第2章17話 力を示す日
――帝国暦三二一年・冬中頃 ヴェリア帝国東ロンバルディア騎士団領 ヴァイス騎士団訓練場――
■ヴァイス騎士団訓練場
ヴァイス騎士団訓練場には、多くの騎士団員が集まっていた。
大隊ごとに整列した騎士たち。
中隊長たち。
小隊長たち。
腕に覚えのある騎士たち。
近衛中隊の騎士たち。
全員が、ヴァイス騎士団に属する者たちだった。
彼らは、黒い石材を組んで作られた円形の大舞台を取り囲むように並び、これから始まる訓練という名の戦いを待っていた。
大舞台の表面には、既に幾つもの剣傷が残っている。
磨かれてはいるが、飾りのための場所ではない。
ここは、上に立つ者が力を示し、下にいる者が上に挑むための場所だった。
ここに部外者はいない。
外に見せるための場でもない。
これは、ヴァイス騎士団の内側で行われる合同訓練である。
騎士団領では、こうした合同訓練が年に何回か行われる。
上に立つ者が力を示す。
下にいる者が上に挑む。
勝てば、その者の名は上がる。
負けたとしても、力を示せれば評価される。
大隊長が中隊長以下に不覚をとることもある。または、腕に覚えのある騎士に押されることもある。
それは恥ではない。
力を示さず、挑まれることを避ける方が、よほど恥だった。
東ロンバルディアでは、爵位や家柄だけで人の上に立つことを好まない。
力と能力を示し、周囲に認められてこそ、上に立つ意味がある。
だから騎士たちは、この訓練に真剣だった。
そして今回は、いつも以上に視線が集まっていた。
今日が、ヴァイス騎士団として、初めての合同訓練だからである。
以前はそれぞれ行っていた訓練。
それが、今は旧第七騎士団を中心に、旧第十騎士団、旧第十二騎士団の者たちも加わり、騎士団の規模は大きく変わった。
大隊も増えた。
所属も変わった。
上官も変わった。
その大舞台の中央に、新しいヴァイス騎士団の前に立つ者がいる。
総騎士団副長、レオンハルト・ヴァイスである。
レオンは、第七騎士団長だった頃も、こうした訓練に毎回出ていたわけではない。
出るとしても、たまにだった。
だから、昔からレオンを知る者たちはともかく、他の騎士団からヴァイス騎士団へ来た者たちの多くは、レオンが実際に剣を振るう姿を知らない。
噂では聞いている。
若くして騎士団長になった男。
さらに総騎士団副長にまで上がった男。
だが、その強さを、自分の目で見た者は多くない。
レオンにとっても、これは初めての場だった。
ヴァイス騎士団としての初めての合同訓練。
総騎士団副長として、新しく増えた騎士たちの前に立つ初めての訓練。
面倒でも、ここで力を示しておく必要があった。
毎回出るつもりはない。
むしろ、次からは見ている側に回ることになるだろう。
だが、最初だけは違う。
初めだけは、自分が上に立つ者だと、剣で示さなければならない。
大舞台の中央に、レオンハルト・ヴァイスが立っていた。
騎士服姿である。
副長府で書類を見ている時とは違い、腰には剣がある。
背筋はいつも通り伸びていた。
ただし、顔色はいつも通りよくない。
その近くで、第四大隊長クリス・ラングレーが眉を寄せていた。
「本当にやるのか?」
「ああ」
「代表三人だけで済ませるんだな」
「ああ」
「途中で増やすなよ。お前がその気になったら、訓練の時間が全部食われる」
「言わん」
「ならいい」
クリスは肩をすくめた。
軽口はそこまでだった。
この場には、一万を超える騎士団員たちの目がある。
大隊長が、訓練前にいつまでも喋り続ける場ではない。
大舞台の中央には、三人の大隊長が進み出ていた。
第一大隊長ジェイド。
第四大隊長クリス。
第五大隊長ヴァルト。
いずれも、ヴァイス騎士団の中で名を知られた者たちである。
大隊長全員が出るわけではない。
