第2章14話 かかとは鳴らしてはいけない
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領――街中
レオンハルト・ヴァイスは、少しだけ浮かれていた。
もちろん、表情には出ていない。
歩き方も普段とほとんど変わらない。
背筋は伸び、視線は前を向き、腰には剣がある。
だが、気分はいつもと違っていた。
今日は休みである。
書類がない。
予定表がない。
イリスの迎えもない。
エリシアの「必要ですので」もない。
シエラの質問もない。
それだけで、町の空気が少し違って感じられた。
通りには、朝から人が多かった。
荷車を押す男。
野菜を並べる女。
水桶を運ぶ子ども。
店先で値段を交渉している商人。
焼きたてのパンを抱えて歩く老人。
どれも、騎士団の中ではあまり見ない光景だった。
レオンは、ゆっくりと歩く。
急ぐ必要はない。
目的地もない。
誰かに呼ばれているわけでもない。
それが、少し不思議だった。
「……悪くないな」
小さく呟く。
仕事ではない街。
任務ではない道。
視察ではない人の流れ。
ただ見ているだけなのに、妙に新鮮だった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
靴である。
いつもの騎士靴ではない。
今日は私服に合わせ、少し柔らかい革靴を履いていた。しかし、普段履き慣れていないせいか、どうにも足元が落ち着かない。
「少し、合っていないな」
レオンは足を止め、右足のかかとを地面に軽く打ちつけた。
こつ。
こつ。
二度。
革靴の具合を確かめるつもりだった。
その瞬間、近くを通りかかっていた一台の馬車が、急に止まった。
「……ん?」
レオンは馬車を見る。
馬車の御者も、レオンを見た。
「旦那、どこまでですかい?」
「何の話だ?」
「何の話って、馬車でしょう」
「馬車?」
「ええ。呼んだじゃありませんか」
「呼んでいない」
御者は首をかしげた。
「でも今、かかとで二度、道を鳴らしましたよね」
「ああ。靴が合っているか確かめただけだ」
「いやいや、それは馬車を止める合図でしょう」
「そうなのか?」
「そうなのか、って。旦那、この辺の人じゃないんですかい?」
レオンは少し黙った。
この辺の人間ではある。
少なくとも、東ロンバルディア帝国騎士団領で働いている。
しかし、この辺の常識を知っているかと言われると、かなり怪しい。
「この辺で働いてはいる」
「働いてはいる?」
「だが、街には詳しくない」
「ああ、そういうことですかい」
御者は納得したような、していないような顔をした。
「まあいいや。どこへ行きます? 近場なら銅貨三枚、繁華街の向こうまでなら五枚。荷物があるなら少し上がりますが、旦那一人なら――」
「待て。俺は乗らない」
「乗らない?」
「ああ」
「でも止めたでしょう」
「だから、止めていない」
「止まりましたよ、こっちは」
「俺も困っている」
「こっちも困ってますよ」
レオンは、どうするべきか分からなかった。
馬車を呼んだつもりはない。
だが、相手は呼ばれたと思って止まった。
このまま去れと言うのも妙である。
その時だった。
「お兄様!」
「レオン様!」
後ろから、二つの声が飛んできた。
レオンは振り返る。
リリアとマリニーファが、少し慌てた様子でこちらへ駆け寄ってきていた。
「お前たち」
レオンは目を細める。
「どうしてここにいる」
リリアは一瞬だけ視線をそらした。
マリニーファはまったくそらさなかった。
「偶然です」
「嘘をつくな」
「では、見守りです」
「ついて来るなと言ったはずだ」
「少し離れていました」
「距離の問題ではない」
リリアが、すぐに御者へ頭を下げた。
「すみません。こちらの勘違いです。馬車を止めるつもりはありませんでした」
「いえ、まあ、間違いなら仕方ありませんけど」
リリアは小さな財布を取り出し、銅貨を数枚渡した。
「お手間を取らせてしまいましたので」
「おっと。いいんですかい?」
「はい」
御者は少しだけ表情を緩めた。
「なら、まあ。間違いってことならそれで。旦那、次からは気をつけてくださいよ。この辺じゃ、かかとで道を二度鳴らすのは、馬車を止める合図ですからね」
