第2章20話 第四大隊長は姫様の報告書を読みました
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
■総騎士団副長府庁舎・第三執務室奥資料室
そこには、リリア・ヴァイスの名があった。
通称、姫様。
レオンハルト・ヴァイスの妹。
幼少期、五歳前後でヴァイス家に迎えられた後、レオンハルト副長の妹として育つ。
その頃から、ヴァイス家と旧第七騎士団の周辺ではよく知られた存在だった。
クリス・ラングレーとも、その頃から面識がある。
幼い頃は、クリスを慕って後ろをついて回る時期もあった。ただし、現在はその傾向は完全に消失。
現在のリリア・ヴァイスにとって、クリス・ラングレーは兄の古い知人、または騎士団内で親しく話せる大人の一人程度である。
特別な執着、尊敬、憧れは確認されない。
呼称は、クリスさん。
クリスは、そこで紙を持つ手を止めた。
「……何だ、これは?」
「リリアさんに関する項目です」
「それは分かる」
クリスは、紙を指で叩いた。
「俺の扱い、ひどくないか?」
「どの部分でしょうか?」
「特別な執着、尊敬、憧れは確認されない、のところだ」
「事実です」
「そこまで露骨に書く必要あるか?」
「あります」
「ないだろ」
「リリアさんの対人距離を把握するために必要です」
「俺は比較対象か」
「はい」
「はい、じゃない」
クリスは紙を見下ろした。
幼い頃は慕っていた。
現在は完全に消失。
兄の古い知人。
親しく話せる大人の一人程度。
特別な執着、尊敬、憧れは確認されない。
どれも、完全な嘘ではない。
完全な嘘ではないからこそ、腹が立つ。
「昔はもう少し可愛げがあったんだがな」
「成長しました」
「そういうことか?」
「はい」
「俺への尊敬が消えたことを成長と言うな」
「では、関係性が変化した、にします」
「そうしろ」
「修正します」
シエラは短く頷いた。
クリスは、少しだけ傷ついた顔で続きを読んだ。
なお、クリス・ラングレー調査員は、過去にリリア・ヴァイスを将来の嫁にする可能性を一時的に想定していた形跡がある。
ただし、現在は完全に断念している。
理由としては、リリア・ヴァイス側の感情が変化したことに加え、シエラ・オリオンの存在がある。
クリスは、そこで完全に手を止めた。
「……待て」
「はい」
「今、何て書いてあった」
「リリアさんに関する項目です」
「違う。俺に関する項目が混ざってる」
「関係があります」
「ないだろ」
「あります」
クリスは紙を指で押さえた。
「過去にリリアを将来の嫁にする可能性を一時的に想定していた形跡がある、って何だ」
「観察結果です」
「何で知ってるんだよ」
「上級調査員ですから」
「上級調査員って、そんなことまで分かるのか?」
「分かります」
「分かるな」
「必要な情報です」
「必要じゃない」
クリスは、かなり嫌そうな顔で紙を見下ろした。
昔の話である。リリアがまだ小さく、クリスの後ろをついて回っていた頃の話だ。
あの頃は、たしかに可愛かった。
将来、あの子が大きくなったら、などと考えなかったと言えば嘘になる。
だが、それは本当に昔の話である。
今は違う。
リリアは成長した。
昔ほど自分を慕っていない。
むしろ、兄の古い知人くらいの距離で見ている。
そこまではまだいい。
まだいいが。
「理由としては、シエラ・オリオンの存在がある、って何だ?」
「そのままです」
「そのままじゃない」
「現在のクリスさんには、私がいます」
「いつ決まった」
「将来の妻ですから」
「いつ決まったんだよ」
「まだ正式には決まっていません」
「なら書くな」
「ですが、このまま報告すれば、ほぼ間違いなく決まると思います」
「報告するな」
「父は喜びます」
「喜ばせるな」
「母も喜びます」
「母も巻き込むな」
「兄は警戒します」
「兄はもっと巻き込むな」
シエラは、少しだけ首を傾げた。
「では、表現を調整します」
「そうしろ」
「クリス・ラングレー調査員は、過去にリリア・ヴァイスへ淡い憧れを抱いていた可能性がある。ただし、現在はその可能性を放棄している。理由として、シエラ・オリオンとの将来的関係が強く影響していると推定される」