今日の訓練は、レオン一人の強さを長々と見せるための場ではなかった。
最初に、総騎士団副長としての力を示す。
それだけでよい。
その後は、他の騎士たちが、それぞれに力を示す番だった。
三人は、それぞれ訓練用の剣を手にしている。
真剣ではない。
だが、ただの木剣でもない。
訓練用に刃を潰した剣である。
当たれば痛い。
まともに受ければ骨も折れる。
だからこそ、騎士たちは真剣に見る。
ジェイドが、静かにレオンを見た。
「副長」
「何だ」
「本当に、我々三人でよろしいのですか」
「ああ」
「一人ずつではなく?」
「時間がかかる」
ジェイドの目が、わずかに細くなる。
その隣で、クリスが肩をすくめた。
「お前らしい理由だな」
「間違ってはいない」
「そういうところだぞ」
ヴァルトは二人のやり取りを聞きながらも、すでに間合いを測っていた。
笑ってはいない。
相手は、レオンハルト・ヴァイスである。
油断していい相手ではなかった。
「副長」
ジェイドが、改めて口を開いた。
「三人とはいえ、我々も大隊を率いる身です。軽く扱われるつもりはありません」
「分かっている」
「ならば、こちらも遠慮はしません」
「それでいい」
レオンは短く答えた。
「俺が最初に力を示す。その後は、お前たちがそれぞれの大隊で力を示す番だ。ここで時間を使いすぎるわけにはいかない」
ジェイドは静かに剣を構えた。
「承知しました」
クリスも剣を構える。
ヴァルトも、少し遅れて構えた。
訓練場は静まり返っていた。
見ている騎士たちも、声を出さない。
この場で始まるものが、ただの余興ではないと分かっていた。
訓練場の一角では、リリアが両手を胸の前で握っていた。
隣にはメリーがいる。
少し離れて、マリニーファも立っていた。
「お兄様……」
リリアの声は小さかった。
「副長は、本当に三人を相手にするのですね」
メリーが淡々と言った。
「そうみたいです」
「危なくないのでしょうか」
「お兄様なので、大丈夫だと思います」
「根拠が強いようで、少し不思議です」
マリニーファは、真剣な顔でレオンを見ていた。
「……レオン様」
「マリさん」
「はい。今は静かに見ます」
「お願いします」
リリアはそう言いながらも、視線をレオンから外せなかった。
少し離れた位置では、イリスも訓練場を見ていた。
メイドのメリッサと、静かに立っている。
ここでは、書類だけでは足りない。
任命だけでも足りない。
騎士たちの前で、力を示さなければならない。
以前、レオンが言っていたことの意味が、今は少しだけ分かる気がした。
レオンが剣を抜いた。
その動作だけで、訓練場の空気が変わった。
三人の大隊長が構える。
レオンは剣を下げたまま、三人を見た。
審判役の騎士が、片手を上げる。
そして、鋭く振り下ろした。
「始め!」
次の瞬間、三人が動いた。
正面からジェイドが入る。
クリスは真正面を避け、斜めから踏み込む。
ヴァルトは一歩遅れて全体を見る。
単純な三方向からの攻めではない。
ジェイドが正面で圧をかける。
クリスが横から崩す。
ヴァルトが空いた場所を塞ぐ。
三人とも、大隊長として十分な実力を持っている。
見ている騎士たちが、思わず息を詰めた。
だが、レオンは退かなかった。
一歩。
ただ一歩、前に出る。
その一歩で、三人の距離がわずかに狂った。
レオンの強さは、単純な腕力だけではない。
速さだけでもない。
もちろん、鍛錬は毎日している。
だが、レオンの本当の強さは、相手を見ることにあった。
肩が沈む。
足先がわずかに外へ向く。
剣を握る指に力が入る。
視線が一瞬だけ、次に踏み込む場所へ流れる。
呼吸が変わる。
腕の筋肉が、剣を振る前にわずかに張る。
膝が沈み、重心が前へ移る。
レオンは、そのすべてを見ていた。