「覚えておく」
「それじゃ、いい休日を」
御者は軽く手を上げ、馬車を進めていった。
馬車が遠ざかる。
レオンはしばらく、その後ろ姿を見ていた。
かかとを二度鳴らす。
それだけで馬車が止まる。
そんなことも知らなかった。
「お兄様」
リリアが、少し困った顔で言った。
「かかとで道路を二回鳴らすのは、辻馬車に用がある時の合図なんです」
「辻馬車」
「はい。この辺りでは常識です」
「そうか」
レオンは、自分の足元を見る。
ただ靴の具合を確かめただけだった。
だが、それはこの町では意味を持つ行為だった。
「本当に、俺は何も知らないんだな」
小さく漏れた言葉に、リリアが少しだけ眉を下げる。
「お兄様」
「いや、いい。知れたなら、それでいい」
レオンは顔を上げた。
「知らないことを知るために来たんだ。初日から収穫はあった」
「初日というほど長く歩いていません」
マリニーファが真顔で言った。
「まだ街歩きは始まったばかりです」
「そうだな」
「だから言ったんです。私がついて行った方がいいと」
「お前は、俺が迷子になって泣くと思っていたんだろ」
「泣くかどうかは確認項目です」
「確認するな」
「ですが、今のように、街の常識を知らずに馬車を止めてしまうこともあります」
「それは認める」
リリアが一歩前に出た。
「私がいれば大丈夫です。お兄様、街のことでしたら、私が説明します」
マリニーファもすぐに言う。
「私も案内できます。副長の健康状態と迷子状態を確認しながら歩けます」
「迷子状態という言葉を作るな」
「必要な状態分類です」
「必要ない」
レオンは二人を見た。
リリアは心配している。
マリニーファも心配している。
方向性は少し違うが、心配していることだけは同じだった。
そして、先ほどの出来事を考えると、完全に断り切るのも難しい。
街の常識を知らない。
それを、目の前で証明してしまったばかりである。
「……分かった」
リリアとマリニーファが同時に顔を上げた。
「今回は、少しだけ一緒に歩いてくれ」
「はい!」
リリアの声が明るくなる。
「分かりました」
マリニーファも真面目に頷いた。
「ただし、護衛ではない。案内だ」
「はい」
「健康観察でもない」
「努力します」
「努力ではなく、やめろ」
「分かりました。控えめにします」
「控えるな。やめろ」
リリアが小さく笑った。
レオンは少しだけ肩の力を抜く。
「せっかくだ。少し買い物もしてみたい」
「買い物ですか?」
「ああ。特に必要な物があるわけではないが、自分で選んで買ってみるのも悪くないと思っている」
「では、繁華街の方へ行きましょう」
リリアが言う。
「お店も多いですし、屋台も出ています」
「屋台か」
「はい」
マリニーファが少し前へ出た。
「副長が迷子にならないよう、道順を確認します」
「まだ言うか」
「大切ですので」
レオンは小さく息を吐いた。
こうして、一人で町を歩くはずだった休日は、三人での町歩きになった。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
知らないものを見るなら、知っている者がそばにいるのも悪くない。
そう思うことにした。
■東ロンバルディア帝国騎士団領・繁華街手前
繁華街へ近づくと、人の数が増えた。
通りの両側に店が並び、布、革製品、干し肉、香辛料、菓子、道具類が所狭しと置かれている。
売り声が飛ぶ。
客が笑う。
子どもが走る。
レオンは、少しだけ足を緩めた。
騎士団の中とは違う。
同じ領内なのに、まったく違う場所のようだった。
その時、甘い匂いがした。
油で揚げたような香ばしさ。
そこに砂糖の甘さが混じっている。
レオンは匂いの先を見る。
屋台があった。
揚げた菓子のようなものが、紙に包まれて並んでいる。
屋台の上には、小さな幟が立っていた。
そこには、こう書かれている。
ポンペイト。
「マリニーファ」
「はい」
「あれは何だ」
リリアとマリニーファが同時にレオンを見た。
その反応で、レオンは嫌な予感がした。
「お兄様」
「何だ」
「ポンペイトをご存じないのですか」
「知らない」
「本当に?」
「本当にだ」
