幕間3 副長に挑みたい騎士たち
――帝国暦三二一年・冬中頃 ヴェリア帝国東ロンバルディア騎士団領 ヴァイス騎士団訓練場――
■ヴァイス騎士団訓練場
合同訓練の終盤。
レオンハルト・ヴァイスは、訓練場の端で各大隊の様子を見ていた。
自分の役目は、もう終わっている。
後は、大隊長たちが部下に力を示し、中隊長や小隊長、名のある騎士たちがそれぞれ挑む時間だった。
大隊長が部下の挑戦を受ける。
中隊長が上官に挑む。
小隊長が名を上げようと踏み込む。
剣の音があちこちで響き、騎士団員たちの声が訓練場に広がっている。
その様子を見ながら、レオンは静かに息を吐いた。
無事に終わりそうだ。
少なくとも、その時はそう思っていた。
「副長」
一人の騎士が、レオンの前に立った。
旧第十騎士団から編入された若い騎士である。
「何だ」
「一度だけ、手合わせをお願いできませんでしょうか」
レオンは、その騎士を見た。
目は真剣だった。
先ほどの戦いを見て、自分でも確かめたくなったのだろう。
こういう目をした者を、レオンは嫌いではなかった。
「一度だけだ」
「ありがとうございます!」
短い手合わせだった。
数合だけ剣を交え、相手の踏み込みの癖を見て、肩に剣の腹を止める。
「一本」
審判役の騎士が声を上げる。
若い騎士は息を切らしながらも、目を輝かせていた。
「ありがとうございました!」
「踏み込む前に、肩が動きすぎる。そこを直せ」
「はい!」
それで終わると思った。
終わらなかった。
「副長、私もお願いできますか」
今度は別の騎士だった。
旧第十二騎士団から来た者である。
レオンは一瞬だけ考えた。
一人だけ相手をして、二人目を断るのも不公平に見える。
「一度だけだ」
「ありがとうございます!」
二人目も相手をした。
やはり数合で終わらせた。
相手の動きを見て、足の運びを潰し、剣を止める。
「一本」
騎士は悔しそうにしながらも、嬉しそうだった。
「ありがとうございました!」
「力で押しすぎだ。最初の二歩で狙いが分かる」
「はい!」
今度こそ終わる。
レオンはそう思った。
そこで、背後の気配に気づいた。
振り返る。
騎士が並んでいた。
騎士だけではない。
騎士見習いもいる。
大隊の一般兵士らしき者まで混じっている。
しかも、長い。
訓練場の端に、いつの間にか列ができていた。
レオンは無言で列を見た。
列の先頭にいた騎士が、期待に満ちた目でこちらを見ている。
「副長。次、よろしいでしょうか」
「よくない」
レオンは即答した。
「え?」
「よくない」
もう一度言った。
そして、近くにいた第一大隊長のジェイドを見つけ、呼んだ。
「ジェイド!」
「はい、何でしょうか?副長」
「後は任せた」
「……私に、ですか?」
「しかし皆は副長と……」
「任せた!」
「俺は戻る」
「……承知しました」
「頼んだ」
レオンはそれだけ言い残し、早々に訓練場から撤収した。背後で、騎士団員たちのざわめきが起きた。
ジェイドが、少し困ったように列を見ている。
だが、レオンは振り返らなかった。
振り返れば、また何か頼まれる。
そう判断したからである。
■翌日 総騎士団副長府・第1執務室
翌日。
レオンは、合同訓練は無事に終わったものだと思っていた。
もちろん、書類は増えた。
各大隊からの報告書。
訓練結果のまとめ。
今後の訓練計画。
負傷者の軽い報告。
訓練場設備の補修申請。
そういうものは当然ある。
だが、それはまだ仕事の範囲内だった。
問題は、別のところから来た。
「副長」
イリスが、数枚の書類を持って入ってきた。
表情はいつも通り落ち着いている。
だが、レオンはその書類の束を見た瞬間、嫌な予感がした。
「何だ、それは」
「副長と手合わせをしたいという方々からの申請書です」
「なぜ俺のところに来る」
「一応、許可しましたので、確認をお願いしようかと」
レオンは、動きを止めた。
「許可した?」
「はい」
「何を」
「副長との手合わせです」
イリスは淡々と答えた。
レオンは、机の上に置かれた書類を見下ろす。
正式な申請書だった。
手合わせ願。
訓練指導願。
剣術確認願。
中には、かなり直接的に「副長と剣を交えたい」と書かれたものまである。
そして、その宛先は、すべて同じだった。
イリス首席書記官宛。
さらに、そのいくつかには、すでに許可印が押されていた。
レオンは、しばらく黙った。
「なんだこれは」
「ですから、副長と手合わせをしたいという方々からの申請書です」
「そういう意味ではない!」
「はい」
「なぜ、俺と申請者が剣を交えるのに、イリスの許可が出ている」
「私宛でしたので」