剣が振られる前に、相手がどこへ動くかを読む。
踏み込まれる前に、踏み込みたい場所へ入る。
攻められる前に、攻めにくい位置へずらす。
だから、見ている者にはレオンが速く見えた。
実際、速い。
だが、それ以上に、動き出しが早い。
相手が動くより先に、レオンはもう動いている。
ジェイドが正面から踏み込もうとした瞬間、レオンは半歩前へ出ていた。
正面の剣を、まともには受けない。
剣の根元へ入る。
ジェイドの一撃が一番力を持つ前に、その軌道をずらす。
クリスの視線が横へ流れた瞬間、その進路にはすでにレオンの剣があった。
クリスの目がわずかに細くなる。
だが、言葉はない。
戦闘中に、余計な会話をする場ではなかった。
ヴァルトが連携を整えようと肩を開く。
その瞬間、レオンはその間へ入っていた。
三人が遅いわけではない。
ただ、レオンが先に動いている。
それだけだった。
三人が同時に動いているはずだった。
だが、レオンの前では、三人が互いに動きにくくされているように見えた。
近衛中隊の騎士の一人が、思わず声を漏らした。
「……あれが、総騎士団副長レオンハルト・ヴァイス」
別の騎士も、目を見開いていた。
「噂では聞いていたが」
「あれほどか」
旧第十騎士団、旧第十二騎士団から編入された騎士たちも、ざわめきを抑えきれない。
噂の副長。
若くして騎士団を率い、さらに昇進した男。
書類に追われている姿ばかり見ていた者たちにとって、訓練場のレオンは別人のように見えた。
だが、古くからレオンを知る者たちは違った。
驚きながらも、納得していた。
ああ、そうだった。
この人は、こういう人だった。
そう思い出すような顔だった。
ジェイドが正面から重い一撃を放つ。
レオンは、それをまともには受けなかった。
剣の根元へ入り、軌道をずらす。
その瞬間、クリスが横から入る。
速い。
第四大隊長として、やはり実力は高い。
だが、その勢いをレオンは知っている。
肩の動き。
踏み込みの深さ。
剣を握る手の力。
どの距離で切り込むか。
どこで止まれないか。
その癖を、レオンはすでに知っている。
剣が交わる。
一度。
二度。
三度。
金属音が訓練場に響く。
ヴァルトが、二人の動きに合わせて退路を塞ごうとする。
悪くない連携だった。
だが、レオンはその三人の間へ入った。
普通なら危険な場所。
挟まれる位置。
だが、レオンが入った瞬間、三人の剣筋は互いに制限される。
クリスが小さく舌打ちした。
言葉はそれだけだった。
次の瞬間、レオンの剣が動いた。
ヴァルトの剣が弾かれる。
完全に落とされたわけではない。
だが、肩に剣の腹が止まっていた。
「一本」
審判役の騎士が声を上げる。
ヴァルトは一瞬だけ目を見開き、それから静かに下がった。
「……見事です」
レオンは答えなかった。
ただ、剣を下げず、次の動きに備える。
その沈黙だけで、ヴァルトは理解したように小さく息を吐いた。
残ったジェイドとクリスが同時に動く。
ジェイドが正面から押す。
クリスが斜めから切り込む。
二人の連携は鋭かった。
だが、レオンはまた前へ出た。
下がらない。
受け切らない。
二人が力を出し切る前に、その間合いを潰す。
クリスの剣が弾かれた。
胸元に、レオンの剣先が止まる。
「一本」
クリスは動きを止め、息を吐いた。
「……相変わらずだな」
レオンは何も言わなかった。
ただ、わずかに視線を返す。
それだけで十分だった。
クリスは苦笑しながら下がった。
最後に残ったジェイドが踏み込んだ。
第一大隊長らしい、正面からの重い一撃だった。
速い。
迷いもない。
周囲の騎士たちが息を呑む。
レオンはそれをまともには受けなかった。
半歩前に出る。
受けるのではなく、剣の根元へ入る。
ジェイドの剣が一番力を持つ前に、その軌道をずらした。
ジェイドの体勢が崩れる。
