそうです」
「断ったのか」
「はい。数が決まっているものなので、どれだけ積まれても駄目だと」
クリスは、しばらく黙った。
金貨の袋を持って、徽章を買おうとした第十一騎士団の偉い人物。
リリアに関わることになると妙に熱量が上がる人物。
そして、徽章を買えずに粘る人物。
思い当たる相手が、一人しかいなかった。
「……それ、絶対ノイン団長だろ」
「ノイン様ですか」
「前の第七副団長で、今の第十一騎士団長だ」
「ああ、そうかもしれません」
「そうかもしれません、じゃない。ほぼそれだ」
クリスは深く息を吐いた。
ノインまで関わっている。
しかも、金貨の袋を持って徽章を買おうとして断られている。
もう、ただの親衛隊グッズとは言えなかった。
「その姫様会報には、何が書いてあるんだ?」
「姫様の近況です」
「近況?」
「はい。姫様のお好きなものや、よくいらっしゃる場所、お休みの日に行かれた場所などです」
「待て」
クリスはそこで手を上げた。
「今、何て言った」
「姫様のお好きなものや、よくいらっしゃる場所、お休みの日に行かれた場所です」
「他には」
「姫様がどちらにお住まいか、という基本情報も」
「待て」
今度は少し声が低くなった。
ライは、なぜ止められたのか分からない顔をした。
「どこからその情報を手に入れてる」
「分かりません」
「分からないのか?」
「私は購入して読んでいるだけですので」
「読んでる側か」
「はい。ただ、親衛隊員にとっては、とてもありがたい情報です」
「ありがたい、か」
「はい」
クリスは額を押さえた。
ありがたい情報。
確かに、親衛隊員にとってはそうなのだろう。
だが、内容が内容である。
趣味。
よくいる場所。
休みの日に行った場所。
住んでいる場所。
全部、扱い方を間違えればかなり危ない。
ただ、クリスには何となく想像もついた。
リリアは人との距離が近い。
相手に悪意がなければ、疑うこともあまりない。
聞かれれば、素直に答えてしまう可能性がある。
今日は何を食べたのか。
休みの日にどこへ行ったのか。
何が好きなのか。
どこに住んでいるのか。
おそらく、親切に答えている。
そして、その答えが誰かの手でまとめられ、姫様会報になっている。
「……まずいな」
「まずいのですか?」
「かなり微妙だ」
「親衛隊員向けの会報ですが?」
「向ければいいってものじゃない」
「そうなのですか」
「そうだ」
クリスは深く息を吐いた。
どれも悪意ではない。
だが、仕組みとしてはかなり育っている。
その時、ライが少し身を乗り出した。
「あの、第四大隊長」
「何だ」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何をだ」
「姫様のご趣味が読書なのは、姫様会報で知っています」
「ああ」
「それで、好きな本は、アスターの詩集と書いてありました」
「……そうなのか」
「はい。本当でしょうか?」
「俺に聞くな」
「第四大隊長は姫様にお詳しいかと思いまして」
「詳しいというほどじゃない」
「では、もし姫様にお声がけする時に、アスターの詩集のこの辺りが好きだと申し上げたら、姫様は私に微笑みかけてくださるでしょうか」
クリスは、しばらく何も言えなかった。
ライは真剣だった。
本気で聞いている。
本気で、リリアに声をかける作戦を相談している。
「……お前」
「はい」
「リリアと話したことはあるのか?」
「ありません」
「全く?」
「全くありません」
「それで、いきなり好きな詩集の好きな箇所を話題にする気か」
「はい。情報は相当入っていますので」
「情報って言うな」
「姫様会報に載っていました」
「それでも言うな」
「やはり、よくないでしょうか」
「よくない」
クリスは即答した。
「初めて話す相手が、自分の趣味や好きな本や好きな箇所まで知ってたら、普通は怖い」
「怖い、ですか……」
「怖い」
「親衛隊員としては、姫様への理解を深めているだけなのですが」
「相手から見たら違う」
「……違いますか」
「違う。完全に変質者だぞ」
ライは固まった。
かなり衝撃を受けた顔だった。
「変質者……」
「言いすぎかもしれないが、少なくとも怪しい」
「そうですか」
「やめとけ」
「やっぱりそうですか」
「やっぱり、と思うなら最初からやめろ」
「少し不安ではありました」
「その不安は正しい」
ライは真面目に頷いた。
「では、最初は普通にご挨拶だけにします」
「そうしろ」
「姫様会報の情報は使わない方がよろしいでしょうか?」
「少なくとも、初対面で出すな」
「分かりました」
「あと、聞かれていないのに住んでいる場所や休みの日の行き先の話をするな」
「しません」
「絶対だぞ」
「はい」
クリスは深く息を吐いた。
危ない。
思ったより危ない。
悪意がない分、さらにたちが悪い。
親衛隊員たちは、リリアを慕っている。
だから情報をありがたがる。
情報を使って、うまく近づこうとする。
だが、本人から見れば距離の詰め方がおかしい。
リリアなら笑って流すかもしれない。
だが、それが余計に危うい。
「では、失礼します」
「ああ」
ライは一礼し、書類を抱えて離れていった。
その背中は、どこか少し落ち込んでいる。
クリスはそれを見送り、もう一度、第一執務室を見回した。
胸元に青と金の徽章をつけている者が、他にも見える。
さっきまでは、ただの飾りに見えた。
今は違う。
それは、朝の整列に必ず入るための優先権であり、姫様会報を安く買うための資格であり、親衛隊員室に入るための通行証でもある。
そして、正規親衛隊員であることを示す印でもある。
これは、放っておいていいものではない。
クリスは、第一執務室を出ることにした。
廊下に出ると、青と金の徽章はすぐに目についた。
騎士。
書記官。
伝達係。
全員ではない。
だが、思っていたより多い。
しかも、つけている者はどこか誇らしげだった。
さっきまでは、ただの飾りに見えていた。
だが、今は違う。
朝の整列に入るための優先権。
姫様会報を安く買うための資格。
親衛隊員室に入るための通行証。
正規親衛隊員であることを示す印。
その全部が、あの小さな徽章に詰まっている。
「……一人だけじゃないな」
クリスは短く息を吐いた。
ライだけが特別なのではない。
この庁舎の中に、同じ徽章をつけた者が何人もいる。
そして、その誰もが、自分の胸元の徽章をおかしなものだとは思っていない。
親衛隊員室。
徽章がないと入れない部屋。
そこを見なければ、この妙な仕組みの中心は分からない。
「……これ、借り三つで足りるのか」
小さく呟いてから、クリスは廊下の先へ目を向けた。




