第2章16話 副長、武具店初心者です
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 市街――
騎士団領市街・商店通り
必要な買い物を終えたところで、レオンは少しだけ足を止めた。
「悪いが、もう一件付き合ってくれないか?」
「まだ何か買うのか?」
クリスが聞く。
「剣帯を見たい」
「剣帯?」
「ああ。今使っているものが悪いわけではないが、せっかくだから自分で選んで買ってみようと思ってな」
クリスは少しだけ意外そうな顔をした。
「珍しいな。お前がそういうことを言うのは」
「そうか?」
「そうだろ。剣帯なんて、騎士なら毎日使うものだぞ」
「だからこそ、自分で選んでもいいかと思った」
「まあ、悪いことじゃないな」
クリスは通りの先を指した。
「武具なら俺の馴染みの店がある。ここから近い」
「助かる」
「じゃあ、そこに行くか」
レオン、クリス、リリア、マリの四人は、そのまま商店通りを少し外れた。
大通りの賑やかさから離れると、店の種類も変わってくる。
布や菓子、日用品を扱う店ではなく、革製品、馬具、金具、刃物、修繕道具を扱う店が増えた。
その中に、クリスが足を止めた店があった。
看板には、剣と革帯の絵が描かれている。
「ここだ」
クリスは慣れた様子で扉を開けた。
扉についた小さな鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店員が顔を上げた。
店内には、剣帯、鞘、手入れ道具、革手袋、予備の留め具、肩当て、短剣、そして壁際には長剣も並んでいた。
リリアは目を丸くした。
「武具店というのは、こういう場所なのですね」
マリも少し落ち着かない様子で、棚を見回している。
「私も初めて入りました」
「まあ、剣を使う仕事でもなければ、普通はあまり入らないだろうな」
クリスがそう言うと、レオンも店内を見ながら頷いた。
「俺も初めて入る」
クリスの動きが止まった。
「……は?」
「どうした」
「お前、武具店に入ったことないのか?」
「ない」
「お前が?」
「ああ」
「剣を毎日振ったり、持っているお前が?」
「そうだが」
「いつも剣帯とか手入れ道具とか、どうやって手に入れてたんだよ」
「家にあったものを使っていた」
「家?」
「父からもらったものや、倉庫に残っていたものを直して使っていた」
クリスは額に手を当てた。
「ヴァイス家の倉庫、便利すぎるだろ」
「古いが、まだ使えるものは多い」
「そういう問題じゃねぇ」
レオンは不思議そうな顔をした。
本人としては、特別なことを言ったつもりはないらしい。
リリアは少しだけ困ったように笑った。
「お兄様は、物を長く使われますから」
「それは良いことなんだけどな」
クリスは店内を見回しながら言う。
「でも、武具店に初めて来る騎士団長って、なかなかいないぞ」
「今は副長だ」
「そこは重要じゃねぇ」
マリは壁際に並んだ剣を見上げた。
「剣も売っているのですね」
「そういう店だからな」
クリスが答える。
マリは少し不安そうに首を傾げた。
「私でも買えるのでしょうか?」
「買うだけなら、物による」
「物による、ですか」
「ああ。刃を潰した練習用や、短い装飾用なら話は別だ。だが、一定以上の長さがあって、実際に使える刀剣類は許可がいる」
クリスは自分の腰を軽く叩いた。
「俺たちみたいな騎士や軍人は、資格証や帯剣許可証を見せれば買える。国から武器の所持と帯剣を認められているからな」
「では、誰でも自由に剣を持てるわけではないのですね」
「当然だ。そんなことになったら、街中が面倒なことになる」
レオンも頷いた。
「騎士資格証があれば、購入と所持の確認は通る。もちろん、記録は残る」
「記録が残るのですか」
「誰がどのような武器を買ったかは、後で確認できるようにしておく必要がある」
マリは少しだけ真面目な顔になった。
「思ったより、きちんとしているのですね」
「剣は飾りでもあるが、武器でもあるからな」
リリアは剣帯の棚に視線を移した。
「お兄様は、どのようなものをお探しなのですか」
「丈夫なものがいい」
「飾りはなくてもよろしいのですか」
「いらない」
「お兄様らしいですね」
レオンは棚の前でしばらく迷い、黒い革の剣帯を手に取った。
装飾は少ない。
だが、革は厚く、金具の作りもしっかりしている。
余計な飾りはないが、実用には向いていそうだった。
