第2章11話 第四大隊長は健康そうです
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎――第一執務室
クリス・ラングレーは、結局、第一執務室の中にいた。
いつも通りの軽い足取りだった。
そして、いつも通り、仕事の邪魔になっている可能性をあまり考えていなさそうな顔で、レオンハルト・ヴァイスの机の近くまで来る。
「何だよ。朝からずいぶん重い空気だな」
クリスが室内を見回す。
第一執務室の職員たちは、ちらりとそちらを見ただけで、すぐに手元へ視線を戻した。
慣れている者は、また来た、という顔をしている。
慣れていない者は、誰だろう、という顔をしている。
レオンは、机の上の書類を見ていた。
見てしまっていた。
「副長」
イリスが静かに言った。
「何だ」
「今、書類を見ました」
「見るだけなら仕事好きではない」
「そうですね」
「そうですね、の言い方が信用できない」
イリスは何も答えなかった。
レオンは深く息を吐いた。
マリニーファ・ローレンによる、レオン様呼び。
それは、レオンが許可した覚えのないまま、なぜか許可されたような空気になっていた。
レオンとしては、かなり言いたいことがあった。
自分は仕事を愛していない。
マリニーファと同じ種類の人間でもない。
仕事を愛する同志でもない。
まして、仕事中にレオン様と呼ばれる理由などない。
そう言いたかった。
だが、その前に、自分が本当に仕事を嫌いなのかどうかが、未だに少し分からなくなっていた。
イリスには、大抵の者はレオンを仕事好きだと思っている、と言われた。
リリアには、疲れていても必要な仕事から逃げないところが素晴らしい、と言われた。
メリーには、仕事が嫌いなのに仕事をしているのは難しい、と言われた。
そして、マリニーファには、仕事を愛する同志として見られている。
絶対に違う。
絶対に違うはずだ。
だが、違うなら、なぜ自分は今も書類を見ているのか。
その答えが、まだ出ていない。
レオンは、目の前に立っているクリスを見た。
「クリス」
「何だ」
「俺は、仕事好きに見えるか?」
クリスは、完全に止まった。
第一執務室も、一瞬だけ静かになった。
クリスは、レオンの顔をまじまじと見た。
「……お前、大丈夫か?」
「答えろ」
「いや、その前に確認させろ。何があった?」
「俺は、仕事好きに見えるのか?」
「急に怖いことを聞くな」
「怖いことなのか?」
「朝から友人に真顔で聞かれるには怖い」
「答えてくれ」
「嫌だ」
「なぜだ」
「答えたら面倒なことになりそうだからだ」
「もうなっている」
「だろうな」
クリスは、もう一度レオンの顔を見た。
いつものように茶化そうとしていた表情が、少しだけ引っ込む。
「本当に何があったんだ?」
「俺は、仕事が好きではない」
「それは知ってる」
「だが、周囲からは仕事好きに見えるらしい」
「まあ、そうだろうな」
「今、まあ、と言ったな」
「言った」
「見えるのか」
クリスは口を閉じた。
答えづらそうだった。
レオンは、そこで少しだけ身を乗り出して、クリスに迫る。
「クリス」
「何だよ」
「正直に答えてくれ」
「正直に答えると、お前が余計に沈む気がする」
「今の時点で沈んでいる」
「ならこれ以上沈むな」
「頼む」
クリスは困ったように髪をかいた。
それから、深く息を吐いた。
「……本人が仕事を嫌がってるのは知ってる」
「ああ」
「帰りたいって言ってるのも知ってる」
「ああ、勿論だ」
「できれば楽をしたいと思ってるのも知ってる」
「ああ、そうだ」
「でも、外から見ると、仕事を拾って、処理して、また拾ってる奴に見える」
「……」
「誰かが困ってたら拾うだろ」
「放っておくと増えるからだ」
「問題がありそうなら先に見るだろ」
「後で面倒になるからだ」
「必要な書類があったら確認するだろ」
「必要だからだ」
「お前のそういうところだ」
レオンは黙った。
クリスは、言いにくそうに続ける。
「好きかどうかは知らない。少なくとも、お前本人は嫌がってる」
「そうだ」
「でも、仕事から逃げている人間には、全く見えない」
「逃げたいとは思っている」
「思ってるだけで、結局逃げてない」
「逃げられないだけだ」
「それも、外から見たら同じだ」
「同じなのか」
「まあ、結果として同じに見える時はある」
レオンは、静かに視線を落とした。
「そうか」
「落ち込むな」
「落ち込んではいない」
「落ち込んでる顔だ」
「もしかして、俺はやはり仕事が好きなのかもしれない」
「そこまで行くな」
「だが、イリスにもそう言われた」
「殿下が言ったなら、だいぶ強いな」
「リリアにも褒められた」
「それはいつものことだろ」
「メリーには難しいと言われた」
「何があったんだ、本当に」
レオンは答えなかった。
答えられなかった。
その時、マリニーファが静かにクリスを見た。
「副長」
「何だ」
「この方は、よくこちらへいらっしゃいますけれど、どういう方なのですか?」