「これ悪化してるだろ」
「正確になりました」
「正確にするな」
「では、私の存在を理由から外しますか」
「外せ」
「分かりました」
シエラは短く頷いた。
「クリス・ラングレー調査員は、過去にリリア・ヴァイスを嫁にしようとしていた可能性がある。ただし、現在は完全に断念している。理由は、リリア・ヴァイス側の感情変化、および現在の人間関係の変化による」
「……まだ嫌だが、さっきよりはましだ」
「修正します」
「それと、嫁にしようとしていたって書き方もやめろ」
「では、将来的な婚姻対象として一時的に認識していた、にします」
「もっと堅くするな」
「では、淡い憧れで」
「それでいい」
クリスは深く息を吐いた。
昔の話を掘り返された。
リリアからは、もう昔ほど慕われていないと明記された。
さらに、シエラが自分を将来の妻として扱いかけた。
リリアの項目を読んでいるはずなのに、なぜか自分の過去が暴かれていく。
「……これも貸しか?」
「表現調整ですので」
「またか」
「はい」
「いくつだ」
「一つです」
「俺の名誉を守るためだぞ」
「クリス調査員が頼みました」
「そうだな」
クリスは諦めたように頷いた。
「分かった。貸し一つでいい。だから、その部分は絶対に直せ」
「分かりました」
「外に出すなよ」
「調整後に出します」
「出す前提か」
「必要な情報です」
「必要じゃない」
「必要です」
シエラは、淡々と答えた。
クリスは、もう一度額を押さえた。
読めば読むほど、自分が追い詰められていく気がする。
レオンを庇っているはずだった。
エリシアを庇っているはずだった。
副長府の内情を守っているはずだった。
それなのに、紙をめくるたびに、なぜか自分の過去や将来まで掘り起こされている。
この報告書は危ない。
リリアのためにも危ない。
副長府のためにも危ない。
そして、何より自分のために危ない。
クリスは、そう思いながら続きを読んだ。
リリア・ヴァイスは、少しブラウンが混ざった長い金髪が特徴。髪は柔らかく艶があり、動くたびにふわりと流れる。
朝の登庁時には、その髪が外光を受けて目立つ。
騎士団の茶色い制服を着ていても硬さは薄く、周囲の空気を柔らかくする傾向がある。
目元は涼しげだが、拒絶感はない。
相手に親愛を向けているように見えるため、視線を受けた者が好意的に受け取りやすい。
本人に明確な意図はない。
ただし、距離の取り方はやや曖昧。
相手を警戒しすぎず、近づかれても強く拒まないため、周囲が保護対象として扱いやすい。
その結果、旧第七騎士団を中心に、自然発生的な親衛隊化が進んだ。
クリスは黙っていた。
それから、少しだけ低い声で言った。
「……シエラ」
「はい」
「ここまでは、まあ分かる」
「はい」
「少し書き方は危ないが、外れてはいない」
「ありがとうございます」
「礼を言うところじゃない」
クリスはさらに紙をめくった。
副長府内での士気向上効果。
登庁時の親衛隊化。
旧第七を中心に始まったが、現在は旧第十、旧第十二、書記官の一部にまで拡大中。
朝の登庁時には、通路や玄関付近に自然と人が集まる。
名目上は挨拶、書類受け渡し、偶然の通行。
実態としては、リリア様を出迎えるための待機である。
クリスは、そこで目を止めた。
「……待て」
「はい」
「今、何て書いてある」
「リリア様に関する項目です」
「そこじゃない」
クリスは紙を指で押さえた。
「推定人数、二百名超」
「はい」
「現在、三百名に接近中」
「はい」
「……何だ、これ」
「姫様親衛隊です」
「いや、名前は分かる」
クリスは紙を見つめたまま固まった。
二百名超。
三百名に接近中。
騎士団の小さな集まりとしては、もう笑って済ませる数字ではない。
「人数がおかしいだろ」
「増えています」
「増えています、じゃない」
「事実です」
「それを言われると弱いんだよ」
クリスは、紙を持ったまま深く息を吐いた。
レオンを庇い、エリシアを庇い、副長府の内情を少しぼかし、借りをいくつも作った。
その後に出てきたのが、これである。
