第2章12話 相談相手を間違えたかもしれない
――帝国暦三二一年・冬初め東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎・小食堂――朝
レオンの休みは月に二日しかない。
しかも、その二日を本当に休みにするためには、休みの前日に仕事を片付けておかなければならない。
だが、昨日、休み明けに副長府へ戻ると、机の上には書類が積み上がっていた。午後にはさらに増えていた。片付けたつもりだった。
イリスは何も言わなかった。ただ、いつものように静かに書類を整えていた。
そして翌朝。
副長府庁舎が本格的に動き出す前の時間に、レオンはクリス・ラングレーを小食堂へ呼び出していた。
朝しか時間がなかった。
昼は執務が詰まっている。
夕方以降は、さらに詰まる。
だから、相談するなら朝しかなかった。
「……朝から何だよ」
クリスは、小食堂の椅子に腰を下ろしながら言った。
「こっちは第四大隊の確認があるんだぞ。まあ、そこまで詰まってるわけじゃねぇけど」
「相談がある」
レオンは向かいに座っていた。
机の上には、茶が二つ。
朝食らしいものはない。
少なくとも、食事と呼べる量ではなかった。
「相談?」
クリスは眉を上げる。
「お前が俺に?」
「ああ」
「珍しいな」
「俺もそう思う」
「自覚あるならいいけどよ」
クリスは茶を一口飲んだ。
「で、何だ。副長府の仕事が多すぎるとか、そういう話か?」
「そうだ」
「そのままかよ」
クリスは軽く笑った。
「まあ、大変なのは分かるけどな。でも、最近はみんな楽になってるって言ってるぞ」
「みんな?」
「ああ。第四大隊もそうだし、書記官たちもそうだ。人が増えたし、休みも増えたって、結構喜んでる」
「……楽になっているのか」
「なってるだろ」
レオンは、少しだけクリスを見た。
睨んだつもりはなかった。
だが、クリスはすぐに顔をしかめた。
「睨むなよ」
「睨んでいない」
「睨んでたぞ」
「そうか」
「お前だって、休みは取れてるんだろ?」
「取れている」
「なら、そこはみんな同じじゃねぇか」
「月に二日だ」
「……ん?」
「俺の休みは、月に二日だ」
クリスは止まった。
茶器を持つ手も止まった。
「待て」
「何だ」
「週に二日じゃなくてか?」
「月に二日だ」
「……少なくないか?」
「少ない」
「自覚はあるんだな」
「ああ」
「いや、あるなら何とかしろよ」
「一昨日が休みだった」
「ああ」
「久しぶりの休みだった」
「それはよかったじゃねぇか」
「よくなかった」
「休めなかったのか?」
「休みはした」
「ならいいだろ」
「休み明けに戻ったら、机の上に書類が積み上がっていた」
「……まあ、仕事が止まるわけじゃねぇからな」
「休み前に片付けたはずだった」
「そうだな」
「昨日の午後には、すでに今日の分も混ざっていた」
「それは嫌だな」
「今朝にはさらに増えていた」
「だいぶ嫌だな」
「イリスを見た」
「殿下を?」
「ああ」
「何か言われたのか」
「何も言われていない」
「ならいいだろ」
「違う」
レオンは低く言った。
「目で言われた」
「目で?」
「ほら、休むとこうなるのですよ、という目だった」
クリスは黙った。
茶を飲もうとして、やめた。
「……そこまでは、殿下も言ってないだろ」
「言葉ではな」
「目でも、そこまでは言ってないんじゃねぇか?」
「あれは絶対にそういう目だった」
「考えすぎだと思うぞ」
「違う」
「本当か?」
「イリスは笑っていた」
「ああ」
「だが、目が笑っていなかった」
「……それは少し怖そうだな」
「少しではない」
「でも、たぶん考えすぎだ」
「そうだろうか」
「そうだろ。殿下だって、お前に休むなとは言わねぇよ」
「だが、休んだら書類が増えた」
「それは仕事量が多すぎるだけだ」
「俺が休んだせいではないのか」