クリスが、入口付近で固まった。
レオンは少しだけ目を伏せる。
「クリス」
「レオン」
「普通の疑問だ」
「分かってる。分かってるけど、正面から言われると少し傷つく」
マリニーファは、さらにクリスを見た。
クリスの胸には、副長府の者が身につける剣と歯車の紋章がある。
だから、副長府の関係者だということは分かる。ただし、第一執務室の職員とは制服の色が違う。
本来ここにいる者ではない。
少なくとも、そう見える。
「フィアナさん」
マリニーファが言った。
「どういうことなのでしょうか?」
フィアナ・ルクスは少し考えたあと、真面目な顔で答えた。
「クリスさんは、第一執務室の所属ではありません」
「はい」
「でも、半分所属みたいなものです」
「所属みたいなもの」
「困った時に助けてくれる、便利な方です」
「便利な方」
「あと、寂しくなるとたまにこちらに来ます」
「それは違う」
クリスが即座に言った。
「違うぞ、フィアナ。紹介の仕方が全部おかしい」
「だいたい合っていませんか?」
「合ってない。少なくとも最後は違う」
「最後だけですか?」
「全部だ」
レオンは書類に手を置いたまま、静かに言った。
「だいたい合っているだろ」
「レオンまで言うな」
「お前は実際、用がなくても来る」
「用はある」
「今の用件は何だ」
「お前の様子がおかしかったからだ」
「入ってきた時点では知らなかっただろ」
「それはそうだが」
「つまり用はなかった」
「言い方」
マリニーファは、納得したようにうなずいた。
「やはり、寂しくなるといらっしゃる方なのですね」
「違う」
クリスは咳払いをした。
そして、姿勢を正してマリニーファへ向き直る。
「改めて自己紹介しよう。俺はクリス・ラングレー。第四大隊長だ。もともとは第七騎士団でレオンの下にいた。今は副長府の第四大隊を預かっている。だから、この第一執務室にも出入りしている。名前と所属くらいは、ちゃんと覚えておいてくれると助かる」
そこまで言って、クリスは少し得意げに胸を張った。
だが、マリニーファは、途中から横を向いていた。
見ていない。
明らかに、聞く姿勢ではなかった。
「……あれ?」
クリスの笑顔が止まる。
「聞いてるか?」
「音は聞こえています」
「それ、聞いてるって言わないんじゃないか」
「すみません」
「おう」
「少し、うるさいです」
「謝った直後に斬るな」
クリスは胸を押さえた。
マリニーファは、ようやくクリスの方を見た。
「第四大隊の隊長でいらっしゃることは分かりました」
「分かってくれたか」
「はい」
「ならよかった」
「では、第四大隊のお仕事があるのではありませんか?」
「ある」
「なぜこちらに?」
「だから、レオンの様子を見に」
「お仕事中にですか?」
「……まあ」
「なるほど」
マリニーファは、静かに結論を出した。
「不真面目な方なのですね」
「早い! 結論が早い!」
「いえ、十分でした」
「俺の自己紹介、ほぼ不利な証拠になってないか?」
「はい」
「はいなのか」
「……まあいい。俺は名乗った。では、君の名前は?」
「第一執務室所属、マリニーファ・ローレンです」
「そこはちゃんと言うんだな」
「最低限の礼儀ですので」
「なら俺にも最低限の礼儀をくれ」
「名乗りました」
「そういう意味じゃない」
クリスはレオンを見る。
「レオン、この子は何なんだ」
「俺が聞きたい」
「お前の部下だろ」
「第一執務室の職員だ。俺が集めたわけじゃない」
「でも、お前の周りにいるぞ」
「それを俺に言うな」
レオンは眉間を押さえた。
その姿を見て、マリニーファは少しだけ姿勢を正した。
「レオン様」
「今使うな」
「失礼しました、副長」
「用件は何だ」
「クリス様は、仕事を愛しているようには見えません」
クリスが黙った。
第一執務室も黙った。
レオンは、目を閉じた。
「マリニーファ」
「はい」
「それを本人の前で言うな。傷つく」
「ですが、確認は早い方がよいと思いまして」
「何の確認だ」
「仕事に向き合う方かどうかです」
「まず俺を基準にするな」
クリスは、自分を指さした。
「俺、今、何の試験を受けてるんだ?」
「副長は、仮眠室で寝ていたようなお顔で書類を見ていらっしゃいました」
「それは褒めてるのか?」
「はい」
「褒めてるのか……」
「ですが、クリス様は健康そうです」
「何が悪いんだ?」
「悪いことではありません」
「ならいいだろ」
「はい。健康は、とても良いことです」
「だよな」
「ですが、仕事中に余裕があるように見えて、私は落ち着きません」
「健康なだけで、そこまで言われるのか」
「健康なことが悪いのではありません。仕事に削られている感じがないのです」
「削られてたまるか」
「それに、今はお仕事の途中でこちらへいらっしゃっています」
「そう見えるだけだ」
「第四大隊のお仕事があるのですよね」
「ある」
「それなのに、こちらに」
「来た」
「不真面目です」
「戻った。結論が戻った」
マリニーファは、クリスをまっすぐ見た。