「これにする」
「ずいぶん地味だな」
クリスが言う。
「使いやすそうだ」
「お前らしいな」
クリスは笑った。
レオンは剣帯を持って、店員のところへ向かった。
リリアとマリは、少し離れた場所で短剣用の革鞘を見ている。
クリスはその横で、留め具の棚を眺めていた。だが、視線だけはちらりとレオンの方へ向いている。
「クリスさん、どうかなさいましたか?」
リリアが小さく尋ねた。
「いや」
クリスは少し笑った。
「あいつ、ちゃんと金を払えるのかなと思ってな」
「お兄様なら、大丈夫だと思います」
リリアは当然のように答えた。
マリも、レオンの背中を見て、控えめに頷く。
「レオン様は、きちんとなさると思います」
「そうだな。そうだといいな」
クリスは冗談半分で言った。
半分は、本気だった。
騎士としては信用できる。
副長としても、嫌々ながら仕事はする。
だが、普通の店で普通に金を払い、普通に釣りを受け取る。そういうことが問題なくできるかと聞かれると、少しだけ不安があった。
言った直後だった。
支払い自体は、すぐに終わるはずだった。
だが、しばらくして戻ってきたレオンの顔は、少し険しかった。
「クリス」
「どうした」
「衛兵を呼んでくれ」
「は?」
「詐欺だ」
店内の空気が止まった。
店員が慌てて顔を上げる。
「お、お客様。私はごまかしておりません」
「嘘をつくな」
レオンは、手の中の銀貨を見せた。
「商品は金貨一枚と銀貨五枚だった。俺は金貨二枚を渡した。ならば、釣りは銀貨五枚のはずだ」
「はい。ですから、帝国銀貨一枚をお返ししました」
「だからおかしいと言っている」
レオンの声が少し低くなる。
「銀貨五枚の釣りを、銀貨一枚で済ませただろう」
店員は青くなった。
リリアとマリも、驚いてレオンを見る。
クリスはそこで、何かを察したように顔を押さえた。
「……レオン」
「何だ」
「お前、その銀貨をどこの銀貨だと思ってる」
「銀貨だろう」
「銀貨にも種類がある」
レオンの動きが止まった。
「種類?」
「ああ。金貨は帝国金貨で統一されている。どこの領地でも、金貨といえば基本的に帝国金貨だ」
「それは知っている」
「問題は銀貨だ。銀貨は地方でも鋳造している。騎士団領でよく使う銀貨と、帝国が鋳造している銀貨では価値が違う」
クリスは、レオンの手元を指した。
「今、お前が受け取ったのは帝国銀貨だ」
「帝国銀貨」
「帝国銀貨一枚は、地方銀貨五枚分の価値がある」
レオンは手の中の銀貨を見た。
「……五枚分?」
「五枚分」
「銀貨一枚ではなく?」
「銀貨一枚だ。ただし、帝国銀貨一枚だ」
クリスは店員を見る。
「値段は、帝国金貨一枚と地方銀貨五枚だったんだな?」
「はい」
「レオンは帝国金貨二枚を渡した」
「はい」
「釣りは地方銀貨五枚分。つまり帝国銀貨一枚で合ってる」
「はい」
沈黙が落ちた。
レオンは、もう一度手の中の銀貨を見た。
それから、店員を見た。
「……すまない」
深く頭を下げる。
「俺の勘違いだった」
店員は慌てて首を横に振った。
「い、いえ。分かっていただければ」
クリスも横から軽く頭を下げた。
「悪いな。こいつ、武具店初心者なんだ」
「初心者にも限度があります」
マリが小さく呟いた。
リリアは少し困ったように笑った。
「でも、事実を知ることができてよかったです」
「よくない」
レオンは低く答えた。
「俺は今、店員を詐欺師扱いした」
「まあ、それはそうだな」
クリスが言う。
「反省しろ」
「している」
「ならいい」
よくはなかった。
レオンは、新しく買った剣帯を受け取った。
初めて自分で選んで買った武具だった。本来なら、少しは満足してもいいはずである。
だが、今のレオンには、剣帯の重さよりも、自分の失敗の方が重かった。
四人は店員にもう一度礼を言い、武具店を出た。
■騎士団領市街・帰り道
武具店を出た後、四人は副長府へ戻る道を歩いていた。
日はまだ完全には傾いていない。
通りには人が多く、店先からは夕方前の呼び込みの声が聞こえている。
リリアとマリは、少し後ろからレオンを気遣うように見ていた。
レオンは無言だった。
明らかに落ち込んでいる。
クリスはしばらく黙って歩いていたが、やがて横から言った。
「なあ、レオン」
「何だ」
「お前、この前、仕事が嫌で逃げるとか言ってただろ」
「言ったかもしれない」
「言ったんだよ」
クリスは呆れたように息を吐いた。