「私宛でしたので、ではない」
「一応、予定管理に関わる申請ですから」
「俺の予定だ」
「はい。ですから、確認のため副長にお持ちしました」
「順番が逆だ」
レオンは申請書を一枚持ち上げた。
そこにも、イリス首席書記官の許可印がある。
「なぜ許可した」
「申請内容に不備はありませんでした」
「不備はある」
「どこにでしょうか」
「俺が了承していない」
「ですので、今確認しています」
「確認前に許可印を押すな」
イリスは少しだけ首を傾げた。
「仮許可です」
「書類には許可と書いてある」
「では、条件付き許可に訂正します」
「そういう問題ではない」
レオンは深く息を吐いた。
「そもそも、なぜイリスに申請が届いている」
「分かりません」
イリスは平然と答えた。
「分からないのか」
「はい。ですが、すべて私宛に届いています」
「なぜだ!」
その時、リリアの後ろに控えていたフィアナが、控えめに口を開いた。
「イリス殿下が、副長閣下のお仕事を管理していらっしゃるからではないでしょうか」
イリスが、すぐに訂正する。
「首席書記官です」
「あ、はい。イリス首席書記官が、副長閣下のお仕事を管理していらっしゃるからではないかと」
フィアナは言い直した。
「手合わせを入れると、その分、副長閣下のお仕事の時間が奪われます。ですから、まずイリス首席書記官の許可を取らなければならないと考えたのではないでしょうか」
「なるほど」
イリスは小さく頷いた。
レオンは納得しなかった。
「イリス、なるほどではない」
フィアナは、少し考えてから続けた。
「以前は、エリシアさんが副長閣下を管理しているように見えましたし」
「管理されていた覚えはない」
レオンは即答した。
フィアナは小さく頭を下げる。
「すみません。管理ではなく、監視でした」
「もっと悪い」
「申し訳ありません」
イリスは机の上の申請書を見る。
「ですが、現在は私が副長の予定を管理しています」
「予定を管理しているだけだ」
「はい」
「手合わせの許可権まで渡した覚えはない」
「それは、今確認しています」
「確認前に許可印を押すな」
そこで、リリアが少しだけ目を輝かせた。
「お兄様」
「何だ」
「私も、お兄様を管理してみたいです」
室内が静かになった。
レオンはリリアを見た。
「しなくていい」
「そうなのですか」
「そうだ」
「でも、お兄様のお仕事やお休みを私が管理できれば、もっとお兄様が休めるかもしれません」
「それは管理ではなく、お世話だ」
「お世話ならできます」
「しなくていい」
その時、リリアの後ろに控えていたココが、すっと胸を張った。
「リリアさんの管理は、私がします」
「ココ」
「はい」
「そこは胸を張るところではない」
「大切なことです」
ココは真面目な顔で答えた。
リリアは少し困ったように笑っている。
レオンは額を押さえた。
「……話を戻すぞ」
「はい」
イリスが淡々と頷いた。
「戻してください」
「お前が言うな」
レオンは、改めて申請書の束を見る。
「それで、何人いる」
「現在、五十名ほどです」
「五十」
「はい」
「五十人も相手をしていたら、休みが消える」
「一人あたりの時間を短くすれば」
「休みが消える」
「はい」
「分かっているなら組むな」
「まだ組んでいません」
「ならいい」
「ですが、まとめて対応するなら、次のお休みの日が一番効率的です」
「駄目だ!」
「まだ日付を申し上げていません」
「休みという時点で駄目だ」
「ですが」
「月に二日しかない休みを、なぜ手合わせで埋めなければならない」
レオンは机に置かれた申請書を見る。
騎士。
騎士見習いと従卒。
一般兵士。
階級も所属もばらばらだった。
明らかに、昨日の訓練を見て勢いで出した者もいる。
もちろん、真剣な者もいるだろう。
それが余計に厄介だった。
「騎士だけではないのか?」
「はい。騎士見習いや一般兵士からも申請が来ています」
イリスが答える。
「あと、若干名ですが、女性騎士もいます」
その瞬間、リリアの表情がわずかに変わった。
「女性騎士の方もいるのですか?」
「はい。若干名ですが」
メリーが少し意外そうに目を向けた。
「エリシアさん以外にも、女性騎士がいるんですね」
「多くはありません。ただ、いないわけではありません」
イリスは淡々と答えた。
リリアは、少しだけ口を引き結んでいる。
「お兄様は、女性騎士の方とも手合わせなさるのですか?」
「できれば避けたい」
「なぜですか」
「加減が難しい」
レオンは即答した。
「手を抜けば失礼になる。だが、強く打ち込みすぎれば問題になる。男の騎士なら多少強く叩いてもいいが、女性騎士は力の調節が面倒だ」