姫様親衛隊。
二百名超。
三百名に接近中。
クリスは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……副長府、何やってるんだ」
シエラは静かに答えた。
「リリア様の登庁を見守っています」
「見守る人数じゃないだろ」
「はい」
「はい、じゃない」
クリスはさらに紙を読んだ。
リリア・ヴァイスは、男性比率の高い親衛隊員に対し、無意識に好意的な反応を返す傾向がある。
本人に自覚はない。
しかし、結果として親衛隊員の忠誠心を強化している。
柔らかい笑顔、曖昧な距離感、感謝の言葉、拒絶の薄さ。これらが複合し、親衛隊員を継続的に引きつけている。
クリスの眉間にしわが寄った。
さらに、その下に続いていた。
見方によっては、男性親衛隊員約二百名を無自覚に囲い込んでいる状態。
クリスは、そこで完全に手を止めた。
「シエラ上級調査員殿」
「はい」
「ここは駄目だ」
「どの部分でしょうか」
「男性親衛隊員を囲い込んでいる、のところだ」
「事実に近い表現です」
「違う」
「違いますか?」
「リリアはそんなつもりでやってない」
「本人に自覚はない、と書いてあります」
「そういう問題じゃない。この書き方だと、リリアが利用してるみたいに見える」
「意図的ではありません」
「なら、その表現にしろ。親衛隊員をカモにしてるみたいな書き方はやめろ」
「カモとは書いていません」
「同じように読める」
シエラは少し考えた。
すぐには頷かない。
クリスは、嫌な予感がした。
「……これも貸しか?」
「表現調整の依頼ですので」
「やっぱりか」
「はい」
「いくつだ」
「一つです」
「今のはリリアのためだぞ」
「クリス調査員が頼みました」
「そうだな」
クリスは、諦めたように息を吐いた。
「分かった。貸し一つでいい。だから、そこは直してくれ」
「どのようにしましょうか」
「リリア本人に悪意も意図もない。周囲が勝手に喜んで、勝手に集まって、勝手に親衛隊化している。そう書け」
「分かりました」
「それと、笑顔や距離感が原因になってるのは分かる。でも、魅了しているみたいな書き方はやめろ」
「では、本人の柔らかい態度が周囲の保護欲と忠誠心を刺激している、にします」
「……まだ少し危ないが、さっきよりはいい」
「修正します」
シエラは短く頷いた。
クリスは額を押さえた。
また貸しが増えた。
レオンを庇った。
エリシアを庇った。
そして今度はリリアを庇った。
庇う相手が増えるほど、クリスの借りも増えていく。
理不尽だった。
だが、放っておけない書き方だった。
クリスは、もう一度紙を見る。
朝の登庁時、リリア様を出迎える者たちは整列する傾向がある。
正式な命令ではない。
しかし、自然と列ができる。
挨拶の声は明るく、周辺の士気は上がる。
通路の流れは一時的に悪くなる。
旧第七系の騎士団員は特に反応が早い。
旧第十、旧第十二の一部も同調しつつある。
書記官の一部にも広がっている。
「……本当に何やってるんだ、副長府」
「リリア様の登庁を見守っています」
「だから、見守る規模じゃない」
クリスは紙を伏せた。
数字だけでも十分におかしい。
だが、数字だけではなかった。
経歴。
外見。
距離感。
朝の出迎え。
親衛隊化。
自分の昔の淡い憧れ。
シエラの将来の妻発言。
そして、表現を間違えると危ない分析。
読むほどに、問題が増えていく。
守るべきものも増えていく。
そして、なぜかクリス自身の逃げ道だけが狭くなっていく。
これは放っておくと、妙な方向に広がる。
少なくとも、報告書として外へ出すなら、かなり慎重に扱う必要がある。
「シエラ」
「はい」
「この項目、俺が全部見る」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。見ないと危ないんだよ」
「では、確認をお願いします」
「貸しは?」
「先ほどの一つです」
「増やすなよ」
「内容によります」
「増やす気だな」
「必要であれば」
クリスは、深く息を吐いた。
第四大隊長は、その日、帰る機会を完全に失った。