「少なくとも、休んだこと自体は悪くねぇよ」
「本当にか」
「本当にだ」
レオンは黙った。
信じたい気持ちはあった。
だが、机に積み上がった書類の山と、イリスの静かな視線を思い出すと、どうしても信じ切れなかった。
「それに最近、皆が俺の前で休みの話をする」
「休みの話?」
「ああ。今日は帰りに菓子店へ寄るとか、明日は家族と食事をするとか、勤務が早く終わると体が楽だとか」
「普通の会話だろ」
「俺の前でだ」
「お前を傷つけるために話してるわけじゃねぇよ」
「そうだろうか」
「そうだろ」
「第四大隊でもそうなのか?」
「何が」
「帰りにどこへ寄るとか、休みに何をするとか」
「するぞ。普通にする」
「そうか」
「何でそこで沈むんだよ」
「俺以外は楽になっている」
「それは、まあ、そうかもしれないけどな」
「俺の作った仕組みで、俺以外が帰っている」
「言い方が重い」
「そして俺は、毎日仮眠室に帰っている」
「そこは本当に重い」
クリスは深く息を吐いた。
そして、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういや、リリアが心配してたぞ」
「リリアが?」
「ああ。最近、お兄様が家に帰ってこないってな。忙しいのは分かるけど、どうなってるんだって」
「そうか」
「そうか、じゃねぇよ。お前、リリアとは毎日会ってるんだろ?」
「ああ」
「なら、その場で言えよ。今日は帰れない、心配するなって」
「その場でか」
「その場でだよ。職場が同じなんだから」
「そうか」
「そうかじゃねぇよ。今まで何してたんだ」
「最近は書類しか目に入っていない」
「駄目だろ」
「リリアの顔を見ても、先に書類のことを考えてしまう」
「忘れるな。妹だろ」
「忘れているわけではない。書類の後ろに隠れる」
「それはもう相当駄目だぞ」
クリスは頭をかいた。
「まさかとは思うが、お前、屋敷には帰ってるよな?」
レオンは少しだけ目を逸らした。
その反応だけで、クリスは嫌な予感がした。
「おい」
「副長府が発足してからは、まだだ」
「まだだ、じゃねぇんだよ」
クリスは思わず声を低くした。
「一日もか?」
「一日もだ」
「もうひと月だぞ?」
「お前、仮眠室で生活してんのか?」
「生活ではない」
「寝泊まりしてるなら生活だろ」
「仕事上の仮眠だ」
「何日も続いたら、それは仮眠じゃなくて住居だ」
「違う」
「違わねぇよ」
「今日も、もしかして仮眠室から出てきたのか?」
「そうだ」
「即答するな」
「事実だ」
「だから問題なんだよ」
レオンは茶器を見た。
「通常でも、夜十時近くまでは仕事がある」
「それで仮眠室か」
「終わればな」
「終わらなければ?」
「終わるまで片付ける」
「駄目だろ」
「分かっている」
「分かってるなら帰れ」
「帰れない」
「帰れないんじゃなくて、帰ってないんだろ」
「帰る前に仕事が増える」
「仕事が終わらないのか?」
「終わる」
「終わるのかよ」
「終わる時は終わる。だが、増える速度が尋常ではない」
「嫌な言い方だな」
「人が増えた」
「ああ」
「人が増えれば、処理できる仕事も増える」
「まあ、そうだな」
「すると、俺のところへ上がってくる確認も増える」
「……ああ」
「皆が楽になった分、仕事の流れがよくなった」
「いいことじゃねぇか」
「その流れが、最後に俺のところへ来る」
「よくねぇな」
「だから毎日帰れない」
「仕事量が多すぎるんだよ」
クリスは言って、茶を置いた。
「お前さ」
「何だ」
「他の奴らが楽になってるのは、本当だと思うぞ」
「ああ」
「でも、それでお前まで楽になったと思ってた。少なくとも、前よりはましになってると思ってた」
「俺も、そうなればいいと思っていた」
「思ってただけか」
「ああ」
「何でお前だけ取り残されてるんだよ」
「知りたい」