そこへ、レオンの剣の腹が肩に止まった。
「一本」
審判役の声が響く。
ジェイドは一瞬目を見開き、それから静かに剣を下げた。
「……甘く見ていたのは、こちらでしたか」
レオンは答えなかった。
剣を下ろし、わずかに頷いただけだった。
その態度に、ジェイドは小さく笑う。
大舞台が静まり返る。
三人の大隊長は、すでに全員が一本を取られている。
審判役の騎士が、声を張った。
「勝者、総騎士団副長、レオンハルト・ヴァイス!」
その瞬間。
レオンは、下ろしていた剣を片手で高く掲げた。
普段のレオンなら、そんなことはしない。
勝ち誇るような仕草を好む男ではない。
だが、今日は違う。
これは、ただ勝つための訓練ではなかった。
ヴァイス騎士団として初めての合同訓練。
上に立つ者が、力を示す日。
ならば、勝った事実を、この場にいる全員へ見せなければならない。
掲げられた剣に、冬の光が当たる。
訓練場にいた騎士団員たちが、一瞬だけ息を呑んだ。
そして、次の瞬間。
訓練場が、大歓声に包まれた。
大隊の騎士たちが声を上げる。
騎士団員達も揃って賛辞を送る。
近衛中隊の者たちは思わず拍手していた。
旧第十騎士団、旧第十二騎士団から来た者たちは、驚愕と興奮を隠せない。
「本当に、噂通りだった」
「いや、噂以上だ」
「あれが、我らの副長か」
「ヴァイス騎士団の上に立つ者だ」
リリアは、言葉を失っていた。
高く掲げられた剣。
その下に立つ兄の姿。
いつも第1執務室で書類に追われ、疲れた顔でため息をついている兄とは違う。
いや、違うのではない。
これもまた、レオンハルト・ヴァイスなのだ。
「お兄様……」
ようやく漏れた声は、小さかった。
けれど、目は剣を掲げるレオンから離れない。
隣のメリーも、しばらく黙っていた。
その表情は、いつものように落ち着いている。
だが、視線だけははっきりとレオンに向いていた。
「……あれは、反則ですね」
メリーが小さく呟いた。
「メリーさん?」
「いえ。何でもありません」
少し離れたマリニーファは、完全に見惚れていた。
両手を胸の前で握り、息をするのも忘れたように、剣を掲げるレオンを見つめている。
「仕事で疲れているレオン様も素敵ですが……」
「マリさん」
「剣を掲げているレオン様も、とても素敵です」
「それは、否定できません」
リリアは小さく頷いた。
少し離れた場所では、イリスもまた、レオンから目を離せずにいた。
書類の中の役職。
皇都で聞いた噂。
総騎士団副長という肩書き。
それだけでは分からないものが、今、大舞台の中央にあった。
メリッサも、静かに目を細めている。
リリアたちは、誰もすぐには言葉を出せなかった。
強さを見せつけるための姿。
騎士団員たちへ向けられた示威。
それだと分かっていても、見惚れずにはいられなかった。
歓声の中で、クリスが肩を回しながら苦笑した。
「こりゃ、完全に引き立て役だな」
ジェイドが静かに剣を下ろす。
「元々、お前はそういう役回りだろう」
「おい」
「違うのか?」
「否定しにくい言い方をするな」
ヴァルトが、軽く笑った。
「悪くないと思いますよ。副長を相手にすれば、誰でも似たようなものです」
「それは慰めてるのか?」
「半分は」
「残り半分は何だ」
「事実です」
クリスは顔をしかめた。
「余計にひどいな」
それでも、その声に本気の悔しさだけはなかった。
負けた。
だが、三人の大隊長は力を示した。
そして、それ以上のものを、レオンハルト・ヴァイスが示した。
その事実を、この場にいる騎士団員たちは見ていた。
レオンハルト・ヴァイスが、三人の大隊長を相手に勝った。
そして、勝者として剣を掲げた。
その光景は、その日、ヴァイス騎士団の訓練場にいた全ての騎士団員の記憶に、はっきりと刻まれた。