「私は、仕事に不真面目な方が大嫌いです」
クリスは、一瞬だけ黙った。
「……大嫌い?」
「はい」
「そこまで?」
「はい」
「俺、初対面でそんなに嫌われたのか?」
「初対面ではありません」
「え?」
「何度かお見かけしています」
「ああ、そうか。じゃあ、初対面ではないな」
「そのたびに、第一執務室の方ではないのに、なぜこちらにいらっしゃるのだろうと思っていました」
「前から積み上がってたのか」
「はい」
「今日だけじゃないのか」
「はい。以前から苦手でした」
クリスは、少しだけ後ずさった。
マリニーファは、丁寧に頭を下げた。
「ですので、申し訳ありません」
「おう」
「仕事に不真面目な方は死ぬほど嫌いなので、あまり話しかけないでください」
第一執務室が静まり返った。
クリスは笑おうとした。
笑えなかった。
「……死ぬほど?」
「はい」
「不真面目な方は?」
「はい」
「あまり話しかけないで?」
「はい」
クリスはゆっくりと膝をついた。
それから、床に両手をついた。
「レオン」
「何だ」
「俺、そこまで悪いことしたか?」
「仕事中に来た」
「それだけでか?」
「マリニーファにとっては、それだけではないらしい」
「前から積み上がってたらしいな」
「そうだな」
「教えてくれよ」
「俺も知らなかった」
フィアナが小さく口元を押さえた。
「フィアナ」
「すみません」
「笑うな」
「すみません」
「謝りながら笑うな」
クリスは床に両手をついたまま、しばらく動かなかった。
その時だった。
扉の外から、低く落ち着いた声がした。
「大隊長」
入口に立っていたのは、第四大隊付き副官、マルク・レイノルズだった。
旧第七騎士団第四中隊出身。
現在は、ヴァイス騎士団第四大隊に付いている。
マルクは室内を見回した。
そして、床に両手をついているクリスを見た。
「大隊長」
「……何だ」
「いつもはうるさいのに、今日はやたら静かですね」
「そこから入るのか」
「何かあったのですか?」
レオンは目を伏せた。
「聞かない方がいい」
「そうですか」
「そうだ」
マルクはうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
「確認中の書類があります」
「……分かってる」
「部隊の確認も残っています」
「それも分かってる」
「では、戻ります」
「少し待て。今は立ち上がる気力がない」
「そうですか」
マルクは、少し考えた。
それから、入口の外へ視線を向ける。
「台車を持ってきます」
「台車?」
「はい」
「俺を?」
「待て!」
「待ちません」
マルクは一度、第一執務室を出ていった。
少しして、車輪の音が近づいてくる。戻ってきたマルクは、書類運搬用の台車を押していた。
第一執務室の視線が、台車に集まる。
クリスは床に両手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「本当に持ってきたのか」
「はい」
「俺を載せる気か」
「はい、立ち上がる気力がないと言うので」
「もう少し迷え」
「戻る必要がありますので」
マルクは慣れた手つきで台車を止めた。
「大隊長、乗ってください」
「自分で乗るのか」
「運ぶだけでも十分譲歩しています」
「譲歩なのか」
「はい」
クリスはしばらく床を見ていた。
それから、力なく台車の上に乗った。
マルクは台車の向きを直す。
マリニーファは、その様子をじっと見ていた。
「お仕事に戻られるのですね」
「戻されてるんだよ」
「よいことです」
「よいことなのか」
「はい。お仕事をなさる方は、よい方です」
「今から挽回できるのか?」
「しばらく様子を見ます」
「まだ試験が続いてる」
マルクは何も言わず、台車を押した。
台車の上のクリスは、いつもよりずっと静かだった。
扉の近くで、マルクが少しだけ振り返る。
「副長」
「何だ」
「大隊長が静かすぎるので、午後にまた様子を見に来るかもしれません」
「来なくていい」
「承知しました」
「承知したなら来るな」
マルクは軽く頭を下げ、そのまま台車を押して第一執務室を出ていった。
扉が閉まる。
第一執務室には、少しだけ静けさが戻った。
レオンは深く息を吐いた。
「……何だったんだ」
「便利で、寂しくなると来て、不真面目で、健康そうで、私に話しかけないでいただきたい方でした」
マリニーファが丁寧にまとめた。
「まとめるな」
イリスが静かに書類を整えた。
「副長」
「何だ」
「書類の処理が止まっています」
「分かっている」
「原因の半分は、今の来客です」
「残り半分は何だ」
イリスは、何も言わずにマリニーファを見た。
マリニーファは首をかしげた。
レオンは目を閉じた。
「……聞くんじゃなかった」
「レオン様」
「今は副長でいい」
「失礼しました、副長」
「今は、という言葉を拾うな」
マリニーファは少しだけ嬉しそうに自分の書類へ戻った。
第一執務室の朝は、ようやく仕事に戻った。
ただし、レオンの疲労は、まだ少しも減っていなかった。