「俺に聞くな」
レオンは、しばらく黙った。
「一度、逃げ出そうとした」
「したのかよ」
「した」
「いつだ」
「休み前だ」
「それで?」
「仕事を全部終わらせてから出ようと思った」
「逃げ出す前に仕事を終わらせようとするな」
「残したら戻った時に増える」
「そういうところだぞ」
「結果的に、逃げられなかった」
「何でだ」
「終わらせても、次が来た」
「仕事に捕まってるじゃねぇか」
「だから逃げられなかった」
「逃走失敗というより、仕事に負けてるだけだろ」
「同じだ」
「同じじゃねぇよ」
「結果は同じだ」
「まあ、帰れてないなら同じかもしれねぇけど」
クリスは呆れたように息を吐いた。
「お前、そんな働き方してるから、仕事好きだって思われるんだぞ」
レオンは顔を上げた。
「違う」
「違うのは知ってる」
「俺は仕事が好きではない」
「それも知ってる」
「帰りたい」
「知ってる」
「休みたい」
「知ってる」
「逃げようとした」
「今聞いた」
「それでも仕事好きだと思われるのか?」
「思われるだろ」
「なぜだ」
「月に二日しか休みがなくて、家にも帰らず、仮眠室でいつも寝て、休み前に仕事を全部片付けて、それでも休み明けに書類が積み上がってたらまた処理してるからだよ」
「必要だからだ」
「そういうところだ」
レオンは黙った。
クリスは少しだけ声を落とす。
「たぶん、マリニーファにもそういうところを見られたんだろ」
「……」
「そんな仕事の仕方をしてるから、ああいうことを言われるんだぞ」
「俺が悪いのか?」
「悪いとは言ってない」
「言っているように聞こえる」
「悪いっていうか、外から見るとそう見えるって話だ」
「仕事が好きに?」
「ああ」
レオンは静かに茶器を見た。
仕事が好きではない。
それは絶対に違う。
だが、休み前に仕事を全部片付けた。
休み明けに戻って、増えた書類を見た。
家に帰れず、仮眠室で寝ている。
逃げようとして、結局、仕事に捕まった。
その結果、また仕事をしている。
これを外から見れば、仕事から逃げていない人間に見えるのかもしれない。
いや。
そう見えてしまうのかもしれない。
「クリス」
「何だ」
「相談相手を間違えたかもしれない」
「今さらかよ」
「お前に話したら、余計に俺が仕事好きに見えてきた」
「俺のせいにするな」
「だが、誰にも言わないよりは少しだけましだった」
「それならいいだろ」
「よくはない」
「まあ、よくはないな」
クリスは椅子にもたれた。
「とりあえず、リリアにはその場で言え」
「……分かった」
「今日だぞ」
「分かった」
「書類を見る前に言え」
「それは難しい」
「そこを難しくするな」
「善処する」
「善処じゃ足りねぇんだよな」
クリスは苦笑した。
「まあ、頑張れ。副長」
「その呼び方はやめろ」
「今は公式の場じゃねぇけど、面白いからな」
「面白さで呼ぶな」
「じゃあ、レオン」
「ああ」
「帰れよ」
「帰れたらな」
「そこからもう駄目なんだよ」
クリスは呆れながら、小食堂を出て行った。
残されたレオンは、しばらく茶器を見ていた。
仕事は減っていない。
書類も減っていない。
月に二日しかない休みも、休みとして機能していない。
屋敷には帰れていない。
仮眠室は、だんだん自室に近くなっている。
それでも、誰にも言わないよりは、少しだけましだった。
少なくとも、リリアへ直接言うことは思い出した。
レオンは小さく息を吐き、立ち上がる。
第一執務室へ戻らなければならない。
帰りたい。
休みたい。
寝たい。
食事を普通に取りたい。
だが、今はまず。
リリアに会ったら、言うことにした。
今日は帰れない、でも心配するな。
それだけで足りるのかは、分からない。
ただ、何も言わないよりはいい。
クリスの言葉は、珍しく役に立った。
そこだけは、認めてもよかった。