「男の騎士ならいいのですか」
「クリスのような相手なら、遠慮なく叩ける」
ちょうどその時、扉が開いた。
報告書を持った第四大隊長クリス・ラングレーが、扉のところで足を止める。
「お前、それ本気で言ってんのか?」
レオンはクリスを見た。
「半分は冗談だ」
「半分は本気じゃないか」
「日頃のストレス解消にはなる」
「やっぱり本気じゃないか」
クリスは顔をしかめた。
イリスが、静かにクリスを見る。
「クリス大隊長」
「はい」
「今、女性騎士の手合わせについて話していました」
「ああ、それなら俺が相手してもいいですよ」
クリスは軽く言った。
その瞬間、イリスの目が細くなった。
リリアの目も、少し冷えた。
メリーも、珍しく無言でクリスを見た。
ココも、リリアの後ろからじっとクリスを見ている。
クリスは一歩下がった。
「……今のは、自己犠牲だ」
「そうですか」
「いや、レオンが嫌がってたから……」
イリスの声は穏やかだった。
だが、穏やかすぎた。
クリスはもう一歩下がる。
「俺は用事を思い出した」
「用事があったのか?」
レオンが尋ねる。
「あった。今できた」
クリスはそれだけ言うと、持っていた報告書を近くの机に置き、そそくさと退室した。
扉が閉まる。
室内に、妙な沈黙が落ちた。
レオンは、もう一度申請書を見る。
「とにかく却下だ」
「全部ですか」
イリスが確認する。
「却下」
レオンは即答した。
「ですが、すでに許可印を押したものがあります」
「取り消せ」
「承知しました」
「最初から押すな」
「次から気をつけます」
「次がある前提で話すな」
リリアが、少しだけ不満そうな顔をした。
「お兄様。皆さん、お兄様に教わりたいのです」
「だからといって、五十人は無理だ」
「でも、女性騎士の方もいるのですよ」
「だから余計に難しいと言っている」
「お兄様」
「リリア」
「手合わせの後、少しお話をしたり、一緒に食事に行ったりすれば、もっと仲良くなれるかもしれません」
室内が静まり返った。
レオンは何も言わなかった。
イリスも、静かに視線をそらした。
メリーが少しだけ瞬きをする。
フィアナは、リリアの後ろで困ったように目を伏せている。
リリアだけが、真剣な顔をしていた。
レオンは、ようやく口を開いた。
「そういうことはしない」
「そうなのですか」
「しない」
「でも、仲良くなれますよ」
「ならなくていい」
「お兄様は、もう少し皆さんと親しくされた方が」
「リリア」
「はい」
「手合わせと食事は別だ」
「そうなのですか」
「そうだ」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
レオンは深く息を吐いた。
「結論を言う」
全員の視線がレオンに集まる。
「休みの日は駄目だ」
「はい」
イリスが頷く。
「五十人も駄目だ」
「はい」
「ただし、少人数なら相手をする」
リリアの顔が明るくなる。
「本当ですか」
「空いた時間に限る。訓練場で、一人か二人ずつだ。食事には行かない。休みの日も使わない」
「分かりました」
イリスはすぐに頷いた。
「では、こちらで人数を絞ります」
「イリスがやるのか」
「私に持ち込まれましたので」
「持ち込まれても受け取らなくていい」
「ですが、もう受け取りました」
「……そうか」
レオンは諦めた。
メリーが、机の上の申請書を見ながら言った。
「訓練指導の予定が入ると、書類処理の時間が削れます」
「分かっている」
「その分、前後に詰める必要があります」
「分かっている」
「つまり、仕事は減りません」
「分かっている」
分かっているから嫌なのだ。
レオンは深く息を吐いた。
「イリス」
「はい」
「選別は任せる」
「承知しました」
「ただし、休みの日は絶対に入れるな」
「はい」
「絶対にだ」
「はい」
「五十人全員も駄目だ」
「もちろんです」
イリスは穏やかに答えた。
レオンは、その穏やかさが少し信用できなかった。
だが、これ以上言っても無駄だろう。
こうして、合同訓練の後、レオンは空いた時間を使って、一人または二人ずつ騎士たちに稽古をつけることになった。
騎士。
騎士見習い。
一般兵士。
中には、女性騎士もいた。
レオンは相手によって加減を変え、踏み込みを見て、肩や足の癖を指摘し、必要なら一度だけ剣を交えた。
その結果、副長に挑みたい者たちは、ますます増えた。
仕事は減らなかった。
人気も、別にレオンが望んだわけではないのに上がった。
なお、その後、レオンが手合わせをした騎士たちと食事へ行くようになったかどうかは、誰も知らない。