「でもな、銀貨の違いも分からない。武具店での買い物もままならない。そんな状態で、とてもじゃないが旅なんかできないぞ」
レオンの足が止まった。
リリアも、マリも止まる。
「……旅」
「ああ」
クリスは容赦なく続けた。
「旅に出たら、誰も横で貨幣の違いを教えてくれないぞ。店員を詐欺師扱いしたら、その場で揉める。衛兵を呼ぶ前に、お前が怪しまれる可能性だってある」
「……」
「しかも、お前は顔が知られてる。変な騒ぎを起こしたら、副長が市井の店で釣り銭を間違えて怒鳴ったって話になる」
「やめろ」
「事実だろ」
「やめてくれ」
レオンは本気で落ち込んでいた。
リリアが慌てて声をかける。
「お兄様、大丈夫です。知らなかったことを、今日知ることができたのですから」
「そうです」
マリも頷いた。
「誰でも最初は知らないことがあります。お兄様は、これから覚えればいいだけです」
「……これから」
レオンは低く呟いた。
「俺は今まで、剣を持って戦うことや、騎士団の仕事ばかり覚えてきた」
「それは、とても大切なことです」
リリアが言う。
「でも」
レオンは手の中の剣帯を見る。
「普通に店に入って、普通に物を買うことも、まともにできなかった」
「一度間違えただけです」
マリが言う。
「一度で済んだからよかったんだよ」
クリスが横から言った。
「俺たちがいなかったら、お前、大変なことになってたぞ」
レオンは肩を落とした。
「分かっている」
今日一日で、何度も思い知らされた。
自分は、騎士団の中では動ける。
書類も読める。
剣も振れる。
指揮も取れる。
だが、騎士団領の街で普通に買い物をして、通貨の違いを判断して、店員と自然にやり取りする。
そういう当たり前のことを、ほとんど知らなかった。
「俺は、本当に世間を知らないんだな」
レオンは小さく言った。
リリアは何かを言おうとしたが、すぐには言葉が出なかった。
マリも同じだった。
クリスは、少しだけ表情を和らげる。
「まあ、だから一人で逃げるのはやめとけ」
「逃げる前提で話すな」
「お前が先に言ったんだろ」
「言っていない」
「言った」
「覚えていない」
「都合の悪い記憶を消すな」
リリアが小さく笑った。
マリも、少しだけほっとしたように息を吐く。
レオンはまだ落ち込んでいた。
だが、完全に黙り込むほどではなかった。
「……剣帯は買えた」
「そうだな」
「初めて自分で選んだ」
「それは悪くない」
「だが、店員を詐欺師扱いした」
「そこに戻るな」
「戻るだろ」
「謝ったんだから、次から気をつければいい」
クリスはそう言って、レオンの肩を軽く叩いた。
「旅に出る前に、まず買い物の練習だな」
「旅には出ない」
「そうか」
「出ない」
「なら、副長府で働け」
「それも嫌だ」
「わがままか」
レオンは答えなかった。
リリアは笑いをこらえながら、レオンの手元を見た。
「でも、お兄様。その剣帯、とてもお似合いになると思います」
「そうか」
「はい。お兄様らしいです」
マリも頷いた。
「飾りは少ないですが、しっかりしていて、よい品だと思います」
レオンは、ようやく少しだけ剣帯を見た。
「……そうだな」
落ち込みは消えない。
だが、買ったこと自体が間違いだったわけではない。
知らなかったことを知った。
恥もかいた。
謝罪もした。
それでも、剣帯は手元に残った。
初めて自分で選び、初めて自分で買った剣帯である。
レオンは小さく息を吐いた。
「次は、先に貨幣を確認する」
「そうしろ」
クリスが即答した。
「あと、詐欺だと思っても、衛兵を呼ぶ前に俺に聞け」
「お前がいればな」
「いなかったら?」
「……店員に確認する」
「よし」
クリスは満足そうに頷いた。
「一歩前進だ」
「低い前進だな」
「お前には必要な前進だ」
レオンは否定できなかった。
市街の通りを抜けると、副長府庁舎の屋根が見えてくる。レオンはその方角を見て、また少しだけ重い息を吐いた。
逃げたい。
その気持ちは、まだある。
だが、今の自分が何も知らないまま外へ出れば、逃げるどころか、最初の街でつまずくかもしれない。
そう思うと、逃げる道まで遠く感じた。
クリスはそんなレオンを横目で見て、少し笑った。
「副長」
「何だ」
「まずは明日も仕事だな」
「……最悪だ」
レオンは、心の底からそう言った。
リリアとマリは、顔を見合わせて小さく笑った。
新しい剣帯を持った副長は、その日、少しだけ世間を知った。
そして、少しだけ逃げ道が遠くなった。