マリニーファも目を丸くしていた。
「副長。ポンペイトは、この町の名物です」
「名物なのか」
「はい。東ロンバルディア帝国騎士団領の名物です」
「そんなに有名なのか?」
リリアが少しだけ困ったように笑う。
「名物はいくつかありますけれど、その中でもポンペイトはかなり有名です」
「そうなのか」
「この領内でポンペイトを知らない方は……」
リリアは言葉を止めた。
そして、申し訳なさそうに続ける。
「たぶん、お兄様くらいかもしれません」
「そうか」
「すみません」
「謝ることではない」
レオンは屋台を見る。
自分は、この領内の副長である。
それなのに、領内の名物菓子を知らない。
書類上の物資の流れは知っている。
訓練場の使用予定も知っている。
各大隊の人員配置も知っている。
だが、街の人たちが何を食べているのかは知らない。
「本当に、俺は何も知らないな」
今度は、少し苦く笑った。
マリニーファが言う。
「では、食べてみますか」
「ああ。食べてみたい」
「私たちも食べます」
リリアが少し楽しそうに言った。
屋台へ近づくと、店主が笑顔で声をかけてきた。
「ポンペイト、揚げたてだよ」
「三つもらえるか」
「はいよ」
紙に包まれたポンペイトが、三つ渡される。
リリアが自然に払おうとしたが、レオンが先に銅貨を出した。
「今日は俺が買う」
「お兄様」
「買い物の練習だ」
「……はい」
リリアは少し嬉しそうに頷いた。
レオンは紙包みを受け取る。
中には、細長く切った芋を揚げ、砂糖をまぶしたような菓子が入っていた。
温かい。
一つ口に入れる。
外は少し香ばしい。
中は柔らかい。
砂糖の甘さと、芋の甘さが重なる。
「……こういう味なのか」
「どうですか」
「菓子みたいなものだな」
「菓子です」
マリニーファが即座に言った。
「そうか」
「子どもの頃から、みんなよく食べます」
リリアがポンペイトを手に、懐かしそうに言った。
「お祭りの日や、訓練の帰りに買う人も多いです」
「そうか」
レオンはもう一つ食べた。
甘い。
それほど高価なものではない。
特別な式典の料理でもない。
だが、誰かにとっては、子どもの頃から知っている味なのだろう。
自分は子どもの頃、何をしていただろうか。
訓練。
勉強。
剣。
礼法。
家のこと。
騎士になるために必要なもの。
その中に、こうして屋台の前で菓子を食べる時間は、あまりなかった気がする。
「みんな、こういうものを食べて育つものなのか」
レオンが小さく言うと、リリアが少しだけ表情を柔らかくした。
「全部ではありません。でも、こういう思い出がある人は多いと思います」
「なるほど」
レオンは紙包みを見る。
「なら、今日は少し街を知ったことになるな」
「はい」
マリニーファが頷く。
「ただし、まだ初歩です」
「厳しいな」
「街歩き初心者ですので」
「それはもういい」
その時だった。
レオンは、ふと背後に気配を感じた。
振り返る。
短い顔があった。
クリスだった。
「……お前」
「よお」
「来ないんじゃなかったのか?」
「俺はお前の後をつけてたわけじゃない」
「では何だ」
クリスはポンペイトを一つ手に持っていた。
「二人の後をつけてた」
「余計に悪いだろ」
「いや、見かけたんだよ。リリアとマリニーファが妙にこそこそしてたからな。何をしてるのか気になって、少し後ろからついてきただけだ」
「それをつけていると言う」
「細かいな」
マリニーファが、じっとクリスを見た。
「気持ち悪い人です」
「相変わらずひどいな、君は」
「事実です」
「事実じゃない。俺はたまたま見かけて、少し後ろを歩いていただけだ」
「気持ち悪い人の言い訳です」
「追撃がきつい」
リリアは困ったように笑っていた。
レオンはポンペイトの包みを見下ろし、それからクリスを見た。
「お前も食べているのか」
「当たり前だろ。ポンペイトだぞ」
「そんなに当たり前なのか」
「当たり前だ」
「そうか」
レオンは小さく息を吐いた。
馬車の合図。
町の名物。
自分の後ろをついてくる者たち。
休みの日に、普通に町を歩く。
ただそれだけのはずだった。
だが、どうやら普通の休日というものも、レオンにとっては簡単ではないらしい。




